通勤途中の人の波を、望月壮太郎は一人立ち止まった。 流れに逆らう自分がいる。流れゆく人々の後ろ姿を眺め、ふと、今の自分はどんな後ろ姿を見せているのだろうかと思った。 ついつい感傷的になってしまったが、現実的に自分の身なりが気になった。左手に書店のショーウィンドウが眼についたので、自分の姿を映してみた。 ネクタイがあらぬ方向に曲がっている。 身なりを整えると、ガラス窓の向こう側に並ぶトップセールスの書籍に視点の焦点が合った。中でも目を惹いたのは、讃良亮介の遺作『推理小説殺人事件』というタイトルの短編集だ。表題作のトリックと全く同じダイイング・メッセージが実際の事件で用いられ、それが著者自身が殺害された事件なのだから話題性は計り知れない。 事件は犯人の逮捕で一応の幕は閉じたと思われたが、犯人逮捕の2日後に寺元譲が出頭するという新たな進展を見せた。 寺元譲は、死ぬに死にきれなかったと言って出頭してきたのだという。左手首にはリストカットした傷跡が生々しく残っており、首筋には縊りきれなかった痣が残っていた。 取調室で寺元譲は、恐怖と緊張で全身は震え、話の脈絡は前後したが事件の全容を語った。 葛西篤美を犯行に走らせたのは、寺元譲だった。 毎日のように顔を合わせていくうちに、二人は次第に親密になっていたのだという。ほんの遊びだった寺元譲の気持ちとは裏腹に、葛西篤美の熱の入れようは異常だったため、次第に篤美の存在が邪魔になった寺元は結婚を餌に殺人を要求した。 邪魔者の讃良徳子と、葛西篤美の二人を体よく消せると思ったようだ。 しかし、何を思ったのか篤美は讃良亮介を殺してしまった。 讃良徳子の呼び出しで屋敷にいた寺元の元に、讃良亮介を殺した篤美がやってきた。篤美は手に10枚入りケースに入ったフロッピーディスクを持っていた。
――これ、先生のフロッピー。良かったら使って。これで譲くん、売れるといいね。
渡された篤美の指が、とても冷たかったという。
「計画がね、刑事さん。ことごとく外れるんですよ。あのコラムの時もそうだし、今回だって。あのクソ女と手を切ろうとしても必ず失敗する。讃良亮介を殺せなんて、俺、一言も言ってないんだ。あの馬鹿女に頼んだ俺が悪いんだけどさ、人殺すんだよ。アイツを殺せって言われたら、言われた人間殺すでしょ、普通。それなのに、何考えてるんだよ」
「ああ。そう言えば、実験してるとこ讃良のオッサンに見つかったな。いやね、最初は俺一人でアイツ殺そうと思ってたから。あの家、どこもかしこもセンサーついてるだろ。逃げ場がねえんだよ。解除したら向こうの会社に記録残るしよ。いろいろ家中探し回ったのよ。小さい窓とか、普段使わない勝手口みたいなのをさ。アイツら家中センサーだらけなのに、庭とか門とかは出入り自由なんだよ。ずぼらというか、抜けてるというか、要は馬鹿なんだな。 で、あったんだよ。書庫の上の方にあるでしょう、小さな採光窓。あれ。天井ぶち抜いて吹き抜けにしてるから、あそこから屋根伝いに逃げられんの。それやってみようと思ったら、アイツに見つかってさぁ。オッサンに。金でも盗んだんだって勘違いしたんじゃねえの。わけも聞かねえで、もうボッコボコ。お前は屑だとか言ってたけど、そんなこと当の本人はとっくに知ってるっつうの。お前、今更気付いてんのかって。 あっ、このこと篤美にも喋ったかもしれないな。だからオッサンの方を先に殺したのかも。よく調べてみなよ。絶対アイツ、篤美になんかしてるって。オッサンの仕事部屋掃除してる時、いっつも怒鳴られてたから、何回か殴られたりしてんじゃねぇの?」
「もうプロの誇りなんてとっくの昔に捨てたから、あいつの気持ちだけは受け取っておこうと思って。馬鹿でも馬鹿なりに機転を利かせたんでしょ。ボツ原稿だってしばらく寝かせて、ちょこっと手を加えれば誰もこれが盗作だなんて思わないさ。 でもね、全部が全部空のディスクなんだよッ!」
「何なんだよ、俺の人生って――作家も駄目、人殺しも駄目、自殺しようと思っても死ねねぇんだよ。クソッ。みんな死んじゃえばいいんだ。彼奴も、アイツも。お前もだよ。オイ、お前も死ねよ、俺の目の前で。銃持ってんだろ。頭撃ち抜いて見せてくれよ。死んでくれよ。死ねよ、オイ!!!」
人を殺した後ろめたさなのか、元から病んだ心が事件を引き起こしたかは分からないが、寺元は明らかに精神を病んでいた。 素直に取り調べに応じていた寺元譲が、ふとした拍子に態度が一変する。涙と涎を垂らしながら、子供のようになってしまうのだ。突然怒鳴り始めたり、叫びだしたり、かと思えば途端に萎縮してしまう。 そして時折、自嘲するような馬鹿笑いを始める。椅子から転げ落ち、床の上で身体を捩って笑い転げた。身体を起こそうとする刑事の腕をふりほどき、表情は一転して無表情になったかと思うとまた話し始める。 感情の起伏が次第に大きくなっていることに、担当の刑事は気付いた。そして、彼の激情の間隔は確実に狭くなっている。 床の上で事件の大方を話した後、寺元譲の無表情が一瞬にして破顔した。何かを思い出して失笑したのか、喉を鳴らして笑った。すると突然、寝そべった姿勢から俯せになり、頭を激しく床に叩きつけ始めた。取り調べの刑事2人がやっとの思いで取り押さえ、額が割れて血まみれの寺元譲はそのまま病院へ運ばれた。 寺元譲の証言は一貫していた。事件のあらましに矛盾は無く、事件の関与については自己防衛に徹していた。証言の内容と裏付捜査とで一部合致する部分があり、精神鑑定の必要性はあるが聴取を続ける意向のようだ。 それから寺元譲の精神状態をあそこまで追い詰めたのは、讃良徳子ではないかと捜査本部では踏んでいるらしい。病院に搬送された寺元譲の身体に、自傷する以前からあったと見られる無数の傷と火傷の痕があるのだという。近々、讃良徳子にも捜査の手が伸びるようだ。 葛西篤美は、寺元譲の関与については口を閉ざしている。全てが単独犯で、讃良亮介に対する個人的な怨恨で殺したのだと繰り返すのみであった。薄々気付いてはいるのだろうが、篤美が利用されていたことや、気持ちが一方的だったことは、彼女自身認めたくないのだろう。
ガラスの中の自分に焦点が合った。 いつもの自分がいる。 事件の真相を解明し、関係者の心の闇を覗いては心を痛めている、いつもの自分がいた。 望月壮太郎は、再び流れる人の波の中へ分け入った。 愛されたいという思いは、人を殺める兇行にまで走らせてしまうものなのだろうか。それを経て、葛西篤美は裏切られた。それでも尚、彼女は寺元譲に愛されたいのだろうか。 愛情と憎悪は紙一重だと思う。 彼女が2度と人の道を踏み外さんことを望月壮太郎は心から願った。虚空に注ぎ続ける一途な愛情が憎悪に変わらないうちに、それを受け入れてくれる大きな愛情が現れてくれるように。 人間という生き物は難しい。気持ちが合えばいつか離れる日が来るし、すれ違えばそれだけで悲劇的だ。中でも最も哀れなのは、結ばれるべき気持ちが存在しないのに、けなげにいつか結ばれると信じ続けていることだ。 いくら場数を踏もうとも、このやるせない気持ちは昔と何ら変わらない。
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