翌週も、那美は、全く何も食べなかったり、少し食べては吐き戻したりを繰り返していた。体重は週末までには更に減って、四四キロになり、肋骨や腰骨が目立つようになってきたが、逆に顔はむくんでいた。病気で手術を受けて入院したときは、四一キロまで減っていたが、それでもここまで不健康な痩せ方ではなかった。 午後四時ごろに仁志のマンションで行われるパーティーに参加することになっていたので、那美はまず午後二時に功夫のマンションに向かった。この日も肌寒く、マフラーを巻いて厚手のコートを着込んでいた。 二人は先週末買ったジーナへのギフトとワインを持って功夫のマンションを出た。功夫は那美に言った。 「見てびっくりするなよ。仁志すっげーマンションに住んどるからな。」
仁志のマンションは高層ビルの中の4LDKだった。仁志とジーナが玄関で功夫と那美を迎えてくれ、二人は中へ入った。リビングの窓からは夜景が見渡せ、プロのインテリアデザイナーにコーディネートさせたという内装も立派だった。 コートを脱いでマフラーを外すと、那美はニットのワンピース姿になった。体にぴったりしたワンピースは、那美の急激に痩せた体の線を露にしていて、仁志とジーナは、口にこそ出さなかったが、驚いた顔をした。しかし、仁志は平静を装い、功夫と那美を奥へ案内した。 「コートはこっちに掛けて、荷物はここに置いて。」 中には、ざっと見て二十人ほどのゲストがいた。四十前後の男性数人は仁志の友人で、若い女性の大部分はジーナの友人と思われたが、何故か中年のフィリピン人女性の集団がいて、タガログ語で会話をしていた。どうやらジーナの母親が呼んだようだ。娘の婚約者が主催する誕生日パーティーに自分の友人まで呼ぶ母親というのも、これまた不思議だ…と、那美は思った。そして、参加者の中には、那美の苦手な篤史もいた。 「紹介するからこっち来いよ。」 功夫が那美を呼んだ。参加者の中には二人ほど功夫と仁志の共通の大学時代の友人がいて、功夫は彼らと会うのはかなり久しぶりだった。那美は彼らに会釈をしたが、実はあまりここで功夫の彼女であることをアピールしたくなかった。というのも、最早功夫のことを好きであるという確信もなく、別れも近いことを感じていたからだ。 ダイニングルームのテーブルの上には、ケータリングサービスから取り寄せたパーティー料理が並んでいた。仁志は、功夫と那美に細長いグラスを渡し、シャンパンを注いだ後、ダイニングルームの入り口付近に立ち、乾杯の音頭を取った。 「皆さん、今日はお忙しいところお集まりいただきありがとうございます。それでは、那美さんとジーナの誕生日を祝って、乾杯!」 那美は、相変わらず全く何も食べたくなかったが、周囲に怪しまれないよう、取り皿に数種類料理を盛った。会場にいる人の大部分は那美の知らない人ばかりだし、功夫には例のごとく篤史がくっついて離れないため、那美は手持ち無沙汰だった。 「今日は一応パーティの主役なはずなのに、つまらないな…。」 と思いながら、窓際に移動して外の景色を見詰めていた。すると、男性が一人那美に近寄ってきた。 「すごいマンションですよね。」 男性は那美に話しかけてきた。那美は相槌を打った。 「お誕生日おめでとうございます。」 「ありがとうございます。」 「あの、師岡専務の彼女さんのお友達ですか?」 どうやらこの男性は仁志の勤めている会社の従業員のようだ。 「ええ、まあ、そうですけど。」 那美は面倒な説明は避け、曖昧な答え方をした。パートナー同士が友達なのだから、ジーナとも友達ということにしておいて問題ないだろう。 「僕、師岡専務の部下の天野と申します。」 年齢的には仁志とあまり変わらないようだが、師岡一族でない以上、この年齢で会社役員はやはり無理なようだ。この天野と名乗る男性は、どうやら那美に気がある様子で、しばらく那美に一方的に話しかけていた。 「よかったら、今度…。」 と天野が言ったところで、横から仁志が口を挟んできた。 「ああ、天野、その子は功夫、あの背の高い男の彼女だよ。那美ちゃん、いさやんに心配かけるなよ。」 「それは知りませんでした。ごめんなさい。」 天野が仁志と那美に向かって頭を下げるので、那美は笑って、 「いいんですよ、お話しするだけなら。彼もそういうことには寛容ですから。」 と言った。それを聞いて、仁志は言った。 「いや、あいつ結構やきもち焼きだぞ。」 天野が那美の元を離れてダイニングのテーブルに向かうと、彼の周りに中年のフィリピン人女性集団が集まってきた。どうやら今回のパーティは、ジーナと那美の誕生日祝いと称しつつ、実際はジーナやその母親と仁志が、自分の周りの独身の友人若しくは年頃の娘を持つ母親に出会いの場を提供するため、仕組んだようだった。
夜十時ごろ、パーティーがお開きになり、那美は功夫と一緒に功夫のマンションに戻った。 二人で新しい黒いソファに腰を下ろすと、功夫が那美に言った。 「仁志のマンション凄かったやろ。やっぱり金持ちは違うやろ。」 功夫はどこか僻んだような口調だった。那美が何も答えないでいると、功夫は続けた。 「今日見てたぞ。男にナンパされてたやろ。」 「ああ、あの人、仁志さんの部下らしいけど、結局仁志さんが私が功夫さんの彼女だってこと教えてくれたから、何もなかったわよ。」 「でも、結構かっこよかったやん。それに、あの彼の方が俺より金持ちだったらどうする?」 「そんなの関係ないってば。」
夜中十二時、二人はベッドに入った。功夫はうつ伏せの姿勢で枕に顎を乗せた状態で、那美に訊いた。 「俺と週末過ごして楽しい?」 「今日はどうしちゃったのよ。何でそんなこと訊くの?」 「那美はそのうち誰かに持っていかれてしまうんだろうな。」 「やだ、私が他の男性と話していただけで僻んでるの?」
翌朝、二人は八時に目が覚めた。功夫は起き上がると、台所でコーヒーを作り始めた。 「那美、明日の君の誕生日、七時にレストラン予約しておいたよ。来れるよね。」 と功夫が言うと、那美は、 「まあ、ありがとう。うん、大丈夫よ。あ、そうだ。私、昨日ちょっと食べすぎちゃって、今日は朝ご飯食べたくないの。だから、今日はもう帰るわ。」 と言って、洗面所で身支度を始めた。鏡を覗き込みながらメイクをしていると、後ろから功夫も鏡を覗き込んできた。 「なんか、顔丸くなったんやないか?」 顔が丸くなったのは、体調不良によるむくみのせいで、そしてその体調不良の原因になったのは、紛れもなく功夫の心無い言葉だった。那美は功夫の無神経さが癪に障ったが、平静を装って答えた。 「お酒飲んだ翌日には時々むくむの。でも、最近体重は減ったわよ。」 功夫は那美の腰に手を当てていった。 「確かに痩せたかもな。でも、そういえば、ピル止めてからずっと生理来てないんやない?」 那美が功夫の男性不妊を知ってピルを飲むのを止めたのが十月半ばごろで、その時消退出血があってから二ヶ月経ったが、まだ月経が来ていなかった。しかし、今回那美の月経が戻らないのは、急激な体重減少による可能性が高かった。 「人によっては正常な周期に戻るのに半年くらいかかることもあるし、それに生理なんて体調やストレスでも簡単に遅れるものよ。」 この言葉の裏には、実は最近の功夫の態度が那美にとってストレスになっているという意味も含まれていた。 「俺の前の奥さんは、何があっても毎月きっちり生理が来とったぞ。君は何か不摂生でもしてるんじゃないか?痩せるなら運動して痩せろって言ったやろ。」 この功夫の言葉を聞いて、那美の口から「何よ、自分も不妊症のくせに」という言葉が出掛かったが、那美は心を落ち着かせて言った。 「一キロ痩せるのに七千二百キロカロリー消費しないといけないのよ。三十分ジョギングしても百キロカロリー程度しか消費できないのに、運動だけで痩せるのは気が遠くなる話ね。」 「またそうやって難しいことを言うんやから。君がやたら賢いと俺が恥ずかしいやん。」 功夫は時々このように自分の頭の悪さを露呈するようなことを言った。那美は言った。 「へえ、露出の多い服を着た彼女を連れて歩くのは平気なのに、賢い彼女を連れて歩くのは恥ずかしいんだ。パートナーはその人を反映するから、賢い彼女を持てば、自分の株も上がるのにね。」 功夫は那美のこの言葉を聞いて苦笑した。
十二月七日月曜日、那美の誕生日当日、朝から出社すると、那美の上司の課長が、すっかりやつれてしまった那美を見て言った。 「砂原君、また体調でも悪いのか?なんかやつれてきたような気がするんだけど。」 「ちょっとここ数日風邪引いて食欲がなくなってましたけど、大丈夫ですよ。もう治りましたから。」 「ならいいけど、数ヶ月前に大病を患ったばかりだけに心配になってしまったよ。あまり無理しないように。」 「病気の時は休むだけ休んで皆さんにもご迷惑をおかけしたので、もうこれ以上は休めませんよ。もう完治したので大丈夫です。」 その後、那美はトイレの鏡に自分の姿を映してみた。何だか体はやつれているのに、顔だけむくみ、髪はパサパサで、しかも所々に吹き出物まで出て、とても美しいとはいえない。 「このままじゃ、私、死んでしまう…。」 少しでも顔のむくみを取るため、那美は顔をマッサージしてみた。しかし、むくみはそう簡単には取れなかった。そこで、横の髪で顔の輪郭を隠してみた。仕事の時には邪魔になるが、これで何とか誤魔化せそうだ。しかし、髪型は時間とともに崩れるので、この日は一日ちゃんと髪がむくんだ顔を隠せているかどうか気になって仕方がなかった。
仕事が終わり、那美は功夫と約束していたレストランの最寄り駅まで電車で行き、改札口で功夫を待った。数ヶ月前に、功夫が那美の病気からの回復祝いとしてご馳走してくれたときと同じイタリアンレストランだった。例のごとく、功夫は待ち合わせの時間の十五分後に現れた。 レストランに入ると、二人は窓際の席に案内された。 注文したワインがテーブルに運ばれて来て、ウエイターが二人のグラスを満たした。 「乾杯。お誕生日おめでとう。」 二人が乾杯した後、功夫はポケットから小さな箱を取り出した。 「ありがとう。開けてみていいかしら?」 「うん。開けてみ。」 那美が小さな箱を開けると、中に入っていたのは腕時計だった。見たところ、あまり那美の趣味でもなく、何といっても高級感がなく、正直なところ那美はがっかりした。恐らく値段は三千円前後だろう。三千円程度と言えば、ついこの間、ジーナに買ってあげたマフラーだって同程度だ。つまり、功夫は那美のことを最早特別な存在としては考えていないのが明らかだった。しかし、それでも那美はわざと笑顔を作って、 「うわあ、可愛い!私、腕時計欲しかったの。」 と答えた。 那美は、段々食べ物を吐き戻すのにも慣れてきていた。もし食べて気分が悪くなったら、吐いてしまえばいいんだ…と思うと、出された食事を問題なく胃の中に詰め込めるようになった。今までのように、食べていないのに食べているふりをしなくて良くなったかと思うと、功夫と一緒に食事をするのも幾分気楽になった。那美は、前菜のサラダとメインのパスタ、及び赤ワインを、しばらくまともな食事をしていなかったためすっかり消化が鈍ってしまった胃に詰め込んだ。 「この間のパーティーのとき、仁志とジーナちゃんのいちゃつき方、見苦しかったな。」 功夫が言った。功夫は、自分が最近那美と上手く行っていないことに気づいていたため、それだけに仁志がジーナと上手く行っているのが悔しかったようだ。これに対し、那美は、 「まあ、仲のいいのはいいことじゃない。」 と答えた。
食事が終わると、二人は駅で解散した。功の姿が見えなくなると、那美は駅のトイレに駆け込み、食べたものを全て「浄化」した。 「こんな誕生日、今まで生きてきた中で、最悪だよ。二十代最後の誕生日なのに…。」 と、那美は思った。実際、一人で過ごしていたときの方がまだマシに思えた。
翌日火曜日の夜、仁志から功夫に電話があった。 「いさやん。昨日那美ちゃんの誕生日だっただろ。どうだった?」 「ああ、イタリアンレストランに行ったよ。那美も喜んどったよ。」 「それはよかったな。ところでさ、パーティーの時思ったんだけど、那美ちゃん、痩せた?最近ふっくらして健康的でいい感じになったと思ってたのに、なんかまた痩せちゃったような気がするんだけど。」 「お前、本当にぽっちゃりした子が好きなんやな。那美はちょっと前に風邪引いて食欲がなくなっとったけど、昨日はよう食べとったよ。心配ないって。」 「それならよかった。ジーナも心配してたからさ。じゃ、またな。」 電話を切った後、功夫は改めてここ最近の那美の姿及び態度を思い起こした。言われてみれば、確かに那美は不健康そうで、何か心労を抱えていそうな気がした。そしてその原因が恐らく自分にあることも功夫はうすうす気づいていた。
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