那美は、五日間、全く固形物を口にできず、水とお茶だけで過ごした。会社の昼休みには、同僚に食べていないこととを悟られないよう、外を散歩したり、会社近くの本屋で立ち読みをしながらして過ごした。しかし、時々体がふらつくこともありながらも、意外と日常生活に支障は出なかった。那美自身は、流石に少しは食べないとまずいとは思っていたが、どうしても体が食べ物を受け付けようとしなかった。 そして、木曜日の夜、とにかく少し無理をしてでも何か食べてみようと思い、終業後にコンビニエンスストアでおにぎりを一個買って、独身寮に戻った。 おにぎりを手に握ると、胃からげっぷがこみ上げてきた。 「いや、食べなきゃ駄目だ。」 那美は目をつぶっておにぎりに齧り付き、一気に食べた。しかし、数分後、激しい吐き気に襲われ、トイレに駆け込んだ。
ふらふらになってトイレから出てくると、那美は功夫に電話をした。 「悪いけど、今週末は具合が悪いから、貴方のところには行けない。一人で寝て過ごすわ。」 「一人で大丈夫か?」 「うん。寝れば治るから。心配しないで。」 「しょうがないな。じゃ、俺も一人で過ごすか。」
那美にとっては、久しぶりに一人で過ごす週末だった。相変わらず何も口にすることは出来なかったが、功夫の言葉の暴力とも悪趣味な冗談とも言える不可解な言動と離れることで、一種の開放感に浸ることが出来た。 「やっぱり別れるべきかな。」 しかし、やはりここ数年不憫な出来事が続いた哀れな男をここで突き放していいものか悩んだ。もう少し待って、心の傷が癒えれば、彼はまともになるかもしれない…。
土曜日の夜、功夫から電話が来た。那美は、いっそのこと電話を取らないでおこうかと思ったが、後で言い訳を考えるのが面倒なので、電話に出た。 「那美、どこが悪いんだよ。」 「ちょっと胃がムカムカして、食欲がないの。まあ、いいダイエットの機会になるんじゃない?」 那美は少し皮肉を込めて答えた。実際、こうなったのは功夫の心無い言葉が原因なのは明らかだ。 「お腹の病気が再発したんじゃないよな?」 「いや、それはないわよ。」 「まさか、妊娠はあり得ないよな。俺の子供なんて出来るわけないんやから。君が他の男と関係でも持たん限りな。」 「不妊症の話はもう止めてよ。私も今は子供欲しくないって言ったでしょう。まあ、来週までには治るから。」 実際、治るという確証は無かった。明らかに、原因が胃腸にあるのではなく、精神的なものである以上、簡単に治りはしないのだ。それより、那美は、いかにして功夫の前では正常に食べている振りをするかを考え悩んだ。 「そういえばさ、再来週の土曜日、仁志が自分のマンションでジーナちゃんの誕生日パーティーするんやて。で、那美も誕生日が近いから、一緒にお祝いしようって言ってくれとるんよ。だからさ、来週ジーナちゃんにプレゼント買いに行こうよ。」 「ああ、そうね。じゃあ、また土曜日ね。今日はもう寝るから。おやすみなさい。」 パーティーか、食べられないとますますきついな…と那美は思いながら、電話を切った。
次の週も、那美は何も固形物を食べることが出来ず、野菜ジュースが辛うじて飲める程度で、体重は、ピーク時から四キロ減り、四七キロになった。水曜日の夜、功夫から那美に電話が入った。 「那美、生きとるか?」 那美は元気な声で答えた。 「うん。大丈夫よ。あ、そういえば、金曜日会社の飲み会があるから、土曜日のお昼過ぎにそっちに行くね。」 もちろん、「飲み会」は口実だ。しかしこれで、金曜日の夜は、功夫との食事は免れることが出来た。
土曜日の昼過ぎは肌寒かった。那美はピーコートにウールのパンツ姿で、マフラーを巻いて出かけた。急激に痩せた体に、パンツのウエストは緩く、外の空気は一層肌寒く感じられた。しかし、厚着な上に、マフラーで顔も半分隠れていたので、ぱっと見にはいつも通りの那美に見えた。 午後二時ごろ功夫のマンションに着くと、那美は呼び鈴を押した。出てきた功夫は、寝起きのようで、まだ部屋着のままで髪もボサボサだった。 「準備するからちょっと上がって待っとって。」 功夫に言われるがままに、那美はリビングに入ると、今まで置いてあった真っ赤なソファがル・コルビジェのデザインによる黒いソファに変わっているのに気づいた。 「あ、ソファ新しいの買ったんだ。」 「ああ、ボーナス出たからね。」 「かっこいい!私はこっちの方が好きよ。」 「まあ、確かに前の真っ赤なソファは悪趣味やったけど、でも、この黒のソファは逆にまともすぎてつまらん。悪趣味なものに限って、無くなってみると寂しくなるもんよ。」 那美は、マフラーもコートも身につけたままソファに腰を下ろした。功夫は服を着替えながら那美に訊いた。 「ジーナちゃん、何買ってあげたら喜ぶと思う?俺、女の子にあげるプレゼントって、いつも悩むとよね。」 「私もジーナさんが何が好きかわからないから、見てみないとわからないわ。予算はどれくらいがいいかしら?」 「二人で五千円ってところか?」 那美は、「それって、友達の彼女に対するギフトにしては高すぎではないか?」と思った。
二人は電車に乗り、都心のデパートへ向かった。那美は殆ど食べずに十日以上が経過しており、当然体調も優れなかったが、功夫の前ではそれを隠すように何事もなかったように振舞っていた。一方、優れない顔色も痩せた体もマフラーとコートに隠れていたが、ただ唯一功夫が那美についていつもと違うと感じたのは、香水の匂いだった。実は、食事を受け付けなくなってから、那美は自分の体臭が強くなったような気がしていたので、この日は少し多めに香水をつけていたのだ。体臭が強くなるのは、急激にダイエットをした人に時々現れる兆候だ。
二人がデパートに入り、エレベーターを降りると、女性向け下着コーナーの横を通過した。功夫は那美に見せつけるように下着コーナーへ入っていった。 「やめてよ。下着コーナーに男性がいるだけで嫌がる女性も沢山いるんだから。」 那美が言うと、功夫はTバックのパンティを手にとって言った。 「だって、女に下着贈るなら、自分で触ってみないと感触がわからんやろ。いいねえ、このTバック。女なら一着はこういうの持っとかんとね。」 「まるで変態じゃないの。恥ずかしい。」 「おっ、何だよ、人のこと変態呼ばわりして。」 那美は、ここで功夫を置いて独身寮に戻ろうかと思った。しかし、今日はジーナに誕生日プレゼントを買うという重要な目的があったので、それはできなかった。 那美は、女性のアクセサリー売り場に歩いてゆき、功夫もその後ろからついて行った。 「まさか指輪なんか買うわけにいかないよな。」 「そんなことしたら、仁志さんに変な疑いかけられるわよ。」 那美はアクセサリー売り場の奥へ入って行き、ラベンダー色のマフラーを手に取って眺めた。 「あ、それいいやん。これから寒くなるし。いくらするん?」 と功夫が言うので、那美は値札を確認した。 「三千二百円。じゃあ、私は半額の千六百円出そうかしら。」 「千円でいいよ。残りは俺が出すけん。」 買い物が済んだのは、午後四時。夕食には少し早かったので、二人は今夜の夕食を買って帰るため、地下の食品売り場へ向かった。食べ物を受け付けない体になってしまった那美は、何も食べたくなかったが、功夫に異常を悟られないように振舞った。 「今日は寒いし、お鍋なんかどうかしら?」 「鍋か。いいな。」 実は、那美が鍋を選んだのは、二人で一つの鍋を突けば、お互いがどれだけ食べたかわかりにくいからだった。那美は、自分の提案に功夫が納得してくれたので安心した。二人はちゃんこ鍋セットを選び、買い物籠に入れた。 「あと、パーティーにはワインも持って行こうと思っとるんや。」 二人はワイン売り場に向かった。 「仁志さんは赤と白どっちが好きなの?」 「あいつは赤が好きや。結構ワインの味にはうるさいぞ。普段からいいワイン飲んどるからな。」 「ええっ、それじゃ、私ワインには詳しくないから、何選んでいいのかわからないわ。」 「こういうときは、店員に選んでもらえばよか。」 功夫はワイン売り場の店員を呼び止めた。 「赤ワインを探しているんですけど。友人宅でのホームパーティーに持っていけるワイン、何かありますか?」 店員は三種類ワインを選んで持ってきた。 「ホームパーティー用なら、どんな食事にも合わせやすく、カジュアルに飲めて口当たりのいいものがよろしいですね。こちらのミディアムボディなら、赤ワインがあまり得意でない方にも楽しんでいただけると思いますよ。」 「いや、やはりフルボディの方が…。」 「それなら、こちらはいかがでしょうか?」 店員はカリフォルニア産のツィンファンデルを持ってきた。ラベルがお洒落な雰囲気だ。 「でしたら、それ、お願いします。」 那美はジーナへのギフトを、功夫はちゃんこ鍋にワインのボトルを抱え、電車で帰途に就いた。
電車に揺られながらマンションに変える途中、功夫が言った。 「仁志とジーナちゃんさ、六月にマニラで結婚式するとって。で、家族と友達の一部も呼ぶらしい。」 「じゃあ、貴方も行くの?」 那美は、もうその頃には功夫とは付き合っていないことが予想できたので、あくまで他人事として訊いた。 「まあ、行くだろうな。」 功夫もわかっていたのか、「君も来いよ」とは言わなかった。
功夫のマンションに戻ると、夜の七時だった。早速食事をするため、功夫は台所からガスコンロと、缶ビールを二つ持ってきた。那美はリモコンのスイッチを押してテレビをつけ、サッカーの試合が放送されている局を選んだ。功夫はサッカー観戦が好きなので、テレビに熱中させれば、那美が食べていないことに気づかれなくて済むと思ったからだ。 那美は、ビールを飲むことはできた。コンロに火がつき、鍋が温まり始めると、元気な頃の那美なら食欲をそそるはずの匂いがし始めた。しかし、やはり那美は全く固形物は食べたくなかった。それでも、少しずつ口に運び、食べているように見せかけた。一方、功夫は、改めてコートを脱ぎ、マフラーを外した那美を見て、いつもとどこか違うことに気づいたが、特に何も言わなかった。 功夫がテレビを見ている間に、那美は一旦取り皿に取った中身を鍋の中に戻し、功夫が見ているときにまた鍋の中身を取り皿の中にとって見せた。 なかなか減らない鍋を見て、功夫が言った。 「このお鍋、見た目より結構ボリュームあるな。」 「余ったら明日の夕食にすればいいじゃない。」 と、那美は答えた。 空腹で、しかも二週間殆ど何も食べていなかった那美の体には、ビールの回りが速かった。 「今日は珍しく顔が赤いな。いつもは全然変わらんとに。」 と功夫が言うと、那美は、 「昨日も会社の人と飲んだからかも。」 と答えた。実は、前日会社の同僚と飲んだと言うのは、功夫との食事を免れるためについた真っ赤な嘘なのだが…。 「そうか。二日酔いやったんか。道理で今日はちょっときつそうやったもんな。」 体調不良がばれていたのか…と那美は改めて思った。しかし、その本当の理由はまだ悟られていないようだ。 「俺、もう食えんわ。じゃあ、これ、明日の分やな。」 功夫はコンロの火を止めた。 しかし、それにしても、二週間ほぼ絶食状態だった胃には、少量の食事と一本の缶ビールは負担が大きく、那美は胃がむかむかしてたまらなかった。那美は、功夫がテレビでサッカー観戦に夢中になっている間にトイレに入り、音を立てないように喉の奥へ指を突っ込み、胃の内容物を吐き戻した。幸いと言うべきか、固形物はほんの少ししか食べていなかったため、トイレが詰まるようなことはなかったが、吐き終わった頃には頭がふらふらし、涙目になり、立ち上がるのも辛かった。那美は、トイレを出ると、廊下からリビングに向かって、功夫に疑われないよう元気そうな声を装い、 「今日は疲れたから先にシャワー浴びて寝るね。」 と言い、そのままシャワーを浴びに行った。
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