十月頭の土曜日の昼過ぎ、那美が例のごとく功夫のマンションに行くと、既に先客があった。中に入るのを躊躇する那美に、功夫は「いいから入って」と促した。先客は、若いカップルと小さな子供で、女性の方は、那美にとって初対面なはずなのに、どこかで見たような顔だった。功夫は那美に紹介した。 「紹介するよ。彼女が知華。旦那の隆二。そして、この子が理恵ちゃん。」 那美は思い出した。この知華という女性は、仁志のブログで見た功夫の元妻の美華にどことなく似ていた。但し、美華がすらっと背が高い印象であったのに対し、知華は小柄で華奢だった。一方、彼女の娘である理恵は、恐らく二歳程度と思われた。理恵は功夫のことをかなり気に入っているようで、功夫も、理恵と二人で追いかけっこをしたり、まるで体の大きな子供のように見えた。 「理恵は功夫さんのことが大好きなんですよ。功夫さん自身が子供っぽいところがあるから、理恵も仲間だと思ってるみたいですね。」 知華は那美に言った。 「あ、それじゃ、そろそろ、私たちは帰らなければなりませんので。今日はありがとうございました。」 知華は功夫に頭を下げ、理恵を抱きえ上げた。 「俺が役に立てたかどうかわからんけど、また何かヘルプが必要やったら連絡してね。」 功夫は三人に手を振り、三人が見えなくなったところでドアを閉めた。
功夫は那美に言った。 「知華は、俺の元義理の妹なんよ。優しい子でね、姉があんなことになってしまってからも、たまにこうやって俺が元気でやっているかどうか様子を見に来てくれるとよ。で、今日は、今マンション購入を検討中で、俺のアドバイスが欲しいって。」 那美は、離婚してからも元義理の家族と親密に連絡を取り合っている功夫を多少奇異に感じた。もちろん、元妻が功夫の元に戻ってくることがありえないことはわかっていたため、嫉妬の感情は起こらなかったのだが…。
その後、那美がリビングの真っ赤なソファに座ってテレビを見ていると、功夫は、ノート型パソコンを持ってきた。 「実は、この家の家具の大部分は、前の妻の趣味で選んだものやから、いい加減模様替えしようと思っとるとよ。冬のボーナスが出たら新しい家具を買うつもりなんやけど、一緒に見てくれん?」 那美は、現段階ではまだ功夫との結婚までは意識したくなかったし、この家に功夫と一緒に住むことも考えてはいなかったので、こう答えた。 「でも、貴方の家なんだから、自分の趣味で選んだ方がいいんじゃない?」 「そうなんやけど、客観的な意見も欲しくてさ。」 功夫は、まずイケアのサイトにアクセスした。 「ああ、このソファ、私が欲しいな。」 「そう?でも、俺の趣味ではないな。」 「貴方はイケアや無印より、もっと落ち着いた高級感のあるブランドを選んだ方がいいと思うわ。」 「おい、それって、俺がおじさんってことかよ。それなら、こっちはどうだ?」 功夫はデザイナーズブランドのサイトにアクセスした。 「このイサムノグチのテーブルなんかどう?」 「素敵ね。私には手が届かないけど。」 「まあ、これはちょっと高いけど、とりあえずこの真っ赤なソファをどうにかしたいんよね。あ、それじゃ、俺ちょっとトイレ行ってくるから、見てていいよ。」 功夫が立ち去ると、那美は目の前にあった水のペットボトルの蓋を開け、バッグから錠剤を取り出した。すると、功夫がトイレから戻ってきた。 「那美、何で薬なんか飲んでんだよ。」 「あ、これ?ピル。」 「って、避妊用の?」 「そう。」 「でも、それって副作用とかどうなん?」 功夫は那美がピルを飲むことについて何か引っかかるものがあるようだった。 「低用量だから大丈夫よ。それに、今の段階ではまだ私赤ちゃんできたら困るし。」 「あのさ…。飲まなくていいよ。」 那美は驚いた。 「え?でもこれが一番確実な避妊法なのよ。他の方法はあまり当てにならないのよ。」 「わかった。じゃあ、正直に話すよ。」 功夫は那美の横に腰を下ろした。 「俺と前の妻は、五年間一緒にいて、特に避妊もしていなかったのに、全然子供ができんかった。で、ある日一緒に検査受けに行ったとよ。その結果、あいつは全く健康で、どこも問題なかった。問題があったのは俺の方やった。精子が全然泳がなくて、俺が自然妊娠で子供を作れる確率は、太平洋から針を拾う確率って、医者から言われたよ。」 女性としての体の機能に全く問題のない彼女がレズビアンだったとは、これまた皮肉な話だ。 「そうなの?でも、それって先天性のものなの?」 「三回試験して、三回とも同じ結果だったんだから、間違いないよ。」 「そう。実は、最初に功夫さんとそうなりそうになったとき、私が断ったのは、結婚もしないで妊娠するのがイヤだったからなの。功夫さんも避妊してくる様子がなかったし、私も無防備だったから。だから、私が婦人科で検査を受けて、ピルを処方してもらって飲み始めるまで、断っていたの。でも、そこまで言うなら、私も今周期分が終わったらピルを飲むの止めるわ。それでも、もし…、もしその太平洋の中の針がヒットしたら、産んでいいかしら?」 「もちろん。実は、俺もずっと子供が欲しかったとよ。でも、まずそれはあり得ないから心配しなくていいよ。」 理恵と一緒に遊ぶ功夫を見ていても、功夫の子供好きは明らかだった。それだけに、夫として失敗したのみでなく、念願の父親になることも出来なかった功夫を、那美は益々気の毒に思った。功夫は続けた。 「まあ、今になってみれば子供生まれなくてよかったよ。レズビアンの母親とストレートの父親の間に生まれた子供なんて、可哀想やからな。」 「でも、それだけ辛い思いをして、よく女性と付き合う気になったわね。私だったら恋愛自体が怖くなっていたわ。」 「いや、俺だって、何か行動起こさんと、前には進めんと思ったとよ。」 功夫のこの言葉を聞いて、那美は何か違うと思った。つまり、自分は離婚のショックから立ち直るための一プロセスとして功夫に利用されているだけではないのだろうか…。
翌日日曜日の夜、那美が功夫のマンションを出た後、功夫の携帯電話が鳴った。仁志からだった。 「いさやん、なあ、聞けよ。実はさ、俺、可愛い子見つけたんだよ。今度の週末紹介するから、那美ちゃんも一緒に連れて来いよ。」 「おい、どこで見つけたんだよ。」 「この間俺出張で大阪に行っただろ。その時、その子と新幹線で隣同士だったんだ。実は純粋な日本人じゃないんだけどさ。」 「おい、ナンパしたんかよ。で、何人だよ。」 「お母さんがフィリピン人らしい。でも、普通に日本語話すよ。」 「歳はいくつなん?」 「二十五歳。」 「おい、お前こそめっちゃ若い子に手出してるやんか。あと、フィリピン人は気をつけた方がいいぞ。金目的で日本人と結婚する女もおるからな。」 「いや、お母さんはフィリピン人でも、お父さんは日本人で、日本で育った子だから大丈夫だよ。」
翌日、功夫は那美に電話した。 「仁志がまた今週金曜日に会いたいって言っとったけど、いい?」 那美は「またか」と思った。那美はあまり仁志にいい印象を持っていなかった上、仁志と一緒にいるときの功夫も好きではなく、二人の馬鹿げた会話についていけず疎外感を味わうのがたまらなく嫌だった。しかし、功夫の長年の友人である仁志のことをあまり悪く言うのはいけないと思い、「いいわよ」と答えた。 「なんか、可愛い子見つけたから、紹介したいんだって。」 「え?仁志さんはあのウエイトレスが好きなんじゃなかったの?」 「あのウエイトレスは手が届きそうにないから諦めるんやないと?なんか、今度の子はフィリピン人とのハーフの若い子らしいよ。かなり美人らしい。」 那美は、知り合った女性をいちいち紹介しあう功夫と仁志の関係も理解に苦しんだ。まるで、お互いどっちがいい女を手に入れることが出来たかを見せびらかしあっているようにも見えた。
木曜日、再び功夫から那美に電話があった。 「明日は、俺らが昔からよく行っていたブルワリーを予約したよ。彼女のお母さんも来るんだって。」 「ええっ!」 那美は仰天した。大人になった娘のデートについてくる母親など、初めて聞いた。 「まさにええっ!だろ。」
翌日金曜日の夜、仕事が終わって、那美は待ち合わせの駅に向かった。駅の改札口では、仁志が五十歳くらいの年配の女性と、二十代半ばの若い女性と一緒に待っていた。確かに、年配の女性の方は少しエキゾチックな感じがした。 「コンバンワ。」 その年配の女性は、訛った日本語で那美に挨拶した。日本語はそれなりに話せるようだが、それでも完璧ではないようだ。 「相変わらずいさやんは遅いな。」 と言って、仁志は時計を見た。 十分ほど遅れて功夫が到着し、五人は予約していたブルワリーに向かった。若い女性には、美智子という日本名があるらしいが、フィリピン人の母親には呼びにくいせいか、「ジーナ」とフィリピン名で呼ばれていた。日本語が苦手な彼女の母親は、終始殆ど会話に参加しなかった。那美は、何故そこまでして娘のデートに彼女が参加しなければならないのか疑問に思いつつ、会話にも参加できずに手持ち無沙汰な彼女を気の毒にも思い、時々気を使ってゆっくりとした日本語で話しかけてあげた。しかし、ジーナの母親は、会話に参加できなくても、そこまで気にしていないようだった。 ジーナは、小柄ながらもメリハリのある体型をしており、特に胸がふくよかだった。薄手の体にぴったりした黒いセーターが、そのメリハリ体型を引き立てていた。以前に見たエスニックレストランのウエイトレスといい、どうやら胸の大きな女性が仁志の好みらしい。 母親の見ている前ではジーナに対して馬鹿げた会話も出来ず、功夫と仁志は最初何を話すべきか躊躇っていたが、ジーナは何も気にしている様子は無かった。 「実は、最近私前の彼と別れて落ち込んでたの。ね、ママ。」 功夫、仁志、那美は、ジーナのこの言葉に多かれ少なかれ驚いた。よくこんな話を母親の前で平気で出来るものだ。しかし、そもそも娘のデートに平気でついてくる母親と、母親を平気でデートについてこさせる娘の関係だ。この母娘にはプライバシーというものすら無いのだろう。 仁志がジーナに野菜のソテーを大皿から取り分けてあげようとすると、ジーナは、 「あ、私野菜は嫌いだから食べないの。」 と言って断った。娘のデートにまでついてくる母親なら、よほど娘の躾けには厳しいのかと思いきや、娘の偏食を黙って許しているとは、どういうことだ?と那美は思った。 「そういえば、ジーナさん、誕生日はいつ?」 仁志がジーナに訊いた。ジーナが、 「十ニ月五日。」 と答えると、那美は驚いて言った。 「え?それって、私と二日違い!」 仁志はポケットからiPhoneを取り出し、カレンダーを見ながら言った。 「ジーナさんの誕生日は丁度土曜日だね。じゃあ、当日、那美さんと二人まとめて一緒にお祝いしようよ。」
その後、那美は功夫と一緒に功夫のマンションへ戻った。功夫は那美に訊いた。 「あの二人、上手く行くと思う?お似合いかなあ?」 「ええ、そんなこと私に訊かれても…。」 「君の考えを聞かせろよ。」 「私、他人の恋愛には興味が無いし、とやかく言いたくないの。仁志さんが彼女が好きなら付き合えばいいじゃない。」 実際那美は仁志には過去に一度しか会ったことがなく、自分がよく知らない人の恋愛などどうでもよかった。しかし、功夫は驚いた顔をした。 「女って、ゴシップが大好きなんだと思っとった。」 「その、貴方の男とか女とか言う考え方って、前から気になってたんだけど、九州独特なのかしら?でも、あの二人以前に、私はあのお母さんに吃驚した。」 「あれ、やばいんやない?俺、思うとやけど、お母さんは娘の将来の旦那の品定めに来とったんやないか?金持ちの日本人と結婚したがるフィリピン人って、結構いるらしいからな。」 「そうかもね。まあ、文化の違いって事もあるから、私にはよくわからないわ。」 「無責任やなあ。俺の親友やぞ。もし結婚詐欺に引っかかって大変なことになったらどうすんだよ。俺はそんな仁志を見たくないよ。あいつ、過去にも結婚で失敗してんだよ。」 しかし、那美が仁志のことをあくまで赤の他人としか思えないのは止むを得なかった。とはいっても、胸が大きくて可愛くて、自分についてきてくれる女性なら誰でもよさそうな仁志と、金持ちの男性と娘を結婚させることでその恩恵に与ろうとするジーナの母親と、その母親に従順な娘のジーナなら、実は上手く行くのではないかと思った。 「仁志さんだっていい加減大人なんだから、第三者で、しかも人生経験の少ない私がとやかく言うことではないわ。」 「まあ、そうなんだけどさ。ところで、あのジーナって子の胸、すごくなかった?本物かいなって思って、お母さんの胸も見てみたけど、お母さんのは普通だったよな。」 「そんなところまでよく見てるよね。まあ、実は私も見ちゃったけど。」 那美は笑った。
翌週土曜日、功夫と那美は、仁志とジーナと一緒に映画を見に行くことになった。流石にこの日はジーナの母親は参加しなかった。しかし、その代わり、那美にとってあまり好ましくない参加者がいた。実は功夫が那美に前もって何も言わずに、篤史のことを招待していたのだ。那美も、功夫に対して「私は篤史さんのことが好きじゃないから、一緒にはなりたくない」などと言うことは、流石に大人気ないと思ったので、ただ我慢するしかなかった。 映画館に入ると、那美、功夫、篤史、仁志、ジーナの順で並んで座った。篤史は相変わらず他のメンバーを無視して一方的に功に話しかけていた。そして、映画が始まってからも二人は何やら話し続けており、それが那美には耳障りで、映画に集中することが出来なかった。しかし、映画そのものは、映像には凝った演出がされながらも、ストーリー自体は薄っぺらな内容で、那美は結局途中で飽きてしまった。 映画が終わり、映画館を出ると、功夫は他の四人に、 「泣いた?」 と訊いた。四人は一同揃って首を横に振った。 「え?泣いたの俺だけ?」 と功夫が言うと、那美は、 「今日の映画は、映像はすごかったけど、ストーリーはいまいちだった。登場人物の誰にも共感できなかったし。」 と答えた。仁志も那美のこのコメントに共感すべく頷いた。 二人で電車に乗り、功夫のマンションに向かう途中、那美は功夫に訊いた。 「映画のどのシーンで泣いたの?そんなに泣けるシーンあったかしら?」 「だって、あの主人公の男が泣いたやん。」 「それでもらい泣きしたの?」 「やっぱり君にも不思議なんやね。俺、誰も泣かん映画でよく泣くんよ。前、仁志の家で『ロボコップ2』見たとき、俺一人だけ泣いて、みんなに笑われた。」 那美は思わず噴出した。 「いや、あれは可哀想な話なんよ。今度見てみろよ。」 「だって、泣いたの功夫さんだけだったんでしょ?でも、昔からそんなに涙もろかったの?」 「うーん…言われてみれば、数年前から急に涙もろくなったかも。」 やはり、功夫の異常な涙もろさは、離婚のショックによるところが大きかったようだ。
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