退院して一ヵ月半後の八月末の土曜日。那美は、まだ痩せてはいたが、かなり体力も回復し、食事も普通に摂れるようになった。この日は、回復祝いに、功夫が那美にイタリアンレストランで夕食をご馳走してくれた。例のごとく、功夫は待ち合わせの時間に十五分遅れて到着した。 「ああ、また待たせちゃったね。」 「いいんですよ。権藤さんのことだから、恐らく遅れるだろうと思って、私も十分遅れてきました。」 那美は笑いながら言った。自分が明らかに年上であることから、功夫は那美に対してため口を使うようになり、たまに長崎弁も混じるようになっていた。ただ、大学時代から東京に住んでもうかれこれ二十年以上になるせいで、功夫の長崎弁は中途半端だった。一方、那美に対しても、功夫は度々、「もう敬語は使わなくていいよ」「その権藤さんっていう呼び方そろそろ止めてよ」と言ったが、那美の丁寧な言葉遣いは変わらなかった。那美としては、もちろん自分が年下だという認識もあったが、それ以上に、この段階では、敢えて敬語を使うことで功夫との間に適度な距離を保とうとしていた。
ウエイトレスが、二人を窓際の席に案内した。窓からは美しい夕焼けの海が見えた。 「素敵なレストランですね。」 那美はしばらく窓からの景色に見入っていた。 「お酒は飲める?ワイン注文しようか?」 「病気になる前はお酒強かったんですけど、しばらく飲んでいなかったので弱くなってしまったかも知れません。でも、少しなら飲みますよ。」 二人はワインリストを見た。 「赤と白、どっちが好き?」 「私は赤の方が好きですけど、どちらでも大丈夫なので、お任せしますよ。」 「それじゃ…どれにしようかな…。このボルドーはどう?」 功夫はワインリストをの五千円のワインを指差した。 「高過ぎませんか?」 「こんなもんやろ。それに、今日はお祝いだから、遠慮せんとけって。」
ウエイターがボルドーワインとグラスを持って二人の座っているテーブルに来た。功夫はテイスティングのために注がれたワインを一口飲み、ウエイターに向かって頷いた。ウエイターが二人のグラスにワインを注いで立ち去ると、功夫は那美に、 「マジ、このワイン美味いよ。」 と言った。那美もワインを一口口に含み、 「うわぁ、美味しいですね。久しぶりなので嬉しいです。」 と言った。
自分の体に気を使ってゆっくり少しずつワインを飲む那美に対し、功夫は倍以上のペースでワインを消費した。前菜のサラダを食べ終わり、メインディッシュが運ばれてきた頃には、功夫の顔は少し紅潮していた。那美は野菜のラザニアを、功夫は鶏肉のソテーを注文した。 「ヘルシーな選択やね。」 「ええ。病気して以来、どうしてもできるだけ体に負担のないものを選んでしまうんです。」 那美がいつまでも冷静なのに対し、功夫はお酒が進むとともに饒舌になっていった。 「俺さ、前の妻とは結婚前に二年付き合って、五年間結婚しとったんよ。俺は、その間一切浮気もせずに、あいつ一筋やった。いつも手つないで歩いて、仲のいい夫婦として評判やった。でも、結婚五年目になって、あいつ、何かおかしいことに気づいてさ。で、自分で色々調べて、大学病院でカウンセリングも受けて、ついに自分が実はレズビアンやったことがわかったとよ。子供の頃親戚の男から虐待されたことが原因になって、そうなってしまったらしい。こういうのって、実は結構よくあるとって。」 那美は驚いた顔で功夫を見詰めた。 「バイセクシャルじゃなかったんですか?」 「いや、完全なホモセクシャルやった。でも、俺と出会う前に五人の男と付き合った過去があるとよ。だから、本人も自分はストレートだって信じとったんよ。そりゃそうだよな、レズビアンなんて少数派やから、周りに流されて、男を好きになるのが当たり前と思っとったんやろな。」 那美は、黙って功夫の話を聞いた。 「別れた後が大変やったとよ。まず、どう親に説明するか。姉貴に話したら、姉貴も一緒に泣きながら、お袋にレズビアンの意味から説明してくれて。周りの人は俺とあいつはおしどり夫婦だと信じていたから、もっと話し合えばよかったんじゃないかとか、散々言われたよ。」 「ああ、そういうの、イヤですよね。」 「だろ。で、サポートグループに参加しても、何だかみんな暗〜い雰囲気で、全然立ち直れそうになかったから結局止めてしまった。」 「で、その人はいまどうしているんですか?」 「彼女を見つけて、海外に出て行ったよ。もっと同性愛に対して寛容なところに行きたかったとやろ。」 那美は、功夫のことを、なんて哀れな男だと思った。とんでもない理由で止むを得なく離婚をした上、つい最近母親にまで死なれてしまったとは…。
ウエイターがデザートメニューを持ってきた。 「何か頼む?」 「いいえ。甘いものは体に悪そうで、退院してからずっと避けているんです。」 「そうなんだ。俺は何か食べたいな。」 「なら、私は紅茶を…。」 よく女性と外食をする際に、一人で甘いものを食べることを恥じる男性はいるが、功夫は気にしないようだ。 ウエイターが功夫にケーキとコーヒーを、那美に紅茶を持ってきた。 「男が一人でデザート食べるのっておかしいかな?」 「いいえ、私は気にしませんよ。男性にも甘いものが好きな人は沢山いるんだから、そんなの気にしなくていい世の中になればいいんですよね。」
食事が済んだのは夜の九時を回った頃だった。那美は、「ご馳走様でした」と言いながら、功夫に頭を下げた。 駅に向かって歩く途中、功夫が那美の手を握ってきた。那美は、功夫の手をそっと振り解いた。しかし、功夫もお酒が入っていたし、それに功夫の哀れな過去を知ってしまっただけに、那美はあまり邪険な扱いをしては申し訳ないと思い、「貴方のことが嫌いなわけじゃないのよ」という意思を表示するため、功夫の顔を見て微笑んだ。
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