木曜日の夜、那美は功夫に電話をした。 「功さん、明日、夜遅くなるから、ご飯ひとりで食べておいて。」 那美としては、功夫の家で食事をして吐き戻すのが嫌だっただけではなかった。実は、もういい加減功夫に別れ話をしようと考えていたのだ。そして、きっぱり別れた後は、すぐに独身寮に帰ってこようと思っていた。
翌日金曜日、夜九時ごろ、那美は功夫のマンションに着いた。せめて最後だけでもきれいな姿を見せるため、厚手のコートの下は買ったばかりのきれいなピンク色のカシミアのセーターに、ウールの膝上丈のスカートに、黒のタイツとブーツ姿で、腕時計は功夫から誕生日に貰ったものではなく、今まで使っていたものを着用していた。しかし、マンションに着いてみると、功夫は今ひとつ元気がなかった。 「ご飯食べた?」 那美が訊くと、功夫は答えた。 「いや、あまり何も食いたくなくてさ。それに、今日なんか寒気がして関節が痛いんよ。」 那美は功夫の額に手を当てた。 「確かにちょっと熱いかも。お粥でも食べる?」 「そうやな。俺も何か食べんと…。」 那美は、台所に行き、功夫のためにお粥を作った。別れを告げに来たつもりなのに、この状況ではとてもではないけど別れ話などできそうになかった。 お粥を食べた後、功夫はベッドに入った。那美もシャワーを浴び、功夫の横に潜り込んだ。
翌朝、那美は異常な熱さで目を覚ました。 「頭痛てぇ…。」 功夫が頭に手を当てながら言った。 「熱いよ。かなり高熱なんじゃないの?体温計持ってる?」 那美が訊くと、功夫は、 「洗面所の棚の中の薬箱に入ってる。」 と答えた。那美は起き上がり、功の指示通りに薬箱の中から体温計を取り出して持ってきた。 功夫の熱は、三八度五分だった。やはりこの状態では、別れ話にはあまりにタイミングが悪すぎる。那美は、昨夜作ったお粥の残りを温め直し、器に盛って、ベッドに寝たままの功夫に食べさせた。お粥を食べ終わると、功夫は再びベッドに横たわった。 「病院、行かなくていい?」 那美が訊くと、功夫は、 「いいよ。寝とけば治るから、今日は一日寝て過ごすよ。その代わり、薬箱の中から風邪薬とって来て。」 と答えた。那美は、洗面所の棚の中の薬箱から、風邪薬を取り出し、コップ一杯の水と共に功夫の枕元に持っていった。 「じゃ、私はリビングにいるから、何か欲しいものがあったら言って。」 那美がリビングに向かいながら言うと、功夫が、ベッドに寝たままの状態で、那美に向かって、 「暇なら、俺のノート型パソコン使っていいよ。」 と言った。
那美が功夫のノート型パソコンのスイッチを入れると、ログインスクリーンが開いた。功夫は自分の個人情報をパスワードで保護していた。那美は、ゲストとしてログインし、しばらくウェブメールの確認やサイトのブラウジングをして時間を過ごした。 昼ごろ、那美はドラッグストアへ出かけ、ペットボトル入りの水を数本、及び生姜湯の素を買ってくると、お湯を沸かして生姜湯を作り、功夫の所へ持っていった。功夫は生姜湯をゆっくり飲み、再びベッドに横になって目を閉じると、何故か涙を流した。 「お水は沢山飲んだ方がいいわよ。」 那美は功夫の枕元に買ってきたペットボトル入りの水を数本置いた。
「那美。」 功が寝室から那美を呼んだ。 「なに?」 「パソコン持ってきて。」 那美は一度ログオフした後、功夫にパソコンを持っていった。功夫はパソコンを枕元に置いて上半身を起こすと、パスワードを入力してログインした。 「見ろよ。」 功夫は仁志のブログにアクセスして見せた。 仁志のブログには、先週のパーティーの記事がアップされており、写真が数枚掲載されていた。肩を組んで仲睦まじい仁志とジーナ、会話で盛り上がるフィリピン人の中年女性の集団、楽しそうに談笑するジーナの友達、そして、一枚だけ、功夫と那美が並んで一緒に写っている写真があった。むくんだ顔、荒れた肌、そしてやつれた体…。改めて、なんて今の自分は醜いのだ、と那美は思った。しかも、功夫と並んだ雰囲気からは、どう見ても二人の関係は既に冷め切っているのが感じ取れた。
夕方四時ごろ、那美は功夫に言った。 「お鍋にお粥を作って置いたから、食べたくなったら食べて。私はもう帰るから。」 「今日は悪かったね。熱が下がったら連絡するよ。」 「無理しなくていいから、ゆっくり休んでちょうだい。」 那美はそう言って功夫のマンションを後にした。
翌週水曜日、十二月二三日の夜、功夫は那美に電話をした。 「あ、俺。」 「ああ、功夫さん。どう?熱下がった。まだ声が嗄れてるわね。」 「もう大丈夫。あ、あ…。」 功夫は何か言いたそうだが、言葉に出来ないようだ。 「何?」 「なんて言ったらいいんだろう…。クリスマス前にこんな話するのもなんやけど…。」 那美は、ここで功夫が何を言いたがっているのかわかった。 「言いたいことはわかっているわ。実は私も同じこと考えていたの。クリスマスなんて関係ないわよ。」 「俺、最近、君との関係で、何か違うなと感じるようになって…。最初は君のことが本当に好きだったけど、結局その後は君を体目的に利用してしまった。で、何て言うんだろう…、意地悪な態度をとってしまった。それなのに、それなのに君はいつも優しくしてくれて…。」 「体の関係なんてここ最近ずっとなかったし、それに意地悪というよりは、年上の貴方がなんでこんな子供っぽい態度をとるんだろうと思っていたけど。でも、貴方が私に対してもう愛情がないのはわかっていたわよ。」 那美は、功夫が別れを告げるため、一生懸命言葉を選ぶ努力をしたのを感じた。那美は、功夫の目的は実は自分の体ではなく、寧ろ周囲の男性たちが結婚に成功して父親になっていくのに対し、自分は結婚に失敗し、父親になることも出来なかったことに劣等感を感じたため、そんな周囲の男性たちを見返すため、誰か女性を、そしてできれば若くてセクシーで人目を引く女性を連れて歩きたかったのではないかと思っていた。それが、功夫が那美に肌を出したセクシーな服を着せたがった理由ではなかったのだろうか。そして、「いつも優しくしてくれて」とは言いつつも、実は那美は功夫がいつも那美の態度の淡白さを不安に思っていたのもわかっていた。しかし理由は同であれ、お互いに愛情がなくなっていたことは紛れもない事実だ。 「君はこれからどうすべきだと思う?」 功夫が訊くので、那美は平然と短絡に答えた。 「そうね。終わりにしましょう。」 功夫は何も言わなかった。その代わり、那美は功夫のすすり泣く声を電話越しに聞いた。那美は続けた。 「実は私も大分前から考えていたんだけど、言えなかったの。なんだか、貴方の過去の話を聞くと、可哀想な話が多くて、つい同情してしまっていた。そんな気の毒な貴方に自分から別れを切り出すことは出来なかったの。だから、貴方から先に切り出してくれてほっとしたわ。」 「やっぱり君も同じことを考えていたのか…。自分にとって最適の相手を探すのって、難しいんだね。」 涙声の功夫に対し、那美は落ち着いた口調で答えた。 「そりゃそうでしょう。かけがえのない相手だからこそパートナーって貴重なんじゃないの。相手が誰でもいいとしたら、それは相手を尊重していることにならないわよ。」 功夫は那美のこの言葉を聞いて黙り込んだ。那美は続けた。 「実は、私、貴方が以前にリンクを送ってくれた仁志さんのブログで、美華さんの写真を見たのよ。私とは全然違うタイプの人だったわね。でも、それは却って私にとっては嬉しかった。だって、貴方は美華さんの身代わりとして私と付き合っていたわけではなく、ちゃんと私は私として見てくれてたことだから。」 「もちろんだよ。」 功夫は涙で声を詰まらせながら答えた。 「じゃあ、どうしよう。私が貴方のマンションに置いていたものを取りに行かなきゃ。」 「今週末来る?」 「そうね。土曜日のお昼ごろ行くわ。」 そう言って那美は電話を切った。
翌日、十二月二四日、木曜日、那美が残業をしていると、那美の先輩の係長の男性が那美に話しかけてきた。 「今日は早く帰らなくていいの?」 「いいえ。仕事がまだ残っていますから。」 「だってさ、砂原さん最近週末独身寮にいないって聞いたし、彼氏でも出来たのかと思ってたよ。」 係長は三十代後半の既婚者だが、時々このような野暮なことを言って、那美を不快な気持ちにさせることがあった。こういうこともあるため、那美は功夫の存在を会社関係者には一切内緒にしてきたのだ。 「何もないですよ。今年は病気で休むだけ休みましたから、仕事納めまでしっかり働きますよ。」 那美はパソコンに向かってキーを打ちながら答えた。今まで、同僚から恋人の有無でからかわれることに不快感を感じながらも、その存在を隠すことにも後ろめたさがあった。しかし、昨日でこの後ろめたさともお別れだ。那美は改めて、功夫のことを同僚の誰にも話さなくてよかったと思った。 土曜日の午後、那美は大人びた上品なデザインのダークグレーのロングコートに身を包み、功夫のマンションへ向かった。二人が会うのは今日こそ本当に最後だ。那美が功夫のマンションの呼び鈴を押したのは、二時過ぎだった。中から出てきた功夫は、無精ひげを生やし、憔悴しきった表情だった。 「入って。」 功夫が言うので、那美は、 「今日は長居はしないわよ。」 と言いながらも中に入った。 那美は、まず功夫から借りていた四冊の「地球の歩き方」を功夫に差し出した。 「これ、全部返す。」 「いや、持ってていいよ。」 もうてっきりお互い二度と合わないつもりだと思っていたので、那美は功夫のこの言葉を意外に思って答えた。 「だってもう会わないでしょ。旅行ガイドくらい自分で最新版を買うからいいわよ。」 功夫は暗い表情をし、俯いて言った。 「実は、会社を首になったよ。」 那美はため息をついて答えた。 「それはお気の毒。でも、私にはもう何も出来ないわ。」 これまでにも那美は功夫の不幸話を沢山聞かされてきた。そして、今思えば、恐らく那美がこの哀れな中年男に対して抱いていたのは、愛情というより寧ろ同情だった。しかし、別れを決めてしまった今となっては、最早同情の余地はなかった。 功夫は、那美のためにまとめておいた荷物を大きな紙袋に入れて那美に差し出しながら言った。 「これでいいか確認してよ。」 那美は床に腰を下ろし、紙袋の中身を取り出してみた。中には、那美が使っていた化粧水や乳液、パジャマ、整髪料、ヘアブラシ、歯ブラシなどと一緒に、那美の大好きだった「パナデリア」のブルーベリージャムの未開封の小瓶が入っていた。 「ああ、これ、買ってくれたんだ。ありがとう。」 那美は目を細めた。那美が持ち物を確認している間、功が言った。 「もし俺に連絡を取りたいことがあったら、会社のメールはもう使わないでよ。」 功夫はまだ那美との別れを完全には受け入れていないのだろうか?「それ以前にもう連絡なんかしないわよ」と那美は思ったが、ただ、 「わかってるわ。」 と答えた。那美は荷物を受け取ったらすぐに帰るつもりだったのだが、対する功夫は何かもったいぶっているように見えた。ふと、功夫が言った。 「これからも友達でいようよ。」 「え?」 那美は驚いて顔を上げた。今まで那美が過去に付き合った男性とは、いずれも別れてしまってからはそれっきりだった。それ故に、今まで恋人同士として付き合っていたのを、どのようにして友達同士に切り替えていいのかわからなかった。那美は荷物を全て紙袋に戻し、立ち上がった。 「多分これだけだったと思う。もし私の物が後で見つかっても、もう私には何も連絡しないで処分しちゃっていいわよ。それじゃ、私はこれで…。ああ、なんか信じられない。私、ずっとここ数ヶ月週末はここで過ごしてきたけど、今日で最後なんだよね。」 那美はドアノブに手をかけると、突然功夫のすすり泣く声が聞こえてきた。那美は振り返った。 「あのさあ、そんなに悲しいんだったら、いっそのことこれから完全に連絡絶っちゃった方がよくない?」 と那美が言うと、功夫は声を詰まらせながら、 「うん。そう思う。」 と答えた。しかし、那美は功夫が泣いている理由は、実は本当に別れが悲しいからではないような気もした。というのも、功夫は、例えば映画を見ていて、ストーリーを把握していなくても、ただ登場人物が泣いただけでもらい泣きしたりなど、正当な理由もなく涙を流すことがよくあったからだ。恐らく離婚のショック以来情緒が安定しておらず、異常に涙もろくなっていたのだろう。更に那美が不思議に思ったのは、そんな功夫と付き合うようになって以来、自分自身はどんなに悲しい映画を見ても全く涙が出なくなってしまったことだ。まるで、異常に涙もろくなった功夫に、自分の涙まで全て奪われてしまったかのように…。しかし、逆を言えば、功夫は那美と付き合ったことで、離婚の痛手から立ち直るどころか、却って流すべき涙を増やしてしまったようだ。 那美はまっすぐ功夫の目を見詰め、「さようなら」と言ってドアを閉め、マンションを立ち去った。エレベーターに乗ると、急に動悸がし、体が小刻みに震え始めた。那美は心臓に手を当て、動機を落ち着けるように深く呼吸をしながら、駅まで歩いた。
那美が立ち去った後、功夫はリビングのサイドテーブルの上の家族の写真を見た。若かりし頃の母を見ていると、母が臨終に功夫に言った言葉が脳裏に蘇ってきた。 「本当の人みつけて幸せになりいよ…。」 そして、別れ話をしたときに那美が功夫に言った言葉も同時に脳裏をよぎった。 「相手が誰でもいいとしたら、それは相手を尊重していることにならないわよ。」 功夫は思った。 「俺、何か間違っとったかもしれんな。」
翌日日曜日の昼、那美は何だか久しぶりに何か食べられそうな気がした。ただ、一ヶ月近くまともに食事をしていなかった胃に、普通の食事は重いと思ったので、食器棚から米を取り出し、お粥を作ってみた。 炊き上がるお米の匂いが那美の食欲を刺激した。こんなに食べ物の匂いを心地よく感じるのも一ヶ月ぶりだ。那美は、茶碗にお粥を盛り、大梅を一つ上に載せた。ただのお粥が、ものすごく美味しそうに見えた。 那美は、ゆっくりとお粥を一口啜った。何て美味しいんだろう!干からびた体に、お粥の栄養分が染み透っていくのを感じると、那美の目は涙で潤んだ。実に、何ヶ月ぶりの涙だろうか。明後日には実家に帰るので、母親の手料理を食べられるよう、しっかり体調を戻しておかないと…。
二年の月日が過ぎたある日のこと。那美がスーパーのレジに並んでいると、後ろから外国語訛りで「ナミサン」と呼ぶ声が聞こえた。那美が振り返ると、そこにはどこかで見たことのある東南アジア系の女性が立っていた。 「はい?」 那美が、誰だったっけ…と思って訊き返すと、その女性は、隣にたっていた女性を示して、 「ジーナ、覚えてる?」 と訊いてきた。見ると、そこには赤ちゃんを抱いたジーナが立っていた。 「ああ、ジーナさん。え?その子、ジーナさんの子?」 「そうよ。ねえ、よかったら今度遊びにおいでよ。」 ジーナは那美に赤ちゃんの顔を見せながら微笑んで言った。 「那美さんも元気そうね。」 那美は、摂食障害もすっかりよくなり、体重も四九キロを維持していた。 仁志とジーナは出会って一ヶ月で決めた電撃婚だったにも拘らず、今でも上手く行っているようだ。そして、ジーナと母親との堅い結びつきも相変わらずのようだ。もちろん、仁志が功夫の親友である以上、那美は仁志の家に遊びに行くつもりなどなかったが…。 「おめでとう。可愛いね。」 那美は赤ちゃんの顔を見て微笑んだ。
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