「お母さん、今日の調子はどう?」 「うーん、あまりようなか。もう、私、長くなかね。」 「そんなこと言うな…。」 功夫はそれ以上言葉を続けず、ぐっと涙をこらえた。
七月の日曜日の昼下がりの大学病院。梅雨も明け、とても暑い日だった。病室には、功夫の母の他に、五十代から六十代の女性二人、そして比較的若い女性一人が入院していた。 その若い女性は、功夫が涙をこらえて無言で母の顔を見ている傍らを自力で歩いて病室を出て行った。半開きになったカーテンの隙間から「砂原那美」と書かれたネームプレートが見え、サイドテーブルには小型のノート型パソコンが置いてあるのが見えた。
面会を終え、功夫がカフェテリアに行くと、先ほどの若い女性、砂原那美が茶碗にお茶を汲んでいた。寝起きの髪には多少癖が付いていて、当然化粧もしておらず、やつれて頬がこけていながらも、すっきり鼻筋の通った整った顔立ちだ。功夫は彼女に会釈をした。 「あ、権藤さんの息子さんですよね。私、お母様と同室の砂原と申します。」 那美は愛想良く微笑みながら言った。 「はい、権藤房江の息子の功夫と申します。砂原さんのことは存じております。え、あの、もうお一人で歩いて大丈夫なんですか?」 「ええ。やっと少しずつ口から食べ物も摂取できるようになってきたんですよ。あと一週間ほどで退院できる予定です。」 「そうですか。それはよかったですね。あの、ちょっとお話してよろしいですか?」 那美の丁寧ながらも愛想のよい気さくな態度に、功夫は何かしら心惹かれるものがあった。二人は、お茶を持って窓際のテーブルに座った。功夫は、この日はローライズの傷入りのジーンズに、体にぴったりしたポロシャツ姿で、細身で長身なせいもあり、遠目には若く見えたが、改めて至近距離で見ると、髪には白髪が混ざり、目じりには深い皺が刻まれているのがわかった。 「砂原さん、数日前に手術されたんですよね。もう傷跡は痛まないんですか?」 「今日でちょうど手術をして一週間になります。今でもまだ痛み止めを飲んでいますけど、大分よくなってきましたよ。今まで体は丈夫で、病気なんてしたことなかったんですよ。だから、自分が手術をすることになるなんて、想像もしませんでした。」 「砂原さんが戻っていらしたら、ご家族の方も喜ぶでしょうね。」 「そうですね。もちろん両親は私が退院すれば安心するでしょうけど、でも二人とも遠く離れて住んでおりまして、私は一人暮らしなんですよ。」 「ご実家はどちらなんですか?」 「新潟です。」 「それは遠いですね。実は、僕は長崎の出身で、母も地元の病院で癌を診断されたんですよ。でも、父は僕が小さい頃に他界しているし、姉は大阪に嫁いだし、母を一人で入院させておくのが心配だったので、僕がいつでも訪問できるように、こちらの病院に入院させたんです。砂原さんは、退院後お一人で大丈夫ですか?」 「私は大丈夫ですよ。権藤さん、お母様のことだけでも大変でしょうに、私のことまで心配してくださってありがとうございます。」 那美は再び愛想良く微笑んで続けた。 「権藤さん、すごくお母様思いですよね。時々カーテン越しにお母様との会話が聞こえるんですけど…。」 「あ、僕、いつも煩いですか?」 「いえいえ、そんなことないですよ。こんな親思いな息子さんを持って、お母様もお幸せだな…と。」 「うん、まあ…。僕も若い頃は色々我侭やりましたけどね、もう癌で余命わずかだとわかると、何だかすごく母の恩が感じられて、せめて最期くらい親孝行がしたくて…。」 那美は黙って功夫の話を聞いていた。 「ああ、ごめんなさいね。初対面の方の前で、こんな深刻な話をしてしまって。あ、僕、そろそろもう行かなければ。最近精神的に滅入ることが多かったので、お話できて嬉しかったです。付き合ってくださってありがとうございました。」 「私もずっと入院生活で退屈しておりましたので、お話できて嬉しかったですよ。」 功夫は「お大事に」と言って那美に軽く会釈をし、カフェテリアを後にした。
三日後の水曜日の夕方、那美がカフェテリアでノート型パソコンに向かっていると、功夫が声をかけてきた。 「あ、権藤さん。今日はお仕事だったんですか?」 「はい。会社がこの病院の近くなので、仕事が終わって直接来ました。砂原さん、今日は調子はいかがですか?」 「大分いいですよ。少しずつ固形物も食べられるようになってきたので、金曜日に退院予定です。」 「それは楽しみでしょう。あ、あの…、もしよかったら、退院祝いとして、一緒にお食事にでも行きませんか?」 那美は少し照れたように微笑みながら言った。 「そうですね。退院してもしばらく普通の食事は摂れないかもしれませんけど、お茶ぐらいなら…。」 「僕の連絡先をお渡ししておきます。よろしかったら、メールください。」 功夫はポケットから会社の名刺を取り出し、余白に自分の携帯用のメールアドレスを書いて那美に手渡した。那美はしばらく功夫の名刺を見詰めていた。 「エンジニアでいらっしゃるんですね。」 「はい。ソフトウエアではなく、ハードウエアの方なんですけどね。」 「それでお仕事に行くときもカジュアルなんですね。では、この連絡先、頂いておきます。」 那美は大事そうに名刺を手に取り、愛想良く微笑んだ。
金曜日、夕方仕事が終わって、功夫が母を見舞いに病室に入ると、那美の入院していたベッドは既に空になっていた。 「功夫、最近何かよかことでもあったと?」 功夫の母は、囁く様な声で功夫に訊いた。 「いや、別にいつもと変わらんよ。」 「そう?お母さんは、功夫のことを子供んときから見てきたん、何となくわかるとよ。今までお前は辛かことが沢山あったっけん、幸せになってくれれば、お母さんも嬉しかとよ。」 「いやいや、本当に何もなかよ。あ、関係なかばってん、隣の女の人退院したんやね。」 「ああ、今日のお昼ごろ出て行ったよ。」 「お母さん、今日は一昨日より調子よさそうやね。」 「さっき痛み止めの注射ば打ったけんね。でも、注射が効いてきたら、何だか眠くなってきたよ。」 母は、そう言って目を閉じた。功夫は改めて那美が出て行った後の空になったベッドを見た。カーテンは全開になり、既に「砂原那美」のネームプレートも取り外され、持ち物も全て撤去されていた。
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