本当にこのままずるずるとリチャードとの関係を引きずっていったらどうなってしまうんだろう。体さえ許さなければ、これでも一応ただの友達ということで許されるんだろうか…。茉莉子は自分のしていることの理由がわからなくなっていた。
そして、十一月上旬の週末、またリチャードからお誘いが来た。
「今度の土曜日、天気がよかったらバウワウをつれてカーメルまでお散歩に行こう。-Rich」
カーメルは、洒落たアトリエやカフェが並ぶ海岸沿いの美しい街だ。当日は、十一月にしては暖かく、天気のいい土曜日だった。茉莉子は丁度昼ごろリチャードの家に着いた。リチャードの家からカーメルまでは、車で二時間ほどかかる。久しぶりの外出に、バウワウも嬉しそうだ。 バウワウを後部座席に、茉莉子を助手席に乗せ、リチャードの車はカーメルに向かった。茉莉子は、リチャードよりも、運転席と助手席の間に後ろから顔を出すバウワウにひたすら注意を向けた。 「今朝マリコと一緒に出かけるって言ったら、バウワウすごく喜んでたよ。バウワウも君のこと大好きなんだ。」
カーメルに着いた。 「ここに、ドリス・デイが経営するホテルがあるんだ。彼女は動物愛好家だから、そのホテルもペット出入り自由になっているんだよ。」 二人はバウワウを連れて、例のドリス・デイのホテルのカフェに入った。洒落たデザインのマグカップに注がれたブラックコーヒーを啜りながら、茉莉子の視線は、ずっとホテル内を歩き回る犬たちを追っていた。考えてみれば、好きでもないリチャードと過ごす時間の気まずさをやわらげてくれたのは、ノワールやミケ、そしてバウワウのお陰かもしれない。それほどに茉莉子は動物を愛していた。居心地の悪い相手とでも、間に動物がいてくれれば間が持つのだ。しかし、美しくグルーミングされた犬たちと優雅な飼い主たちの中で、バウワウの貧乏臭く粗末に刈られた毛とリチャードの品格を欠いた容姿、そして一緒にいる茉莉子自身が情けなく思えた。
カフェを出ると、毛並みの美しいメスのコリー犬が飼い主のブロンドの女性に連れられて歩いていた。すると、バウワウはいきなり発情し、コリー犬に後ろから跨った。 「え?バウワウって去勢してるんじゃなかったの?」 と言いつつ、茉莉子は「やっぱり犬って飼い主に似るんだな。」と納得した。
二人はしばらくカーメルの街並みを見て歩いた。茉莉子はしっかりと腕を前で組み、一切自分から口を開くことはなく、リチャードとは距離を保って歩いていた。当然目もリチャードを見ていなかった。一方、リチャードはアトリエや土産物屋の前で、何か見つけては一人で喋っていた。店の窓辺にディスプレイされたプードルの置物を見つけて、「あ、バウワウそっくりだ。バウワウの子供代わりに買ってあげようか。」と言うリチャードに、茉莉子は「その置物のプードルの毛のカットはバウワウのよりずっと芸術的で素敵よ。一緒にされたら迷惑じゃないの?」と突っ込みを入れたくなったが、何も言わず黙っていた。また、針金とガラスでできた繊細なモビールを見て、「これ、ミケちゃんが見たら喜びそうだね。でもあまり喜んで壊しちゃうかもね。」と言うリチャードに、茉莉子はこれまた何も言わず黙っていた。壊れたガラスや針金が猫の体に刺さったら危険だろうに、リチャードのあまりに無神経なイマジネーションが茉莉子には不快だった。
夕方、二人はリチャードの家に戻った。 「僕さ、この間、君が作ってくれた魚のホイル焼きが気に入って、自分でも作ってみようと思ったんだ。で、今日はキングサーモンを買ってきたんだ。一緒に料理しよう。」 リチャードは、キングサーモンや野菜を冷蔵庫の中から取り出し始めた。ホイル焼きならシンプルだし、リチャードでも失敗しないだろうと思いきや、なにやら嫌な予感…。青梗菜、キャベツ、ベイビーキャロット…、こんなに目茶目茶に包んで大丈夫だろうか? キングサーモンの切り身と野菜はアルミホイル一枚には収まりきらず、二重包装することになった。全ての具を包んだホイルはフットボール並みの大きさになった。 「何分ぐらい焼けばいいの?」 「十五分から二十分くらいかな?オーブンの温度にもよるけど。」
十五分経って、リチャードはオーブンを開け、料理の焼け具合を確認した。巨大な包みを開けると、中にはまだ生焼けのサーモンがあった。結局何度もオーブンを開けて焼き具合を確認しては焼き直し、一時間ほどかかって何とか食べられる程度に熱が通った。いつもどおり、リチャードはソファの前に簡易テーブルを設置し、完成したホイル焼きとあらかじめ作っておいたサラダを配膳し、ワインのボトルを開けた。 いざ食べてみると、野菜の組み合わせがどうもアンバランスで、美味しいとはいえない。特に青梗菜はべったりとサーモンに張り付いてしまっている。一方サーモンには味がしみていない。ここで茉莉子は、以前に頼んでもいないのにリチャードが野菜をどっさり買ってきたことを思い出した。そのとき茉莉子は、買ってこられた野菜をどう組み合わせてどんな料理すればいいのか頭を悩ませたが、ここでわかったのは、リチャードは肉食文化で育ったせいか野菜のそれぞれの特性を生かした調理法を知らないということだ。だから、野菜である以上、リチャードにとっては全て同じなのだ。しかし、このホイル焼きという調理法がよほど気に入ったと見られるリチャード。今後も「ジャパニーズ・フード」という名の下に、このフットボール大で野菜がアンバランスに入り混じったホイル焼きを自慢げに披露していく姿が想像できた。それにしても、アメリカにはカリフォルニアロールやテリヤキチキンを出すなんちゃって日本食レストランは数あれど、なかなか本格的な日本食が普及しないのは、このように元々肉食文化に育ったアメリカ人が日本の食材を導入すること自体に無理があるからだろうか? そして、リチャードは、またいつものように、食事中何度も「Kanpai」と言って茉莉子にワイングラスを差し出してきた。茉莉子がナイフとフォークを握っていようがお構いなしだ。その度茉莉子はナイフとフォークを置いて、ワイングラスを握り、リチャードの乾杯の要求に応じてあげないといけなかった。料理法にしろ、乾杯にしろ、リチャードが茉莉子から影響を受けて彼なりにアレンジしたものは、日本文化のアメリカナイズを通り越して、全て茉莉子を却って不快にさせた。 「今度、ミソ・スープの作り方も教えてよ。」 と言うリチャードに、茉莉子は、 「ミソ・スープは、一緒に食べる料理を選ぶから、結構難しいわよ。」 と答えた。これは、素材を生かした調理法や組み合わせのわからないリチャードに対する皮肉でもあった。リチャードのことだから、セロリやニンジンなど、日本人の常識では考えがたい具の入った味噌汁を平気でにんにく臭いマッシュポテトやその他奇妙な創作料理と一緒に食べるところが容易に想像できたのだ。
テレビでは、リチャードの大好きなコメディショーが放送されていた。リチャードは、茉莉子の肩に手を置いた。 「テレビを見ると却って力が入るんだね。」 「英語は私の母国語じゃないから、英語を聞くときには神経を集中させないといけないの。」
食事が済み、二人は残りのワインを啜りながらテレビを見ていた。リチャードは茉莉子に言った。 「今日は僕の肩をマッサージしてもらってもいいかな?」 茉莉子は肩もみは得意だった。というのは、自分自身が肩凝り性な上、子供の頃からよく母親の肩を揉んであげていたので、ツボを弁えていたのだ。リチャードも今日はカーメルまで往復車を運転して疲れたことだろうし、多少サービスしてあげてもいいだろう。 「OK.」 茉莉子が答えると、リチャードはソファの前の床に腰を降ろし、茉莉子がその後ろからソファに座った状態でリチャードの肩をマッサージした。すると、今度はリチャードが茉莉子に頭皮のマッサージをするようお願いしてきた。 「え?この脂ぎった禿頭を?」 茉莉子がリチャードの頭に指で触れると、べとっとした脂の感覚が…。まあでも、脂のついた手は、後で石鹸で洗えばいい。 「上手いね。すごく効くよ。」 リチャードも満足そうだ。 「今日は、ドリス・ディのホテルのカフェでお茶して、バウワウと一緒に歩いて、きれいな街並みを見て…。楽しかったね。サーモンのホイル焼きも美味しかった。」 またいつものリチャードの「本日のデート総まとめ」が始まった。リチャードは、いつも茉莉子と一日を過ごした後には、こうやって目を閉じてその日あったことを回顧するのだった。
ふと、リチャードは立ち上がり、奥の部屋に入っていったかと思うと、マッサージオイルのボトルを持って帰ってきた。 「今日は君にオイルマッサージしてあげるよ。」 「え?でも、服を脱ぐのは絶対に嫌だよ。」 「それなら…。」 リチャードはまた奥の部屋に行き、今度は大判のバスタオルを二枚持って出てきた。 「これで局部を隠しておけば平気でしょ?」 「それでもイヤ。」 茉莉子は頑なに拒否し続けた。 「だって、君、いつも肩凝ってるし、オイルマッサージしたら絶対楽になるはずなんだけどな。」 「イヤ!」 「このマッサージオイル香りもよくてすごくリラックスできるんだよ。」 「イヤ!」 茉莉子があまりに頑なに拒むので、リチャードもやっと諦めた。 「だったら、代わりに君が僕の体マッサージしてよ。」 リチャードがシャツを脱ぐと、毛深い上半身が露になった。白人で胸毛が生えているのは普通だが、リチャードは体中毛だらけで、背中からお腹までまるで猿並みだ。毛のないのは頭頂部のみだ。リチャードが下着も脱ごうとしたので、茉莉子は、リチャードから目をそむけながら、 「下半身はタオルで隠して!」 と言ってリチャードにタオルを渡した。
リチャードが腰にタオルを巻いてうつ伏せに横たわると、茉莉子はオイルを手に取り、手の中でオイルを温めた。リチャードの毛だらけの背中をオイルを塗った手でマッサージすると、手の方向に向かってオイルを含んだ毛が渦巻きを描いた。 「うわっ、すごい!毛が渦巻いてるよ!」 茉莉子が思わず顔をしかめると、リチャードは鼻で「フフッ」と笑った。
リチャードがシャワーを浴びて戻ってきた。白いよれよれのTシャツ、チェック柄の綿の短パン、白い靴下姿のリチャードは、普段以上に脚の短さやお腹の出具合が目立ち、なんとも不恰好だった。そして、老眼鏡をかけ、ソファの横に立てかけてあったギターを手に取ると、いきなり弾き語りを始めた。 「ドゥードゥドゥードゥドゥー…」 まさしく、糠みそが腐る歌声とはこのことだ。尤も英語で「Rotten rice bran」といってもリチャードに通用するはずはないが…。それでも、リチャードは自分の歌に自己陶酔して何曲も歌い続けたので、茉莉子も敢えて止めもせず、その代わり賞賛もせず、黙ってリチャードの音痴な歌をバックに、床に寝そべるバウワウの体を撫でていた。
その後、家に帰ってシャワーを浴びても、茉莉子の手にはオイルまみれのリチャードの背中の毛の感触、耳には「ドゥードゥドゥードゥドゥー」がしばらく焼き付いて離れなかった。
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