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三十路女の消し去りたい過去 作者:Gatita

第8回   ジャパニーズ・サケ
「今度の土曜日、BENIHANAに行こう。僕はBENIHANAの焼肉ソースが大好きなんだ。だから、日本人の君に味見をしてもらって、何を使えばあの味が再現できるのか教えてほしい。-Rich」

 BENIHANAといえば、アメリカでは人気の鉄板焼きレストランだが、茉莉子は実はそれまで一度も行ったことがなかった。というのは、茉莉子はカリフォルニアロールやテリヤキチキンに代表されるようなアメリカ人好みにアレンジされた日本食に抵抗があったからだ。尤もそれを「日本食」と思わず、アジアの影響を受けて作った創作料理と思って食べれば問題ないのかもしれないが…。そして、大部分のアメリカの日本食レストランは本場の日本の味とはかけ離れていること、自分はちゃんと日本人が経営するレストランで日本人調理師が日本人向けに料理した日本食しか食べたくないことは何度もリチャードに話したことがあった。それなのに、ディナーにBENIHANAを選ぶなんて…。アメリカで食べる外国料理の善し悪しについては、同じ外国人だった元彼に対しては説明不要だったのに対し、外国に住んだことのないリチャードにはいくら説明しても無駄なようだった。しかも、リチャードは日本人だったら日本食レストランで出されるソースの味見をしただけでその材料や組成までわかると思っているのだろうか?どう考えてもそう単純なことではないと思うのだが…。

 約束の夕方五時、茉莉子は車でリチャードの家に着いた。
「まだ夕食まで時間があるから、君の車を洗ってあげるよ。君はアパート暮らしだから、家では車洗えないだろう?僕の家だったらただで洗ってあげられるよ。」
確かに、いつも洗車に行くと、安くても十数ドルかかる。茉莉子はその日ロングスカートにパンプス姿で、車を洗うのには不適切な服装だった。
「貴方一人にお任せするのは申し訳ないと思うけど、でもこの服装じゃ無理ね。」
と茉莉子が言うと、リチャードが、
「じゃあ、これに着替える?」
と言って綿の短パンを持ってきた。トロピカルプリントの男物のデカパンだ。
「いや、いい…。」
流石に男物のデカパンを穿くには抵抗があったので、茉莉子は厚かましいと思いつつもリチャードが車を洗う様子をただ傍から見ていた。それにしても、何だかいい加減な洗い方。これなら多少お金を出しても洗車屋に持っていった方がましなような…。
 途中で、リチャードの家の近所に住む女性が通りかかった。リチャードは自慢げに彼女に茉莉子を紹介した。実は、リチャードは既に周囲の人に茉莉子のことを自慢げに話していた。一方茉莉子は誰にもリチャードのことを話したことはなかった。それはリチャードが自慢に値しない不細工な男だからではない。パートナーとして相応しくないことがわかっている男性に、ただ惰性で会い続けている自分が恥ずかしかったのだ。幸いと言っては何だが、茉莉子の勤め先は平均年齢の高い小さな職場で、プライベートまで時間を共にするような同年代の親しい社員もいなかったため、リチャードのことは誰にも知られずに済んだ。

 リチャードが茉莉子の車を洗い終わったというので、茉莉子は車を路上に移動させ、リチャードはジオのプリズムをガレージから出した。二人を乗せたプリズムは、BENIHANAのあるショッピングモールへ向かった。

 二人はBENIHANAの店内に入った。茉莉子も、実際にBENIHANAに来るのは初めてだったが、何度か映画やコマーシャルで見たことがあったので、大体どんな雰囲気か想像はついていた。鉄板の前で、シェフが調理器具を曲芸のように振り回し、時には油や食材まで撒き散らしながら調理をしている。創始者は日本人なのだが、あくまでアメリカ人の客層をターゲットにした経営なので、日本人が祖国の味を懐かしんでいくような場所ではない。
「これって、日本食っていうのかなあ?日本ではこんなの見たことないよ。」
茉莉子は改めて、BENIHANAの料理は本格的な日本食ではないことをほのめかしたが、リチャードには伝わったのだろうか…。

 二人はメニューを見た。やはりどう見ても日本食とは思えない品目ばかりが列記されている。それでも一応ドリンクメニューにはキリンビールや日本酒など、日本のお酒も含まれていた。
「じゃあ、キリンの一番絞りにしようかしら。日本酒は美味しいけど、飲むと二日酔いになるから、あまり飲まないようにしてるのよね。」
「そうそう。日本酒はすごいよね。」
リチャードは過去の日本酒にまつわる自らの経験を話し始めた。
「仕事仲間と一緒にBENIHANAに来たことがあるんだけどさ、その時みんなで日本酒飲んだんだ。そしたら、みんないい気持ちになって、親密になっちゃったんだ。でさ、取引先の女性で、マリーていう人なんだけど、仕事のときはすごく真面目だったのに、日本酒飲んで酔いが回ったら、同僚のダンの膝に乗っちゃってさ、すごいいちゃいちゃしてるの。マリー、ミニスカート穿いてたんだよ。でね、ダンも、マリーの胸触っちゃってるの。日本酒って、人をエッチな気分にさせるパワーがあるんだね。」
また下品な話が始まった!茉莉子は眉間に皺を寄せて言った。
「それって、仕事関係のお食事会だったんでしょ?信じられない。」

 二人の前に小皿に入ったソースが運ばれてきた。リチャードが言った。
「ねえ、これ、味見して、何が入ってるか教えてよ。」
そんなの知るか!と思ったが、茉莉子は自分のソースを箸の先につけて舐めてみた。見れば醤油ベースであることはわかる。でも、どんな隠し味がされているかまで完璧に見抜くことは無理だと思ったので、茉莉子は適当に答えた。
「醤油、日本酒、乾燥させた鰹から取っただし汁…。それ以上はわからない。」
「カツオブシ」と言ってもリチャードには通用しないので、「乾燥させた鰹…」まで説明しなければならないのだ。
 次に、ジョッキに入ったビールが運ばれてきて、シェフは二人が注文した料理を鉄板の上で焼き始めた。リチャードはいつものように、茉莉子に何度も「Kanpai」「Kanpai」とジョッキを差し出してきた。茉莉子が食事を頬張っていようが、箸を握っていようがお構いなしに…。「Kanpai」という言葉を覚えただけで国際人に成りすましてはいるが、実は乾杯のタイミングやマナーを全然弁えていないリチャードに対しては、今更何を言っても無駄なのだ。確かに茉莉子は最初にローカル掲示板のパーソナルズに広告を出したときには「異文化に興味のある人」を求めてはいたが、このように日本文化を間違った形で取り入れられ、我流にアレンジされるのは、日本人である茉莉子にとって気持ちのいいものではない。

 リチャードの下品な話を散々聞かされ、店を出る頃には、すっかり茉莉子もご機嫌斜めだった。一方リチャードはディナーを楽しんだようで、
「ね。あのソース、美味しかったでしょ。」
と茉莉子に訊いてきた。茉莉子はぶっきらぼうに答えた。
「日本人として、あれを日本食とは呼びたくない。まあ、でも、逆に日本食と思わなければいいのかも。」

 その後、二人はリチャードの家で、リチャードの家にあったビデオを見た。カリフォルニアが舞台となった映画で、リチャードこの作品によほど思い入れがあるらしく、何度も見ているため台詞一つ一つまで覚えているようだ。リチャードは、茉莉子の肩を抱き、シーンごとに茉莉子にいちいち映画の解説をして聞かせた。そして、たまに「ハァ〜」と茉莉子の耳に生ぬるい息を吹きかけてきた。どうやらそうすれば女性が興奮すると思い込んでいて、茉莉子をその気にさせたかったようだ。あまりの不快さに、当然映画の内容は全く頭に入らなかったが、茉莉子は体を硬直させてただまっすぐテレビの画面を見つめていた。一方的に興奮するリチャード、それに反比例するかのように神経を緊張させる茉莉子、そして薄暗い照明の中、壁にかけられたハート型のネオン管がえもいわれぬ不気味な雰囲気を醸し出していた。
 映画の中に、「El Camino Real」というストリートの名前が出てきた。サンフランシスコからロスアンゼルスまで続く長いストリートだ。リチャードは茉莉子に説明した。
「Caminoが王様、Realが道、つまり王様の道っていう意味だよ。」
これを聞いて、少々スペイン語の知識のあった茉莉子は吹き出してしまった。
「違うよ。Caminoが道で、Realが王様だよ。」
茉莉子は故意に雰囲気を壊すため、しばらく笑い続けていた。リチャードも苦笑した。

 映画が終わった頃には既に真夜中を過ぎていた。
「今日は泊まっていってもいいよ。」
リチャードが言うと、茉莉子は答えた。
「いやだよ、何の準備もしてないのに。それに、ノワールとミケも待ってるし。」
そう言って、そそくさとリチャードの家を出た。
「マジで拙くなってきたなあ…。」
茉莉子は家まで車を運転しながら、リチャードに触られた肩や息を吹きかけられた耳に蕁麻疹のできそうな不快感を覚えた。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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