ある十月末の土曜日、リチャードが買い物袋を提げて茉莉子の家に来た。日系のスーパーマーケットで買った野菜がたくさん入っている。 「野菜買ってきてあげたよ。これで今週は買い物に行かなくていいよね。」 頼んでもいないのに!それに、最初に何を作るか計画を立ててからどんな野菜を買うか決めるもんじゃないの?余計なことしてくれちゃって…。袋の中には、モヤシ、ほうれん草、ニンジン、玉ねぎなどが入っているが、これらの野菜をどう組み合わせて何を作れというのだろう。茉莉子の家にある調味料でできるとしたら、せいぜい野菜炒めくらいしか思い浮かばない。 そして、野菜と一緒に板チョコも一つ入っていた。 「私、甘いものは食べないって言ったはずだけど?」 「いや、美味しいから、少しだけでも食べてごらんよ。」 茉莉子は素直に「Thank you」とは言えなかった。本当にありがたくなかったのだ。
「あ、そういえば…。」 茉莉子が言った。 「来週の日曜日から、ボストンに四日間出張に行くことになった。」 「ノワール君とミケちゃんはどうするの?」 「それなのよ。今まで三日間程度の出張ならドライフードを置きっぱなしにして行ってたけど、四日間出かけるのは初めてだから、ペットシッター探さなきゃいけないなと思って。」 「僕がやってあげてもいいけど?」 「本当?」 今更、家の場所も知られてしまっているわけだし、まさかリチャードも物を盗んだりはしないだろう。ただで猫の世話をしてくれというんだから、ここは利用してもいいかも! リチャードが訊いてきた。 「何時の飛行機?僕が空港まで送るよ。」 「大丈夫よ。自分の車で行って空港の駐車場を利用すれば、会社が駐車場代も負担してくれるんだから。」 「いや、君のこと空港まで送ってあげたいんだ。」 リチャードの濁った青い目が、茉莉子の目をまっすぐに見つめた。リチャードの存在は、当然茉莉子の会社の人には一切話していない。出張経費の請求書を会社の経理部に提出して、空港までの交通費若しくは駐車場代が含まれていないことについて問われたらどう答えよう?バスで行ったなどと言い訳しても、まさか公共の交通機関の不便なこの地域で、空港までバスを使う人はまずいないので、信じてもらえるはずがない。しかし、リチャードはどうしても茉莉子を空港まで送りたいと言う。確かにそうしてもらうと茉莉子にとっても便利なのだが、もし経理部の人から訊かれたら、何か口実を考えないと…。
茉莉子は、ノワールとミケのフードの置き場所とトイレの場所をリチャードに説明した。リチャードも過去に猫を飼ったことがあるということだったので、猫の飼い方について大体のことはわかっているはずだ。 「ノワールやミケがよく隠れる場所も教えてよ。」 「大体がキャットタワーの中にいるけど、たまにベッドの下にも隠れるわよ。」 「鍵は?」 「出発前に渡す。」
ボストン出発前の金曜日、茉莉子はリチャードの持ってきたチョコレートを見開封のまま会社のカフェテリアのカウンターの上にそっと置いておいた。こうしておけば誰かが食べるだろう。家に帰ると、冷蔵庫の中にはまだリチャードの買ってきた野菜が大量に残っていた。 「一人暮らしなのに、こんなに食べきれるわけないじゃん。いつもなら一週間で食べきれる量を、メニューを考えながらちゃんと計画を立てて買うのに、お陰で予定が狂っちゃった。」 萎れかかった野菜を、茉莉子は勿体無いと思いつつも処分せざるを得なかった。
日曜日の朝、リチャードが茉莉子のアパートに迎えに来た。茉莉子はリチャードに鍵を渡して言った。 「合鍵作ったりしないでね。あと、クロゼットや箪笥の中は絶対に開けないで。約束してくれるよね?」 「もちろん!」 リチャードは即座に二つ返事で答えた。 茉莉子は両手でノワールとミケを抱き、 「じゃ、行ってくるね。元気にしててね。」 と言って、家を出た。リチャードは茉莉子の小さな黒いスーツケースを車まで運んだ。空港に着くまで、茉莉子はずっと助手席でノワールとミケの心配をしていた。
その三日後の夕方、ボストンを午後に出発した飛行機は、予定より数十分遅れてサンフランシスコ空港に着いた。空港を出ると、リチャードの車が茉莉子を待っていた。遠くから見ると、リチャードの禿頭と突き出たお腹は砂漠の中の岩のように見えた。改めて、なんて不細工な男なんだ…と思った。 リチャードの顔を見るなり、リチャードにお帰りのハグをさせる間もなく、茉莉子は真っ先に訊いた。 「猫たちは元気?」 「うん。元気だよ。」 「よかった。どうもありがとう。早く猫たちに会いたい。」 リチャードが車の助手席側のドアを開けたので、茉莉子は「Thank you」と言ってリチャードに軽く頭を下げ、そそくさと乗り込んだ。 「元気だった?」 リチャードが訊いてきたので、茉莉子は答えた。 「うーん、ボストン寒かったし、風邪引いたかも。喉の調子がよくない。」
二人を乗せた車が茉莉子のアパートの駐車場に着いた。リチャードは、借りていた鍵を茉莉子に返すと、茉莉子のスーツケースを運んで、茉莉子と一緒にアパートに入った。ドアを開けると、ノワールとミケが茉莉子を迎えに出てきた。しかし、何故か異臭が…。 「元気でよかった〜。でも、なんでこんなに臭いの?」 猫用トイレを見に行くと、トイレの淵に猫のフンがついていた。 「あら、どうしちゃったのかしら?いつもこんなことないのに…。」 やはり茉莉子がいない寂しさと、慣れない禿げ男の訪問とで、猫たちも混乱してしまったようだ。茉莉子は何だか猫たちに申し訳ないことをしたような気がした。 「実は、ちょっとミケちゃんに引っ掻かれちゃってね…。」 リチャードがズボンの裾をめくりあげると、脛の中程に5センチほどの生々しい引っ掻き傷があった。でも、長ズボンを穿いていたはずなのに、何故そんなところを引っ掻かれるんだろう…? 「ノワール君とミケちゃんと遊んでいたら、仕事の後で疲れていたせいもあって、急に睡魔が襲ってきたんで、君のベッドにズボンを脱いで横になったんだ。あ、もちろんトランクスは脱いでないよ。そしたら、ノワール君とミケちゃんがベッドの上でプロレスごっこ始めちゃって、ミケちゃんがベッドから飛び降りたときに僕の脚引っ掻いちゃったんだ。」 えーっ?私のベッドで勝手に寝たの?しかもズボンを脱いで?茉莉子は血の気が引いた。それにしても、ミケ!お手柄だ! 「ごめん、今日は私疲れたし、喉も痛いからからもう寝たい。猫たちの世話、本当にありがとうね。」 茉莉子は早く寝たかったので、リチャードには長居せずすぐに帰ってもらうことにした。リチャードの寝た後のベッドで寝るのは気持ち悪かったが、シーツを洗濯する余裕が無いほど茉莉子は疲れていた。
翌日、喉の調子もよくなったので、茉莉子はいつも通りに出社した。出張経費の請求書とレシートを経理部に提出した際、もし家から空港までの交通手段について訊かれたらどうしようかと思ったが、幸い経理部はその点について特に気に留めていないようだった。 私用メールをチェックすると、リチャードからメッセージが届いていた。
「風邪、大丈夫?今週末、チキンスープを作ってあげる。僕のチキンスープ、すごく風邪に効くよ。あと、ミケちゃんの面白い話も聞かせてあげる。-Rich」
いや、もう喉の調子もよくなったし、全然問題ないんだけど…。
土曜日、リチャードは茉莉子の家に買い物袋を提げて来た。予告どおり、チキンスープを作るつもりだ。 「お鍋貸して。」 もう喉の痛みなんて二日前に治ってしまったし、今はどこも悪くないんだけど…。そう思いながらも、せっかく材料まで買って来てくれた以上、チキンスープを作らせないわけには行かない。ということで、茉莉子はリチャードに言われたとおり鍋を貸した。 リチャードは、買い物袋の中から丸ごとの鶏肉を取り出し、野菜と共に煮始めた。所詮日本人の茉莉子。肉食人種のアメリカ人とは消化器系の構造が違うのだから、そんな丸ごとの鶏肉なんて重過ぎて食べる気がしない。 「あとはこれをしばらく煮込むだけ。ちょっとトイレ貸してね。」 リチャードがキッチンから出てきて、そのままトイレに入った。
トイレから出てくるなり、リチャードは言った。 「そうそう、ミケちゃんの面白い話だけどさ。君の出張中に僕が世話をしていたとき、僕がトイレに入ったらミケちゃんも一緒に入ってきたんだ。でね、でね。僕がおしっこをしたら、おしっこが弧を描いて便器に入る様子を、ミケちゃん、興味深そうに見てたんだよ。面白かった〜。今度機会があったら見せてあげるよ。」 「いや…、見たくない…。」 茉莉子は顔をしかめた。食事前になんて汚らしい話をするんだ。それに、自分が放尿しているところを「見せてあげる」だなんて…。リチャードにペットシッティングをお願いしたときは、まさか物を盗んだり等悪いことはしないと思ったし、クロゼットや箪笥を開けないで欲しいといったら二つ返事で「もちろん」と答えたので、茉莉子もすっかり信頼しきっていた。しかし、まさか、勝手にベッドで寝られて、しかも自分の愛猫に放尿しているところを見せて喜ぶことまでは想像していなかった。今更ながら、リチャードにペットシッティングをお願いしたのは間違いだったと思った。
チキンスープが完成したようなので、茉莉子はリチャードにスープ皿を渡した。リチャードが盛り付けてテーブルまで運んできたスープを、茉莉子は一口スプーンで掬って食べてみた。味がない!どうやらリチャードは塩を入れ忘れたようだ。仕方がないので食卓塩を振りながら食べたが、やっぱり後から塩を振っても、食材と馴染まず、不味い。 鍋の中にはまだ大きなチキンの塊と大量のスープが残っていた。流石にこれから数日間もこれを食べ続けるのは御免だが、それでも茉莉子は一応建前上、 「残りは後で食べるから。」 と言って鍋に蓋をした。
その後、二人はリビングのソファに座り、茉莉子が借りてきたカナダの映画のDVDを見た。茉莉子は邪魔されず集中して見たかったのだが、リチャードは茉莉子の肩や背中をやたらマッサージし、時には映画と関係ないことまで話しかけてきた。 「君の出張中、君のベッドで寝たとき、僕、すごく幸せだったよ。まるで君と一緒に寝ているようなエロチックな気分になった。」 そう言って、リチャードは茉莉子の首筋に生ぬるい息を吹きかけてきた。少しずつ変態の本性を現していくリチャードに対し、茉莉子はそろそろブレーキをかけなければいけないと思いつつ、無視して映画を見続けた。リチャードから自らを防御すべく、体全体に思い切り力が入っていた。
映画が終わったが、せっかくいいストーリーだったのに、リチャードのせいで半分ほどしか頭に入らなかった。それでも、リチャードは映画を見て感じたことを自分のことと結びつけて一人で話し続けた。 「そうそう。あの男の人が、家に家具を置いていない理由について、もしパートナーができたら、その人好みの家具を買えるようにしておくんだって言ってたよね。実は僕も同じなんだ。」 どうやらそれでリチャードの家にはダイニングテーブルもなければ、床のタイルも剥がれっ放しのようだ。それにしても、リチャードはロマンチストのようで、映画を見終わった後は、特にロマンス部分に関して自分のことと結びつけて一人で話し続けることが多かった。
「結構今日も肩凝ってたね。背中やお腹にも何箇所かコリがあった。オイルマッサージすると凝りもほぐれるからお勧めだよ。」 「え?凝りって服の上から指でちょっと触ったくらいでわかるもんなの?」 茉莉子はこの日ツインニットを着ていた。もちろん肩凝りは体質でもあるが、それ以前に体が硬直していたのは、リチャードに対する防御反応のせいだ。それにしても、お腹にコリってどういう状況だ?これはやはり単に茉莉子に服を脱がせたいだけでは…。
「ねえ、僕、今日はこのまま泊まっていっていい?」 「えーっ!そんなのいやだよ。大体犬はどうするの。」 リチャードの問いかけに対し、茉莉子は眉間に皺を寄せて答えた。 「バウワウならご飯あげてきたから、朝早く帰れば大丈夫だよ。ねえ、エッチする気はないから。だめ?」 「いや、本当に困る。悪いけど帰って。」 「そう。残念だね。じゃあ、今日は帰るよ。」
リチャードが帰った後、茉莉子は、勿体無いと思いつつもチキンスープをざるで濾し、スープは流し、具は生ゴミとして処分した。そして、借りてきたDVDは、翌日また最初から見直した。 リチャードとの関係が、予期せぬ方向に向かい始めていたのは自覚していた。しかし、茉莉子はリチャードとの逢瀬を止めるタイミングが掴めず、このおかしな関係をただ惰性で続けるのみだった。
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