リチャードと茉莉子は、しばらくレストランや映画館など、外で数時間だけ過ごし、その後はすぐに帰るという健全なスタイルで会い続けた。一応茉莉子にも警戒心があったので、しばらくはリチャードの車に乗ることすら避け、待ち合わせ場所までお互いの車で別々に到着し、帰るときも別々にしていた。
頭をゴルフ帽で隠していたのは初対面のときのみで、二回目以降はリチャードも禿げ頭を露にしていた。禿げは後頭部の中ほどまで進行していた。リチャードの仕事は在宅勤務とのことだが、人と会うことも多いそうで、平日に仕事の後で会うときには、いつもシャツにネクタイをしてスラックスを穿いていた。シャツの色は青系が好みのようだ。これに対し、ネクタイは柄の派手なものが多く、顔に似合わずハート柄、犬などの動物柄のものをしていた。これに対し、週末は綿のシャツにジーンズ姿が定番だった。
サンフランシスコは移民の多い地域なので、アジアやヨーロッパなどの本格的な外国料理のレストランも多いのだが、茉莉子の元彼がいつも良質な外国料理のレストランに連れて行ってくれていたのに対し、リチャードはアメリカナイズされた安っぽいレストランばかりを選んだ。しかし、贅沢を言ってはいけないのは承知していた。ヨーロッパ出身で旅行経験も豊富な元彼が本場の上質な味とアメリカナイズされたジャンクな味の区別が付くのに対し、アメリカ生まれアメリカ育ちのリチャードに同じ価値観を求めるのは所詮無理なのだ。 そして、もう一つ驚いたのは、リチャードの食事の遅さだ。ウエイターが「食事はお済ですか?」と、お皿を片付けに来ても、まだまだ食べ続けていることがあり、とっくに満腹になった茉莉子はそんなリチャードをただ見つめていることもしばしばだった。それでも少しも急ごうとしないリチャード。フォークで食べ物を突き刺したまま、なかなかそれを口まで運ぼうとしない。こういうのを「空気が読めない」というのだろうか。尤も、日本と違って、アメリカには学校給食の制度が無いので、子供の頃から「時間内に残さず食べろ」という教育を受けていないのかもしれないが…。
ある日、外国映画が好きな茉莉子の趣味に合わせて、二人は単館上映のアジア映画を見に行った。まず、映画の上映開始まで少し時間があったので、映画館横のコーヒーショップで時間をつぶした。リチャードは、いきなり目を閉じて空想に耽ったような顔をしながら言った。 「君の声って、なんかソフトで心地いいね。そのアクセントも好きだ。」 茉莉子が本格的に英会話をマスターしたのは大学卒業後なので、未だに日本人独特のあまり舌を巻かないフラットな話し方をした。しかし、自分の英語の発音の不完全さを逆に褒められたこともにも違和感があったが、それ以上に、リチャードのその空想に耽る姿に茉莉子は一種の気味悪さを感じた。
映画の内容は某アジアの田舎町での新任小学校教師の奮闘記で、中には戦争で死んでしまう生徒もいたりして、お涙頂戴的な作品だった。茉莉子の目頭がうるうるしかけたとき、暗闇の中でリチャードが露骨に鼻を啜る音が聞こえ、茉莉子は興ざめしてしまった。映画館を出ると、リチャードは茉莉子を駐車場まで送っていきながら、「いい映画だったね。感動したね。」と、一方的に映画の感想を話した。そして、茉莉子の車の前に着くと、こう言った。 「僕さ、結構遠くに車止めちゃったんだけどそこまで乗せていってくれないかな?」 茉莉子は耳を疑った。こんな図々しいお願いをしてきた男性は今までで初めてだ。茉莉子は「悪いけど、私運転は苦手だから、あまり人を助手席に乗せたくないの」と言って断ったが、本音はリチャードの図々しさが信じられなかったからだった。
そんな逢瀬が何週間続いただろうか?十月頭の土曜日、リチャードがついに茉莉子を家に誘ってきた。
「今夜チッピーノ(イタリア風の魚介類のスープ)を作るので食べに来ませんか?以下に住所を書きます。フォードのブロンコが停めてある家を探してください。-Rich」
今ひとつ気が進まなかったが、どうせ暇だし、せっかく作ってくれるというのなら…と思い、茉莉子はお誘いを受け入れることにした。
リチャードがメールで送ってきた住所を地図検索し、約束の時間の午後五時に間に合うよう、茉莉子は目的地に向かった。リチャードの言ったとおり、家の前には乗り捨てられたような薄汚れた黄色いフォードのブロンコが停めてあった。 茉莉子がドアをノックすると、リチャードの愛犬バウワウが激しく吠えた。 「Welcome」 リチャードが出てきた。 「夕食の準備の前に、ビデオを借りに行こう。」 茉莉子は、この日初めてリチャードの車に乗ることになった。 「まず車出すから外で待ってて。」 茉莉子が言われたとおり外で待っていると、ガレージのドアが開き、中から数箇所ペイントの剥げたライトブルーのジオ・プリズムが出てきた。ガレージの中は豚小屋のように煩雑で、やっと車を止めるスペースが確保できる程度だったため、助手席に人を乗せるときには一度車を外に出さなければならないようだ。因みに、家の前に停めているブロンコは、たまに大きな荷物があるときのみ使用するそうで、普段載っているのはこのプリズムの方なのだそうだ。 一方、茉莉子もジオの車を運転していた。数年前、渡米したばかりでお金の無かった茉莉子は、とにかく安い車が必要で、間に合わせに安い中古のジオ・メトロを買ったのだ。それに対し、リチャードは、 「君の車と僕の車は兄弟だね。」 と言った。
二人はビデオ屋に着いた。外国映画のセクションに行くと、茉莉子が以前から見そびれていた日本のホラー映画があった。実は茉莉子には、知り合ったばかりの男性と映画を見る際には拘りがあった…というのは、恋愛物、特に性描写のあるものは避けることだ。理由は、相手をあまり時期尚早にその気にさせたくないからだ。その点ホラー映画は無難な線だ。 「これ、かなり怖いらしいよ。前から見たかったんだけどずっと見そびれてたんだ。」 茉莉子がDVDを手に取ると、リチャードが言った。 「家にはDVDプレイヤーが無いんだ。だから、ビデオの方にしてくれないかな?」 リチャードはホラーはあまり好きではなさそうだったが、茉莉子が見たい映画ということでオーケーしてくれて、そのビデオをレジまで持っていった。 実はリチャードがこのビデオ屋に来るのは初めてだったようで、まず会員登録をしなければならなかった。茉莉子は、横でリチャードが会員登録フォームにフルネームや生年月日等の個人情報を書き込むのを見ていた。 「なんだ、あと数週間で五十歳か。道理で四十代にしては老けてると思った。」
その後、茉莉子は初めてリチャードの家の中に足を踏み入れた。家具が古く薄汚れていて、整理整頓もされていないが、物が少ない分スペースは多い。 「じゃあ、今から料理するから、君はリビングでテレビでも見て待ってて。」 薄汚れたリビングの壁には、特に絵やポスターも貼ってなかったが、ただ一つだけハート型のネオン管の壁飾りだけがあった。リチャードは顔に似合わずハートが大好きで、以前に会ったときにはハート模様のネクタイをしていたこともあった。 一方キッチンはお世辞にも衛生的とはいえなかったが、茉莉子は自分の胃の丈夫さを信じることにした。リチャードは、ぎこちない手つきで魚介類や野菜を切り始めた。この調子じゃ、いつになったら食事にありつけるのかわからない。 「手伝おうか?」 見るに見かねて茉莉子が台所に入ると、リチャードは二つ返事で、 「ああ、じゃあ、お願い」 と答えた。
なんとか料理も完成したが、リチャードの家にはダイニングテーブルがない。どこで食べるんだろう?と思いきや、リチャードは部屋の隅から折りたたみ式の簡易テーブルを二つ持ってきて、ソファの前に置いた。贅沢を言ってはいけないのはわかっているが、茉莉子はどうしても経済力のあった元彼と比較してしまい、リチャードの貧乏臭さに落胆した。 まずリチャードの作ったサラダが運ばれてきた。レタスの中に缶詰の豆やオリーブがごろごろ入った不思議なサラダだった。続いて、メインのチッピーノとワイングラスが運ばれてきて、簡易テーブルはあっという間に窮屈になった。リチャードは赤ワインのボトルを開け、茉莉子のグラス及び自分のグラスに注いだ。 「Cheers」 リチャードがグラスを上げたので、茉莉子が、 「乾杯」 と日本語で言うと、リチャードはかなりこの言葉が気に入ったようだ。食事中、茉莉子がフォークを握っていようが、食べ物をほおばっていようが、お構いなしに何度も「Kanpai」「Kanpai」とグラスを傾けてきた。茉莉子は鬱陶しく思ったが、仕方がないのでリチャードの乾杯の求めに答えてやった。 肝心のメインディッシュは、魚介類と野菜をスープで煮込むだけの簡単なものなので、まあ食べられなくもなかったが、何か入れ忘れているような間抜けな味がした。スパイスの使い方が下手なようだ。それでも流石に正直に「不味い」とは言えなかったので、一応茉莉子は「美味しい」とリチャードを褒めてあげた。 と、いきなりリチャードがサラダの中のオリーブを口に加え、茉莉子の口元に突き出してきた。口移しで茉莉子に食べさせようとしたのだ。茉莉子は思わず顔をそらした。 「あはは、だめか。」 リチャードは茉莉子の肩を撫でた。
例のごとく、リチャードの食事は遅かった。茉莉子は先に食べ終わってしまい、手持ち無沙汰だったので、借りてきたビデオを見ることにした。ビデオデッキの周りの床は、タイルが剥がれっぱなしになっていて、上を歩くとガタガタと音がした。リチャードは、食べながら茉莉子にビデオデッキの使用方法を指示し、茉莉子は指示に従ってビデオカセットをデッキに挿入した。それにしても、ダイニングテーブルを買わないのも、剥がれたタイルを修理しないのも、ペイントの剥がれた車に乗っているのも、よほど経済的余裕がないからだろうか?学歴もあって、それなりにいい仕事もしているはずなのに…。
ホラー映画である以上雰囲気を出すため照明を薄暗くすると、リチャードはコーヒーテーブルの上のろうそく数本に火をつけた。薄暗い部屋の中で、壁に飾られたピンクのハート型ネオン管だけが浮き立った。何だか妙な雰囲気だ。茉莉子は気を許すとリチャードに襲われそうな気がして、リチャードを無視するかのようにビデオに集中した。丁度部屋の隅で転寝をしていたバウワウが起きてきて、ソファのリチャードと茉莉子の間に飛び乗ってきたので、茉莉子は片手でバウワウを撫でながら、ひたすらテレビの画面を見続けた。リチャードが茉莉子のワイングラスに残りのワインを注ごうとしたが、茉莉子は、 「車運転して帰る前に酔いを覚まさないといけないから。」 と言って断った。もちろん酔いを覚ますのも理由のひとつだったが、それ以上に理性を失いたくなかった。
ビデオが終わると、既に夜中の十二時だった。リチャードは例のごとく一人で、「うわあ、怖かったね。夢に出てきそう。今夜眠れるかな。」と一人で映画の感想を言い続けていたが、茉莉子は、 「じゃあ、猫が待ってるから、帰るね。」 と、そそくさと荷物をまとめた。するとリチャードは、 「今日は楽しかった。料理も美味しくできたし、映画も楽しんだよ。」 と、これまた例のごとく今日のデートの総まとめを始めた。茉莉子は、 「ありがとう。じゃ、おやすみなさい。」 と言い残し、急いでリチャードの家を後にした。
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