「今度十二月中旬にカリフォルニアに数日間だけ戻ることになったので、もしよかったら会いませんか?-André」
茉莉子は目を疑った。もう会うことはないと思っていた元彼からのメールだ。もう彼に対する未練も大分薄れたと思っていたが、このメールを見た途端、茉莉子の体は複雑な気持ちで震えた。 「せっかくだから、久しぶりに会ってみようか…。これでよりが戻るわけじゃないことはわかっているし、よりを戻すつもりもないけど、ただ気楽な気持ちで…。」 茉莉子は彼に返信し、十二月中旬の土曜日、彼とほぼ半年振りに再会することになった。
元彼との約束の土曜日の一週間前、リチャードに誘われて茉莉子は映画を見に行くことになった。茉莉子が前々から見たいと思っていた日本の映画が、英語字幕つきでアメリカで公開されることになったのだ。 夕方、茉莉子がリチャードの家に行くと、リチャードはまだ部屋着を着ていた。 「ちょっと待って、着替えてくるから。」 外出着に着替えて出てきたリチャードを見て、茉莉子はえもいわれぬ羞恥心に襲われた。意識的になのか無意識なのかは不明だが、ライトグレーのシャツと、黒のパンツの組み合わせが、茉莉子の今日の服装と同じだったからだ。これではまさしくペアルック状態ではないか。茉莉子はここで家まで引き返し、着替え直して来ようかとすら考えた。幸い、暑がりのリチャードはジャケットを着ていなかったのに対し、茉莉子はベージュのジャケットを羽織っていたのが唯一の相違点だった。
まず、先に映画館の近くのタイ料理レストランで夕食を摂ることにした。流石、元フィアンセがタイ人だったせいか、リチャードもタイ料理レストランだけはいいところを知っていた。茉莉子は、リチャードとペアルックになるのが嫌だったので、ジャケットを着たままで食事をした。一方リチャードは茉莉子がジャケットを着たまま食事をしていることについて特に気にしている様子も無かった。恐らく服の色のコーディネートが似てしまったのは偶然だったのだろう。リチャードが周囲を見ながら言った。 「よくさあ、こうやってレストランで食事しながら、一言も口利かない年配のカップルっているよね。僕たちもあんな風になっちゃうのかな?」 「さあ…。」 茉莉子はそれ以上は答えなかった。茉莉子はリチャードのことを恋人としてすら認めていないのに、リチャードは既に二人で過ごす老後のことまで考えてしまっている…。しかし、茉莉子には、「その頃には私と貴方は赤の他人でしょ?」の一言が言えなかった。
茉莉子が言った。 「あ、そうだ。来週の土曜日、忙しいから会えない。」 別に、リチャードだって茉莉子にとっては本命の彼氏ではないわけだから、茉莉子が誰に会おうとリチャードに対して何も疚しく思うことはないと思ったが、具体的なことは話さなかった。リチャードもこれには何か裏事情がありそうなことを察したようだが、敢えて追求はしなかった。
その日見た日本映画に主演していたのは、最近日本で人気の出始めたモデル出身の美人女優だった。映画館から出て、リチャードが茉莉子に言った。 「スイートハート、君、あの女優に似てるって言われない?」 「いや、あの人、私が日本にいた頃はまだ雑誌のモデルで、それほど有名じゃなかったから。」 「今度日本人の友達に訊いてみなよ。絶対似てると思うよ。」 「そんな、あんな美人女優に『私似てる?』なんて訊いたら、みんな私のこと気が狂ったって思うわよ。」 実際、中肉中背で平凡な顔立ちの茉莉子が、自分をモデル出身の美人女優に似ているなどと言おうものなら、他の日本人からその厚かましさや勘違い振りを揶揄されるのが目に見えている。 「そう?君は背さえ高ければモデルになれると思うんだけどな。」 リチャードはどんな女性に対しても彼なりの習慣として過剰な褒め言葉を使うのか、それとも茉莉子は褒めさえしておけば有頂天になる単純な女だと思われているのか、はたまたアジア人フェチのリチャードにはどんなアジア人女性でも美しく見えるのか、いずれにせよ茉莉子はリチャードの口から連発される過剰なお世辞にうんざりしていた。
約束の土曜日の夕方、元彼のアンドレが茉莉子のアパートに姿を見せた。 「元気だった?」 紳士的で繊細な物腰。少し神経質そうな青白い顔色。半年前と殆ど変わっていない。二人は、軽くハグを交わした。 「入って。」 茉莉子はアンドレをアパートの中に招いた。 「ノワール君、元気にしてた?」 「うん。元気よ。あと、ノワールに妹を見つけてあげたの。ほら、ミケ、この人がアンドレだよ。」 茉莉子はミケを抱いて連れてきた。 「可愛いね。」 アンドレは茉莉子の腕に抱かれたミケの頭を撫でた。
茉莉子とアンドレは、昔よく一緒に行った日本食レストランで食事をしながらお互いの近況を報告し合った。アンドレは、アメリカでの仕事を止めた後、母国で次の仕事を始める前に、しばらく休暇をとってアジアの国々を旅していたそうだ。 「日本にも行った。京都が特に気に入ったよ。東京は二日もいれば十分だったけど。」 「そうね。観光目的で行くなら、東京はあまり日本の歴史や伝統も残ってないし、京都の方が魅力的かも。」 一方茉莉子は、主に仕事とノワールやミケの話をしたが、リチャードのことは一切話さなかった。かつての恋人に対する配慮ではなく、恋愛感情のかけらもないのに惰性で無意味な関係を続けている自分が恥ずかしかったからだ。 アンドレのフランス語訛りは、出会ったばかりの頃は慣れるまで時間がかかったが、今では却って上品で心地よく感じられた。そして、その話し方、態度、話の内容、白髪が混じりながらもふさふさのブラウンの髪、毛のない手、更には箸の使い方や食べる速さに至るまで、何もかもが上品で愛おしく感じられた。それに比べてリチャードといえば、品の無い話し方や話しの内容、脂ぎった禿げ頭、毛だらけの体、箸を振り回しながらの遅すぎる食事…。今私は何のために一生愛することのできないリチャードと会い続けているのだろう?もういい加減終わりにすべきではないか?茉莉子は急に眼を覚まされたような気がした。
食事の後、二人は茉莉子のアパートに戻った。アンドレは茉莉子を両手に抱き、改めて、 「元気だった?」 と訊いた。茉莉子は、それまでずっと平静を装ってきたが、この段階で急に感極まり、涙を流してしまった。やはり、彼に対する気持ちをまだ完全に断ち切れていなかったのだ。涙を流す茉莉子を見て動揺するアンドレに、茉莉子は言った。 「ただ感極まっただけよ。貴方とよりを戻しても上手くいかないことはわかっているの。だから、心配しないで。私は一人でも大丈夫。」 アンドレは、何か自分が悪いことをしてしまったように思ったようだ。 「優しくされると余計に泣きたくなるの。本当は、貴方をきちんと忘れることができるまで、会わない方がよかったのかも。お願い、しばらく私のことは放っておいて。」 アンドレは、「じゃ、元気でね。」と言って去っていった。
アンドレが帰った後、茉莉子がメールをチェックすると、リチャードからメッセージが入っていた。
「明日はパスタを作るから、6時ごろ家においでよ。一緒にビデオも見よう。-Rich」
翌日、茉莉子は言われたとおり六時にリチャードの家に行った。リチャードはパスタ作りの準備をしていた。茉莉子は、どうしても昨夜会ったアンドレとリチャードを比較してしまい、改めてリチャードの物腰や容姿の下品さ、がさつさに嫌気がさした。 「短いパスタでいい?」 リチャードは、スパゲティを半分に折って沸騰したお湯の中に入れた。スパゲティを折って茹でるなんて邪道なんじゃないの?早くもまた不味い料理を食べさせられそうな嫌な予感…。そして、パスタソースの瓶を開け、中身を耐熱容器に移したかと思うと、その中にガルバンゾ豆を数粒入れ、それを電子レンジの中に入れた。どうやら具入りパスタを作るつもりだったようだが、その具としてガルバンゾ豆とは、一体どういうセンスだろう?
パスタが出来上がると、いつものようにリチャードは簡易テーブルをソファの前に設置し、盛り付けたパスタを持ってきた。そして、のろのろとビデオの設定をし始めた。十二月半ばの寒い部屋の空気のお陰で、リチャードがビデオの設定をし終わった頃にはパスタもすっかり」冷めてしまった。 茉莉子は、一口パスタを食べて黙り込んだ。ふにゃふにゃになるまで茹でられた短いパスタに、ガルバンゾ豆と一緒に電子レンジで加熱しただけのトマトベースのパスタソースを掛けただけのパスタ。今までこんなに不味いパスタを食べたことはなかった。恐らく今までのリチャードの料理の中でも最悪の出来だ。しかも短く油気のないパスタは、ソースともフォークともなかなか絡まない。 「美味しい?」 リチャードが訊いてきたので、茉莉子は、ダイレクトに不味いと答える代わりに、 「もう冷たい。」 と答えた。すると、リチャードは、 「電子レンジで温め直そうか?」 と提案してきた。茉莉子は、 「いや、もういいよ。」 と答えた。電子レンジで温めたところで、不味いものは不味いのだ。結局茉莉子はそれ以上パスタを食べなかった。
茉莉子の今日の様子がいつもと違うのは、リチャードが見ても一目でわかった。 「昨日、誰と会ってたの?」 「え?」 「元彼?」 「そうよ。」 茉莉子はリチャードに元彼との再会を隠すつもりはなかった。そもそもリチャードだって自分の彼氏ではないからだ。 「やっぱり、思ったとおりだ。」 「なんで?だめかしら?」 「いや…。」 リチャードも否定はしなかった。
二人はしばらく黙っていたが、リチャードが口を開いた。 「僕たち、いつかはエッチすることになると思う?」 茉莉子は、「絶対無い」と思ったが、ストレートに答えるのをためらった。 「わからない?」 「いや…。」 「先週見た日本映画で、結局あの女の人も彼とエッチしなかったね。」 映画を登場人物が肉体関係を持つかどうかで見るなんて、流石変態男リチャードだ。リチャードは続けた。 「僕たちがBreak upしたら…。」 茉莉子はリチャードの言葉を遮って、 「Break upってどういう意味?」 と訊いた。呆然とするリチャードを横に、更に茉莉子は続けた。 「Break upって、恋愛関係が終わることでしょう?それなら、それ以前に付き合っていないとBreak upできないのよね?正直言って、私はいままで一度も貴方のことをボーイフレンドとして認識したことはなかったわよ。」 「やっぱりそうか…。」 リチャードは俯いた。茉莉子は続けた。 「私の態度が曖昧だったことで、貴方を誤解に導いたことについては反省してる。でも、結局貴方のことも元彼のことも、ボーイフレンドとしては認識していなかったわけだから、別に今の私は誰と会っても自由よね?」 「うん…そうだね…。でも、少しでも僕のことボーイフレンド候補として考えてくれてありがとう。」 いや、それは違う。茉莉子はここははっきりさせておくべきだと思って言った。 「実は、貴方のことをボーイフレンド候補とさえも思ったことはなかった。貴方とは恋愛関係になることはありえないことは最初からわかっていたの。今まで曖昧な態度を示したことは、私も悪かったと思ってる。」 「それなら、僕はもう君の家に泊まらない方がいいっていうこと?」 「そういうことね。」 「だったら、僕が君の家に置いてた靴箱、今度持ってきてくれないかな。」 自分で取りに行こうとしない図々しさがリチャードらしい。それでも茉莉子は、もうこれでリチャードとのおかしな関係に終止符を打つことができる嬉しさから、 「うん、わかった。来週でいい?」 と、笑顔で答えた。 「うん。それと、君とはもう会わない方がいいのかな?」 「そうね。まあ、でもそもそも付き合って別れたのとは別だから…。」 リチャードへの余計な気遣いから、ここでまた曖昧な返事をしてしまったことが、後々まで問題を長引かせることになるとは、茉莉子も予想だにしなかった。 「クリスマス休暇はどうするの?」 リチャードが訊くと、茉莉子は、 「一人でどこか出かけるわよ。最近色々なことがありすぎたから、発散しなきゃ!」 と答えた。そして、 「それじゃ、お元気で。」 と言って、素早くリチャードの家を出た。
茉莉子は、自宅まで車を運転しながら、歓喜の叫び声を上げたい衝動に駆られた。これからは、疚しい秘密の関係ともさよならだ。口に合わない創作料理を無理して食べなくても済む。耳に生ぬるい息を吹きかけられることも無くなる。なんという開放感だ!
家に帰り、茉莉子は両手にノワールとミケを抱いた。 「もう心配要らないよ。これからは朝まで何者にも邪魔されずにゆっくり眠れるよ。」
そして迎えた朝の何と清々しかったことか。茉莉子のお腹に乗り、顔を覗き込んでくるノワールとミケ。そんな何気ない朝に、茉莉子は極上の幸せを感じた。
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