――ピッ。 心電図が規則的に高鳴る。潔癖なまでに白い空間には静寂が隅々にまで行き渡り、心電図のリズムだけがわずかに空気を振るう。この部屋がどういったものなのか、1つだけあるベッドに横たえられた男がどういった状況なのか、部屋を埋める大仰なまでの機械を見れば想像に難くない。 ――ピッ。 男は端正な顔立ちだった。細すぎず丸すぎず、厳選されたパーツをそろえた綺麗な顔。シーツから出た腕には点滴が差されている。天井を向いて力なく開かれた左手の薬指には、ピンクシルバーのリングがはめられていた。頬には赤みが差し、ふっくらした唇は女性的な印象を受ける。頬をはたけば、今にも不機嫌な声を出して起き上がりそうなものだが。 「もう半年間、ずっと起きないの」 夕彩の声は絶望的なまでに低かった。 「そう」 ベッド脇に置かれたイスに座る彼女は、とても小さく見えた。瞳にかかりそうな男の前髪を、夕彩の指先がやわらかく上げる。 「穎谷浩弐が自供してくれたおかげで、密売グループが1つ、壊滅できたわ。佐伯重工っていう小さな会社。密売で潤っていた割りに、なかなか尻尾出さなかった、しがない会社よ」 部屋の静けさは、里亜には重く感じられた。夕彩は何も応えない。 「あなたの狙い通りに」 何も、応えなかった。構わずに里亜は語をつなげる。 「銃の腕前だけなら、夕彩だってあるじゃない。私の足をつかんだ男の腕を正確に撃ち抜けるほど。私が欲しかった理由は銃の腕なんかじゃなくて、警察とのパイプだった。じゃなきゃ、穎谷を通して佐伯重工を潰せないものね」 喉を圧迫するような部屋。静かな息苦しさが里亜を饒舌にする。 「別に、穎谷じゃなくても良かったんじゃない? 佐伯重工の人間であれば誰でも良かったのよね」 里亜の語尾は、まるで初めからなかったかのように静寂に吸い込まれた。 「あなたがうらやましいわ、里亜」 揺れた声音は、それこそ消え入りそうだった。 「あなたには、愛する人を失う恐怖がないもの。みんながみんな、あなたみたいに強いわけじゃない」 夕彩は、露わになっている男の手を両手で包み込んだ。 「人の体って脆弱よ。クスリで脳を壊されてしまえば動く事なんてできなくなるの。脈だってあるのに、こんなにも温かいのに」 「神楽だって、脳を壊されれば死ぬわ」 「けど、爆発に巻き込まれても死なないでしょ? サイボーグだもの、脳さえ守れれば体は修理できる」 彼女の言葉通り、神楽の体は機械でできている。脳さえ破壊されなければ、すぐにでも、何度でも修復できる。実際に彼は今頃、デスクで報告書の片付けに勤しんでいるはずだ。 「――彼もね、警察官なのよ」 男のリングを指先で撫でるその手には、同じリングがはめられていた。一緒に行動していた時にははめられていなかったはずのリング。 「密売に加担してる私が、まさか警官の恋人持ちだなんて、笑っちゃうよね」 「変わった恋人ね」 「彼には教えてなかったの。最後まで、私の事をOLだって信じてた。――このリングね、彼にもらったんだけど、サイズが全然合ってないのよ」 夕彩の細い指にはまるリングは指先を下に向けるとスルリと抜け、男の手の平で小さく跳ねた。指先で拾い上げたそれを、再びはめる。 「普段は首から下げてるの。なくしたら困るから」 「代えてもらえばいいのに」 「だって、彼が選んでくれたリングよ? 代えたら意味ないわ」 「サイズ、合わないんでしょ?」 「里亜はまだ18だものね」 何故か、夕彩の言葉は癪に障らなかった。 「彼は……その…」 「どうしてここにいるか?」 言おうとしたセリフを先に取られ、バツが悪くなり里亜はこめかみを掻いた。夕彩が小さく笑う。 「らしくないわね。スパッと聞けばいいじゃない」 同感だ。どうして言いよどんだのか、自分でも不思議に思う。 「警官だった彼は、偶然にも佐伯重工の実態を知っちゃったのよ。武器密輸にクスリ売買。正義感が人一倍強い人だったのが仇になったの。独自に捜査を始めた彼は、見事にはめられて、クスリ漬けにされた」 小馬鹿にした語感の中に、しかし愛しさが息づく。 「私が会った時には、もう植物人間だったの。両親は早くに他界してたから身寄りもなくって、こうして見舞いに来るのは私だけ。最初のうちは同僚も来てたみたいだけど、今じゃさっぱりみたいね。上司なんて見た事ないわ。座り心地の良いイスにかじり付くので忙しいのよ」 「そんな人間ばかりじゃないわ」 「どうかしら」 夕彩は肩をすくめたが、部下を家族のように慕う上司を里亜は知っている。自分の課でもないのに見舞いに行き、ひっそりと涙する中年男を。彼はあの時、ここにいる男に会っていたのかもしれない。 「穎谷浩弐って男を夢中にさせるのは簡単だった」 ため息で吐かれた言たちは、彼女の苦痛を内包しているようだった。 「ナミって名乗って近付いて、佐伯の所からクスリを持ち出すようにそそのかして。私の顔なんて知らないチンピラだもの、何の疑いもなくすぐに行動してくれたわ」 すべてを達観しているような、諦観しているような、夕彩の口調は静かだった。 「頭ではわかってた事だけど。好きでもないヤツとヤっても、ちっとも良くないのね」 笑い飛ばすにしては夕彩の声は湿っていた。緩慢な動きでその首が振り返る。 「――ごめんね」 一体何を謝られたのか、すぐにはピンと来なかった。 「無関係な爆破事件と関連付けて、里亜を巻き込んで」 そうなのだ。神楽が巻き込まれた安アパート爆破の一件は、穎谷浩弐とは無関係だった。しかし―― 「あの爆破事件も、佐伯絡みだったわ。あのアパートで密売してたのよ。夕彩が動かなくても、佐伯重工は壊滅して……」 「知ってる」 無理やり夕彩は割り込んだ。 「その話、クリスから聞いてたの。爆破した犯人が神楽くんに捕まえられた事も知ってる。里亜と神楽くんが捜査するんだもの、すぐにでも佐伯重工につながるだろう事は予想できたわ」 「だったら何故」 「私の手で壊滅させたかったの」 真摯なまでにまっすぐ見上げる瞳。 「私にとって、あの爆破事件は誤算だった。せっかく穎谷浩弐を動かせたというのに、まさかあんな形で里亜を巻き込んで来るなんて。里亜に声をかけた時、相当焦ってたのよ。あのまま里亜が捜査しちゃったら、行為がすべて無意味になっちゃう。だから、無理やりにでも私と行動してほしかったの」 「焦ってるようには見えなかったけど」 声をかけられた時を思い出す。わずらわしいと思いこそすれ、よもや焦燥に駆られていたとは思いだにしなかった。 「焦ってたの。結果的にすべてうまく行ったから良かったようなものだけど、どこかで計画がずれたらどうしようって常に不安だったんだから」 肩をすくめ、夕彩はおどけて笑った。 ――――何かが。 里亜の記憶のどこかで、何かが疼く。 「もしもずれてたらどうしたの?」 疼きを悟られぬよう、つとめて平然と問う。きょとんとした夕彩は少しの間だけ虚空を見やってから、再度里亜に視線を戻して笑顔を浮かべた。 「それはそれで、その時に考えてたよ」 臨機応変と揶揄すべきか無鉄砲と賞賛すべきか。どちらにせよ夕彩の笑顔には一点の曇りも翳りも見られない。彼女の中で、すべては完結したのである。もう、ここに里亜がいる必要もない。 「そろそろ帰るわ」 自分でも不思議な事に――里亜は夕彩の頭に手を乗せていた。単に置きやすかったせいかもしれない。破顔の中に辛苦を見出したせいかもしれない。あるいは、ベッドの男を思って、かも知れない。サイズの合わないリングのせいかもしれないし、意地でも涙は見せない気丈さのせいかもしれない。 同じ女であるから、でもあるだろう。 同じ女として、でもある。 何にせよ、里亜はきびすを返した。 「――里亜」 すぐに呼び止められ、首を夕彩に回す。目を綴じたままの男を見つめる横顔は、思わず見とれてしまうくらい綺麗で、呼吸を忘れそうになった。 「神楽くんにとって、里亜は生身の人間よ。爆発に巻き込まれたりしたら命を落とすの。彼が怖がっているって事は、憶えておいてあげて」 「……わかったわ」 その言葉はじんわりと、里亜の心に染み渡る。男の手を握り、その頬を撫でる夕彩の微笑は幸せそうで、後ろめたさを感じた里亜は早々に、両開きの自動ドアから退室した。
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