「――もう使われていないビルをホテルとして再利用とはまた、この街らしい発想ね」 「夕彩は仕事柄、そういう情報には事欠かないと思ってたけど」 「そういう噂は耳にした事あるけどね。そんなとこに踏み込んだ事なんてないの。これ本当」 「意外」 「里亜はあるの?」 「あるわけないでしょ」 里亜は吐き捨てた。 「ふぅん」 気なんてまるで感じない生返事で鼻を鳴らした夕彩は、ビニールを破ったばかりの野菜サンドイッチにかじりついた。かすかだが、車内にレタスの匂いが漂う。とうに日は暮れた。100円パーキングの看板が、白いだけの光でもって地面の砂利を灰色に浮かび上がらせる。出入り口以外の3方向をビルに囲まれた敷地には、彼女らの車しか見当たらない。5台分のスペースには、寂寥感しかなかった。 「ぱっと見、ただの雑居ビルね」 駐車場と、アスファルトを挟んで向かい合う鉄筋コンクリート五階建て。クリスから目印として聞いた、1階のテナントに入るコンビニエンスストアで、小腹が空いたと夕彩が買い物したのが5分前。ビルの二階から上――何の変哲もない住居テナントがホテルらしいのだが。 「何も、動きなんてないよね」 パンに挟まれたトマトだけを器用にくわえ、夕彩は咀嚼。彼女の言う通り、何も動きがない。道路側――里亜たちから見える窓の列は思い思いに室内の明かりを映し、生活感しか窺えない。 「もしかして」 胸中で動き回る不安を、里亜は口にした。 「クリスの情報ってガセだったんじゃない?」 「いや、そりゃないね」 と言ったのだろう。実際に里亜の耳に入ったのは、サンドイッチを目一杯頬張ったままで発された、こもった音吐でしかなかった。 「彼は信頼できる?」 何度も頷きながら咀嚼する夕彩は、口の中の物を飲み込み終えると、自信満々に断言した。 「クリスは私にウソつかないもの」 「情報屋をそこまで信じられるものかしら」 「情報屋がウソ言ってたら商売にならないじゃない」 「夕彩を陥れようとしてるかも」 「ないない。クリスはそんなヤツじゃないのよ」 彼への信頼はよほどのものらしい、頑なに言い張る。胃袋へと消えたサンドイッチのビニール袋を握り潰した。 「飲む?」 コンビニの袋から取り出したのは野菜ジュース。織部夕彩がここまでの野菜好きだったとは初めて知った。 「いらないわ」 そういえば、彼女と初めて出会った時も、こうしてパックの野菜ジュースを飲んでいた事を思い出す。 「そ」 短くそれだけを呟いた彼女は、差したストローを加えた。エンジンを切った車内は静かなものだった。そのせいで、夕彩の唐突な質問は、必要以上に明瞭な響きを携える。 「好きでもない人と寝た事ある?」 あまりにも突然で、素っ頓狂な声を上げるのも忘れ、不覚にも窓に肩をぶつけた。 「いきなり何よ?」 「娼婦っていうのが金を生むのは知ってる。娼婦を囲って宿を経営すれば儲けられるのも知ってる。男とは違って、女の体は金銭的な価値と置き換えられる」 里亜の質問が聞こえないのか、ストローを噛む夕彩は虚ろな瞳でビルを見つめた。何かに憑依されたように、彼女の声は低く、無表情。 「けどそれって、男がそう望むからでしょ? 需要があるから供給がある。淫乱って単語は女性蔑視よ。そう呼ぶ男のせいでできたシステムなのに、そんなの忘れて女の上で汗かいて」 「夕彩」 里亜の発した声音は、短くも鋭かった。傾げるように振り返る夕彩の首の上――その双眸は、今にも泣き出しそうに揺れていた。彼女の心など見えやしない。豹変の理由もつかめない。里亜の唇は、夕彩に潜む何かを押さえ込むためにのみ動いた。 「要領の得ない話が嫌いだって、あなた知ってるでしょ?」 「…………そうね」 夕彩の唇の端がつり上がる。笑うというよりも、歪めただけの嘲笑にしか見えない。 「忘れてちょうだい」 「ええ、そうするわ」 事実、それは自嘲だったのかもしれない。 「――さてと」 バコッ――パックがへこむまで吸い込んだ夕彩は、すっかりスリムになったそれをビニール袋に入れるなり、後部シートに放り投げた。 「行こっか」 呆れる里亜に文句を言ういとまも与えず、にこやかにハンドルを叩く。 「的外れだったらどうするのよ?」 「行きゃわかる」 「強引ね」 「積極的な女だから」
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