キッ――入り組んだアスファルトを軽快に駆けていた車はやがて路地裏に滑り込むと、つまずくように停車した。 「もっと丁寧に停まれないの?」 停車時にシートベルトが食い込んだ胸をさすりつつ、里亜は不平を漏らした。 「車なんて走れりゃいいでしょ。ブレーキだって止まるためなんだから、丁寧じゃなくても十分」 詫びる気もなければ改める気もないらしい。シートベルトを外して、夕彩はドアを開けた。呆れながら、続いて里亜も外に出た。大通りからビルの縫い目に伸びる路地裏は、背の高いビルに挟まれているせいで陽が当たらず、ひんやりとしていた。車1台分の幅を保つ道の先には、塗装が剥がれヒビも目立つビルの壁がそびえ立つ。右手のビルの換気扇から噴き出す、熱気を含んだ油の匂いに顔をしかめた。 「中華料理屋がこのビルにあるの。評判いい店なんだけど、ひどい匂いだよね」 突き当たりのビルに向かっている夕彩が振り向いた。 「嗅ぐだけで胃がもたれそう」 大股で熱気から逃げる。夕彩に追い着いた里亜は、彼女が指差した先に1枚のドアを見付けた。『Bar』とだけ印字された木製のそれは、卑屈なほどに陰気な佇まい。 「ここがそうなの?」 情報屋との待ち合わせには打って付けな空気が、ドアからだけでも窺える。 「そうよ」 これからショッピングにでも行くような口振りで、夕彩はドアを引き開いた。 ――ガコガコッ。 あまりに鈍く鳴った音を辿って見上げた里亜は、思わず唖然とした。ドアの上にぶら下がるカウベル――何がどうなって、こんなにも不躾な音が出るのだろう。 「いらっしゃい」 壁をくり貫いて作った棚にランタンがぼんやり灯る。必要最小限に抑えられた照明の奥で、場にそぐわぬ涼しいテノールが迎えてくれた。 「客のいないバーって、意外と居心地良いのね」 「あと2時間もすれば、夕彩も驚くほど客でいっぱいになるよ。ま、普段がどれほどの盛況なのかなんて、知ってるよね。来た事あるんだし」 すべてのイスがテーブルの上に乗せられているせいで、とても広く感じられるフロアの中央――バーテンダーの制服を少しだけ着崩した青年は、モップ片手に微笑んだ。えくぼのある、子供っぽい顔立ち。身長は里亜と同じほど。20代前半と思しき青年の痩躯は、店内の空気に十分合っていた。 ふと、彼の目が里亜に滑る。 「今日の連れは女の人なんだ?」 鼻梁が高く、彫りの深い顔には青みがかった双眸。 「仕事仲間なの。田樹川里亜さん」 強引に巻き込もうとしてるだけじゃない――胸中の言葉を吐き出すのは控えておいた。 「いたら板良(いたら)クリスです」 自己紹介と一緒に差し出された右手を、里亜は快く握った。指が長く、大きい彼の手は冷たかった。 「夕彩が女の人を連れて来るのって珍しいね。営業中は彼と来てるけど――彼は元気?」 店の奥に設置されたカウンター席に2人を促したクリスは、カウンターに入るとグラスを2つ出した。 「彼なんていたの?」 丸イスに座るや、里亜は意外を口にした。 「いちゃ悪いの?」 何故かふてくされる夕彩。 「こんなものしか出せないけど」 彼女をなだめるでもなく、クリスはオレンジの液体を満たしたグラスを2つ、テーブルに出した。あらかじめ差されたストローに口を付ける。喉元を通った微炭酸のオレンジソーダは、思った以上に味が濃く、 「あ、おいしい」 くどくない、すっきりとした後味。感想が素直に口から出た。 「彼はいつも通り。いつかみたいに2人で飲みに来たいけど」 肩をすくめた夕彩はオレンジソーダを口に含んで、 「その時は、何かサービスしてね」 「喜んで」 冗談めいた夕彩の無邪気な笑顔と、えくぼを浮かべて快諾するクリスの微笑。 ――ふいに。違和感のような、正体の見えない何かを感じ取った――ような気がした。どこか腑に落ちない、胸元のざわめき。悪夢の予兆とは違う、夢の予感――頭に浮上したイメージに、里亜は頭をひねった。どうして夢の予感という単語に辿り着くのか、我ながらさっぱりわからない。たかが、バーテンダーと客の談話ではないか。 「――悪いんだけど、今日はあまり時間がないんだ」 控えめなクリスの言葉が、里亜の思考を止めた。 「開店まで、まだ時間あるのに?」 腕時計に目を落とした夕彩の眉が上がる。 「今日は貸切の予約が入ってるんだ。となりのビルにある中華料理店が、料理持って来ての大騒ぎ」 ついさっき浴びた油の匂いを思い出し、里亜の顔が歪む。 「そんなの、自分たちの店でやればいいのに」 胃液が煮立ちそうになるのを抑えながら、夕彩の不平に首肯する。 「ウチのバーテンが今度結婚する事になったんだけどね、その相手が、中華料理店のコなんだ。今日の宴会は、そのお祝い」 「へー」 夕彩の瞳が大きく輝く。 「2つの店で結婚祝いだなんて、なーんて豪華な」 「結婚ねぇ」 過剰に輝く彼女の瞳に呆れ、里亜は頬杖をついた。大した反応を示さなかった事が不満だったらしく、夕彩は顔を突き出して。 「里亜って結婚願望ないの?」 「少なくとも、夕彩ほどはないわ」 「里亜っていくつだっけ?」 「18よ」 「あー、それじゃまだ無理か」 「何がよ?」 ため息交じりにテーブルに伏した夕彩を睨み付ける。どこか見下した語感が癪に障った。 「だって、まだ結婚に実感なんてない年頃じゃない。私くらいになっちゃうと何かとまとわり付いて来るもんなのよ」 切実さすら感じさせる夕彩の横顔。 「夕彩っていくつだっけ?」 「内緒」 唇を尖らせた彼女から視線を転じた先で、クリスが苦笑した。 「夕彩は結婚したい?」 里亜が聞くや、彼女は勢い良く身を起こした。首ごと振り向いたその瞳は真剣そのもの。 「すっげー、したい」 切実を越えもはや切迫の表情である。何故そこまで思えるのか理解できず、里亜は唇をへの字に曲げた。 「だったら結婚しちゃえばいいじゃない。彼氏いるんでしょ?」 当然の事を言ったまでだった。彼氏がいるのなら、とっとと籍を入れてしまえばいい。それだけの話だ。 「あっと……」 しかしながら、夕彩の反応はまったくはっきりしないものだった。ついさっきまでの勢いはどこへやら、視線があらぬ方向へ飛ぶ。 「うん…それは、まあ。そうなんだけど、ね」 目に見えて意気消沈した夕彩は、しおらしくストローをくわえた。彼女の不自然な変化は、怪訝を覚えるには十分すぎる。頭の中で何かが引っかかる。未消化物が、胃袋にいつまでも残っているような気持ち悪さ。感覚でしかないそれは、明瞭な輪郭としてはつかめないものだった。
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