「――被害者は2人だけ?」 昨晩降っていた雨は降るだけ降ると、朝日が昇るや空を太陽に明け渡した。昨日の暗雲は風に吹かれたか、その残骸とも思える雲が少し残っているだけで、空は青かった。蒼を仰いでいた彼女は、顎を引いて視線を目の前に引き寄せる。彼女の眼前――瓦礫と化したアパートは、見事なまでに周囲に被害を及ぼさなかった。瓦解したのはアパート1棟のみ。隣接する建物はすべて無傷に近く、被害者は2人だけ。 しかし田樹川里亜(りあ)にとって、そこが最も問題であった。 18歳という年齢にして、綺麗に成熟し、すっかり整った相貌。172センチの長身を組み、すらりと伸びる四肢は細身と呼ぶよりも華奢と形容するに相応しい。レザーパンツとジャケットを着て腕を組み、瓦礫の山とそこに群がる鑑識員を見つめる彼女は苛立ちを隠そうともしなかった。 「アパートの住人は?」 八つ当たり気味に、里亜はとなりに立つ男を睨んだ。 「そういきり立つな。どうやらこのアパート、正式な住人という者が存在しないんだ。おかげで不法滞在者の巣窟になっていたわけだが――爆破が起こった時、偶然にも誰もいなかった」 双前章二(ふたまえ しょうじ)。50歳を目前に控えた彼は、スーツの裾にできた小さなシワをしきりに気にしている。中年太りで重そうな体躯、歳相応にシワの刻まれた顔は人当たりが良く、ケイオス・シティ本庁特務捜査部U課課長という肩書きを持っているとは、すぐにはわからない。 ちなみに、豊富な白髪は植毛処理の効果である。 「そのシワ、どうしたの?」 上司に対する口調とは思えない里亜の問い。 「久しぶりにラッシュ通勤したら、ものの見事にシワができた」 「車は?」 「昨日、出かけると言った妻が使ってな、廃車になって帰って来た」 「奥さんは?」 「ぴんぴんしとったよ。知り合ってずいぶん経つが、あれが怪我してるとこなど見た事がない」 結局シワを伸ばす事をあきらめた。 初めからどうでも良かった里亜は周囲に視線を配りながら、 「麻薬密売なんて、麻薬取締課に任せとけば良かったのよ」 刺々しく言を発した。 ビル街のど真ん中に位置する現場は区画整備が施され、野次馬がたかるという事態は避けられた。もっとも、周りのビルの窓から好奇に目を輝かせた顔を覗かせる姿は見受けられたが、雑居ビルが密集する地区であるが故、致し方ない。 「武器密輸まで絡んでいるかもしれないんだ、麻取だって簡単に手を出すわけにも行かんのさ」 「融通の利かない連中よね」 「そのための特捜部だ」 「T課があるじゃない」 「クセのある事件にゃ手を出したくないんだよ」 「その見返りが、捜査員2人?」 嘲笑した里亜は横目で双前を責めた。「部下の命っていつからそんなに軽くなったのかしら?」 「神楽をやられて頭にくる気持ちはわかるがな」 しかし彼は怯む事無くその視線を睨み返し、「部下をやられた俺だって頭に来てんだ。煮えくり返った腹ん中を見せてやりたいくらいにな」 突き出た自分の腹を指して見せた。 「その肉厚だと、何日もかかりそうよ」 冷ややかにあしらう里亜。 「それまで待ってくれる気は?」 「まったく、ないわ」 6年も見ている相手だ。彼女の即答はわかり切っていた。観念に近い、むしろ習慣となったため息とそろえて、双前は忠告した。 「十分に気を付けろよ? 神楽に続いてお前まで巻き込まれたら……」 「いらない心配はするだけ無駄よ」 きびすを返した里亜の耳に彼の声が届く。 「だといいがな」 聞き流して、狭苦しいビル間の区画にあふれた捜査員たちをすり抜けた里亜が『keep out』のテープを跨いだ時、 「――弟くん、巻き込まれちゃったのねー」 どこにいたのか、ひょっこりと目の前に現れた人物。 「夕彩(さや)」 織部(はとりべ)夕彩。ひょんな事から知り合った、『執行人』である。麻薬にしろ武器にしろ、密売する時には密売する領地というものがある。それを侵害した物を掃除するのが彼女の仕事。 「どうして夕彩がいるのよ?」 身長170センチの里亜と150センチの夕彩――自然と、屈託のない笑顔を見下ろす形になる 「私の仕事、知ってるじゃなーい」 正直、里亜は夕彩のこのテンションが嫌いだ。身長は低いが、レザーパンツとカットソー、ジャケットをまとった体はスリムで、決して丸っこい体格ではない。首元まで伸ばした髪は赤毛に近い。彫りの深い顔立ちから、どこかの国とのハーフのように見えるが――年齢は不詳。 「縄張り争い?」 「すぐそこに車止めてるから、そこで話しましょ?」 破顔した彼女の後ろに付いて行くと、大通りに出たところで堂々と路上駐車する、四角い箱を連想してしまう軽自動車があった。 「路駐するなんて、警戒心ないのね」 鼻歌交じりで運転席のドアを引く夕彩に里亜は呆れた。 「狙われる要素がないもの」 「大した自信ね」 助手席に乗り込んで皮肉。 「だって、仕事上で私の顔を知ってる人なんてそうそういないし。ナンバープレートも、日替わりだしねー」 「依頼人と顔合わせないの?」 意外な答えだった。 「もちろん。ビジネスに『織部夕彩』なんて媒体は必要ないでしょ。依頼人が要求するのは結果」 「いい心掛けだわ」 「当然の考えよ」 シートに背中を預けた夕彩はあっさり答えると、次いで話を切り出した。「――弟君が巻き込まれた爆破事件の事だけど」 「夕彩はどう関係して来るの?」 「今回は縄張り争いじゃないのよ。密売グループの1人が単独でクスリさばき始めちゃって。私の仕事は、そいつの鎮圧」 「じゃあ、ビルの爆破事件って」 「そいつの仕業」 「そいつ、今どこにいるの?」 里亜の目元が険しくなる。 「わっかんない」 バックミラーを調整しながら、あっさり言ってくれる。里亜の左眉が跳ねた。 「居場所を突き止めたと思ったら爆発してるんだもん。びっくりしたよ」 あははと笑う彼女に対する衝動を、里亜は止められなかった。右手が夕彩の胸倉に伸びる――ギッ――シートが軋む。夕彩の右手が動く。 「ふざけてんじゃないわよ」 夕彩の胸倉を引き寄せた里亜の左頬には、 「暴力はいけないと思うの」 セリフとは裏腹に、夕彩のマグナムが銃口で口付けていた。「弟くんが巻き込まれて苛立つのはわかるけど、頭に血が上ったままで何ができるの?」 「あんたに何がわかるっての」 「何もわからないわ」 里亜の眼力を、文字通りに目と鼻の先で受け止めてもなお、夕彩は微動だにしない。「何もわからないヤツにあれこれ言われたくないのよ」 「何もわからないからこそ言うんじゃない。少し頭を冷やしなさいよ」 里亜は答えなかった。頬に当たるマグナムは冷たい。しばらく睨みあっている内に―― 「――バカバカしい」 鼻で嘲笑した里亜が先に、振り払うように手を離した。 「同感」 言い、夕彩もマグナムを下ろすと、一見ヒップバックにしか見えないホルスターにしまった。「もっと早く気付くべきよ」 嫌味ったらしく襟元を正しながら唾棄する。 「夕彩は、これからどうするつもりなの?」 バックミラーで後ろの様子を窺いながら、聞くだけ無駄な質問を投げる。織部夕彩は秘密主義の塊である。年齢もわからなければ、普段のライフスタイルもわからない。そもそも、織部夕彩というのが本名である事すらも疑わしい。聞いたところで何も教えてはくれないだろうと踏んでいた。 「あなた次第よ」 「はい?」 「犯人捜し、一緒にしましょ♪」 予想外な返答に里亜の眉間が不機嫌に寄る。ガチャッ――ドアロックとエンジンをかけた夕彩は有無を言わせぬ勢いで車を発進させた。 「っっジョーダンじゃない! あんたと手を組むなんて!」 「抗議したって無駄よー。もう決めちゃった事だもの♪」 「あんたが勝手に決めてんじゃないわよ!」 「シートベルトくらい締めなさ〜い」 里亜の抗議なんてまったく意に介さず、青信号をくぐる夕彩。 「あんたねぇ!」 余裕綽々の体に里亜の堪忍袋の尾は早くも限界にまで張り詰め―― 「――それに」 目の前に夕彩の人差し指が突き付けられた。彼女は笑顔のまま、 「密売ルートに詳しい人間がいた方が何かと便利じゃない?」 横目での発言に、さすがの里亜も語を詰まらせた。 「っ……」 「密売ルートに関して私は詳しい。鎮圧の際には、銃の腕の立つ里亜がいれば頼もしい。すでに利害は一致してると思うけど?」 悔しいが正論だった。反論できぬまま大人しくなった里亜を一瞥し、続いて言い放つ。 「そんくらい頭動かせなさーい。バカじゃないんだから」 殴りたかった。
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