ドアが閉じた。 彼女は身を乗り出す。 瞳を閉じて彼の唇を感じる。 これは、彼の抜け殻。 空虚なからだ。 彼女のまぶたから涙が伝う。 ふるえる唇で、メッセージを贈る。 ありがとう。 さようなら――――
――エレベーターが下降する時の、内臓が持ち上げられる感覚。物静かな箱には里亜しかいない。ドアの上部に掲げられた、階数を示すデジタル数字の減る様をぼんやり眺める。彼女は、1人の女の事を考えていた。 織部夕彩。年齢は不詳。性格は無邪気で無鉄砲。密売における、ルールを破った者を処分する、執行人。彼女自身の決めたルールは…… ルールは。 ――ポンッ♪ 軽やかな電子音が、1階への到着を告げる。義務的に開いたドアの向こうは、入院患者たちの憩いの場である。ロビーフロアとして、売店と自販機、L字に並べられたソファが設えられている。ソファで独り、タバコをくゆらせている寝巻き姿の男と目が合った。60過ぎと思われる彼は、エレベーターから出ようともせずに立ちすくんだ里亜に片眉を上げる。 構わずに、里亜の指先は『6』と記されたボタンに伸びた。間もなく閉じるドアの隙間で、男が首を傾げたが――彼の事など眼中から追いやってしまうほど、里亜の胸中は騒々しくなっていた。エレベーターが上昇する中、彼女の胸に芽生えた不安は信じられない速度で膨張する。喉元にせり上がった粘着質のそれは、容易に飲み下せるようなものではなく、押し込もうとすればするほど、より一層、喉の裏側に張り付く。自己のペースを保って上昇する箱と、デジタル数字がもどかしい。 ――ポンッ♪ 他の階で止まる事なく、スムーズに到着できたのがせめてもの救いだった。ドアが開き切る前に里亜は飛び出し、リノリウムの床を蹴っ――――
『私、1つの仕事に1人しか殺さない事にしてるの』
鼓膜の奥で夕彩の声が響く。空耳だとわかっていながら、彼女の気配を探した。 エレベーターホールから右に伸びる廊下の突き当たり――集中治療室の前で、医師と看護士たちが群がり騒いでいた。 「――誰かがスイッチを切ったんだ!」 医師らしき神経質な声が飛ぶ。駆け出すタイミングと目的を失った里亜は、その場に立ちすくんだ。 夕彩は、今回の事件で誰かを殺しただろうか? 爆破事件は彼女が起こしたものではない。標的であった穎谷浩弐も、佐伯も殺していない。『1人しか殺さない』という言葉を、『1人は殺す』という意味に変換できなかった。夕彩を信じ切っていたせいか、信じ切れていなかったせいか。 ――最悪だ。 慌てふためく医師たちの向こうに、つい先程と変わらずに眠る男が垣間見えた。 ――最悪だ。 彼の名前を聞いておくべきだった。胸が締め付けられる。 ――最悪だ。 部屋から必死に駆け出した女看護士が、里亜の脇をすり抜ける。彼女の顔は泣き出すのを堪え歪んでいた。 ――こんなの、認めない。 胸に巣食った不安は弾けた。 ――ガンッ! やりどころのない怒りを拳に、里亜は壁を殴り付けた。皮膚の破ける痛み。失神しそうな怒り。叫びたい衝動。 「こんな終わり方、私は認めないわ」 かすれた声で呟いた。 抑揚を失った心電図の音が、妙に色濃く耳に残った。
The End
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