空気が澱んでいる――田樹川神楽(たきがわ かぐら)の、それが第一印象だった。 古ぼけた安アパート。細い廊下を挟む壁、天井もろとも塗料はところどころ剥げ落ち、寿命が近いらしい蛍光灯がチカチカと明滅を繰り返す。屋根があるだけマシな方だ。地を叩く雨音は荒れ、止む気配など微塵もない。 廊下の左右の壁に並ぶドアはどこも表札などない。どうせどこぞの違法入国者だろう。ビザが切れた者や密入国した者、理由は様々でも風当たりは一様に強い。にもかかわらず、違法入国者・滞在者は一向に減ろうとはしない。むしろここ数年で過去最高の増加を示している。 彼らにとっての魅力とは何だろう? ――それにしても、空気が澱んでいる。 右手に握ったサブマシンガンが、明滅する蛍光灯に大人しく照らされる。物を壊すためだけに生み出されたそれは、安アパートの空気に妙に溶け込んでいた。 神楽のブーツが地を叩く足音は、湿った空気に鈍く鳴る。 ――RRRRR……! 目的のドアを見付けたのと、電話の着信音が聞こえたのは同時だった。ドアの脇で足を止める。着信音は目的のドアの中から聞こえる。怪訝に神楽は眉をひそめた。 ――RRRRR……! 不気味なまでに静まり返った夜の空気に鳴り響く電話。慎重に、神楽はドアノブに手を伸ばした。 ――ギッッ…… やる気も根気もなく、呆気なくドアが開く。廊下の蛍光灯が、ドアの隙間から中に光を差し込む――ドアの向こうは闇。 ――やっぱり妙だ。 電話はまだ鳴っている。誰かが取る気配はない。 開いたドアから中を窺い、神楽はその痩躯を滑り込ませた。踏み込んだ足下でフローリングが軋む。肌にまとわりつく、嫌な空気だ。 銃を構えたまま、神楽は短い廊下を進んだ。薄闇の飽和するワンルームは質素なものだ。壁に沿って家具らしい影があるが、テーブルもなければベッドも見当たらない。神楽と向かい合う、ベランダにつながる窓には厚手のカーテンが締められており、隙間からは、隣接したラブホテルの無駄に派手な電飾が映る。黒暗々たる空間――味気ないフローリングの床に窮屈そうに、原色の光の筋が伸びていた。 電話は部屋のちょうど真ん中に置かれていた。着信音とリンクして、ダイヤルキーが明滅している。そのとなりに何か、闇に盛り上がる影を見付けて目を凝らす。 ――RRR…! ガチャッ…… 電話が静まった。 『――ただ今、留守にしております。御用の方は、ピーという発信音の後にメッセージを……』 闇に目が慣れる。眉間に浮かんだしわが深くなる。神楽の見知った顔――横たわったそれはスーツを身に付けていた。 『ピ――――』 神楽より10センチほど背の高い、180センチの大柄な男。整髪という言葉と無縁なぼさついた髪。 『――ようこそ、誰かさん』 眉間に穿った銃痕を確認した神楽の耳に、ボイスチェンジャーの不快な声が飛び込んだ。 『人を尾行するのはいいけども、少しは向き不向きを考えた方がいい。そこに転がっている男は役に立たないクズだったよ』 グリップを握る手が力む。 『しかし、ここまでだね』 ――ピッ。 ボイスチェンジャーのため息に呼応し、周りの闇の中に赤い光の点が一斉に灯った――部屋が爆弾だらけだった事に初めて気付く。 「罠か……!」 舌打つ。 『GAME OVERだ――』 ボイスチェンジャーの声が弾けたように笑い出す。 逃げるいとまもあらばこそ。 刹那――――神楽の網膜を閃光が灼く。
――ドッ! 安アパートの一室から爆炎が上がった――――――――
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