時に。 麻生浩介は決して潔い性格ではない。虎視眈々と獲物を狙い、いつでも襲いかかれるよう常に爪を磨いでいるような性格の持ち主。 だが同時に。 向こう見ずで鉄砲玉な、衝動に駆られるままに飛び込んでしまう、実に危険な一面もあった。 己自身を省みても、扱いにくい人間だと思う。もしも目の前にこんな人間が現れたならば、露骨に距離を取ってバリケードを張った挙句に深い深い溝を掘ることだろう。 にも関わらず。 幸輔や尋絵を始めとして、友人はいる。頼り信じてくれる人間がいる。 「幸せな事だねえ」 呟いた麻生は、3階から続く階段に足をかけた。幸輔に梨香を任せた後、3階の廊下を歩き回ったのだが、目指すものはなかった。テンポよく階段を上がり、5階と壁に表記された4階へ。 目指していたものはすぐに見つかった。 右、左、真正面の3方向に伸びる廊下――真正面の廊下の先に、素人目にもそれとわかる異様な空気。スーツに柄シャツをまとった男たちが剣呑な空気を生んでいた。その数、6。 ドアの閉じた病室の前で、皆一様に沈黙したまま、備え付けのベンチにどっかと腰を下ろしている。 男たちの中でも最も屈強な男と目が合った。 「…………」 「……………………」 ――やっぱやめた。 目を逸らした麻生は右の廊下に爪先を向け、男子化粧室のドアを押し開いた。4つの便器と3つの個室、タイル張りの壁に囲まれたトイレは念入りに清掃されているらしく、汚れなどまったく見当たらない、見事なまでの清潔感だった。 「さて、どうしたもんか」 一番奥の便器で用を足していると、ドアが開いた。患者でもなければ先の屈強な男でもない。白のスーツを細身にまとった若い男――歳は麻生と近そうだった。端の便器で用を足そうとチャックを開く彼の服から、甘い匂いがする。ちろちろと便器を打つ音が1つ増えた。 「葉巻、吸うんですか?」 放水し続ける自分のモノを見下ろしつつ、麻生。 「キミも吸うの?」 鼻にかかった声は眠そうだった。 「親父が吸ってたもんで。俺が吸わないんですけど」 「高尚な趣味を持ってるんだね、キミのお父さんは」 「そうですかね」 「そうだよ」 男は断言した。 「見たところ、入院してるわけじゃなさそうですね」 「自分のモノ見ながら、よくわかるね」 「横の視界が広いんです」 「へー。そりゃすごい」 「お見舞いですか?」 「祖父が入院してるんだ」 チャックを上げて、男は言い添えた。 「……まだ終わんないの?」 ちろちろちろ…… 「膀胱が破裂するんじゃないかってくらい我慢してたんで」 にこやかに、彼に振り向く。 アッシュに染めた髪を無造作に散らした男の顔と対面――イラストで描かれる猫のような細目に、すっと通った鼻筋。小さな唇も、その頬も、健康的に血色が良い。背丈は麻生より高めだが、気になるほどでもなかった。白スーツをきっちり着こなす佇まいは紳士的で、まさしく紳士。 そんな彼の笑顔は柔和だった。 「我慢は良くないよ。したい時にしないと、本当に破裂しちゃうよ」 「次からそうします」 ドアが開いた。 男が振り向いて、麻生が見やった先に、ドア枠いっぱいの体格が――先の屈強な男がいた。彼は麻生の事など見えていないかのごとく、 「会長が目を覚ましました」 「わかった、すぐ行く」 白スーツに言い置くとすぐに退室した。 「彼、細木(ほそき)っていうんだ。苗字からは考えられない体格だよね」 元来親しみやすい性格のようで、気さくに笑う白スーツだった。 「じゃあ、苗字がコンプレックスだったりするんですかね」 「そうでもないみたいだよ。キミも誰かの見舞い?」 流れるように華麗な話題転換に麻生は首肯した。 「友人の」 「まだ終わんないの?」 「今終わりました」 チャックを上げ、男の脇をすり抜けて洗面台で手を洗う。 「友人の見舞いかー。病気?」 「いや、刺されただけなんで」 「刺されたの?」 「ぶすっと」 鏡越しに見た男の顔は心底驚いている風だが、細目は細目のままだった。見開くかと思っていたのだけど。 「ケンカ?」 「いやいや、一方的に」 「世の中、危険でいっぱいだね」 「お互い、刺されないように気を付けましょう」 「あはは〜」 「ははは〜」 朗らかに笑い合って、2人はそろって化粧室を出た。 「キミは面白い男だね」 肩を並べて歩くと、麻生との身長差が大体5センチほどだとわかる。 「見舞い客なら、また会えるのが楽しみだよ」 「俺はつまらない男ですよ」 「自慢じゃないけど、人を見る目には自信があるんだ」 男は細目を指し示す。 廊下の交わるところで、どちらからともなく足を止めた。 「じゃ、俺はこっちの病室だから」 彼が指した廊下の奥――先程までいた男たちの姿は消え失せていた。 「俺は3階なんで」 「わざわざここのトイレまで?」 「限界まで我慢するのが好きなんです」 「Mだねー」 しれっと言う麻生にからからと笑う男は、見たままの乾いた性格のようだ。 「気が合いそうだ」 それは遠慮願いたい。 「ヒマがあったらいつでも来ていいよ。いつもいるわけじゃあないけど、誰かしら人はいるから。連絡してくれれば飛んで来るよ」 人はいる――それは明らかに、患者の他に、というニュアンスを含んでいた。 「また来ますね」 「その時は一緒に葉巻でも吸おう」 「いいですね。一度吸ってみたかったんですよ」 笑顔で別れ、踊り場まで降りた麻生の背後に声が降る。 「――仲良くしようね、麻生くん」 ぴたりと足が止まった。 「……こちらこそ――勅使河原(てしがわら)さん」 振り向く――階段の上から笑顔で見下ろしていた彼は、 「『てっしー』でいいって言ったでしょ?」 ひらひらと手を振ると背を向けて歩き去った。 ――…………憶えてやがった。 彼の鼻歌と、リノリウムの床を叩く足音が妙に響き渡る。 「あいつ……」 麻生の表情が険を帯びた。 「……………………手ェ洗ったか?」
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