これから仕事だという尋絵を葉崎駅まで送り、幸輔がバイトから帰って来るまでの時間を、麻生は駅前のファーストフードで潰した。昨日は遅番で、今朝は早番で……よく体が持つものだと心底感心する。 「――いらしゃいませ!」 溌剌とした店員の声を耳に、つまんだポテトを口に、カウンター席で駅前のバスロータリーをぼんやり眺めていると、幸輔が窓の外を横切った。わざわざ足を止め、1メートル未満の距離で全身を使い手を振ってくれる。 「こーちゃ〜ん!」 店の自動ドアをすり抜けるや、犬のように駆け寄る。 「どうして無視すんだよ!」 「窓挟んで臆面もなく手ぇ振んなよ!」 18歳とは思えない暴挙と思えた。 「バイト上がりで疲れてるところ、悪いな」 「そんな事ねえよ。3時間寝られりゃいいし」 麻生のとなりに座るとすぐにポテトに手を伸ばし、幸輔は平然と言いのけたのだが、紛れもない事実だった。松原幸輔は、たとえどんなに眠かろうが3時間の睡眠で事足りる。1日3時間でも好ければ3日3時間でも十分だというから驚きだった。4日を越すと6時間に繰り上がる反動は愛嬌。 「尋絵さんの友だち、どうだった?」 「食いすぎだろ」 半分以上残っていたポテトはあっという間に幸輔の胃袋へ消えた。 「何が?」 自覚ゼロなのが厄介。 「何でもねえよ。腹減ってんだろ? 何か食えよ」 「あ、いい? バイトでメシ食べはしたんだけど、小腹がすいちゃってさ。ちょっと待ってて」 と言って幸輔が買ったのがポテトだった。 「……おまえ、そんなにポテト好きなの?」 「大好きだよ。イモくさいところが」 しかもLサイズ。 それ以上の言及は避けた方が得策だと、麻生は判断した。 「梨香さんは軽傷で済んだよ」 「誰?」 「おい」 「あ、尋絵さんの友だちか」 「んで、どんな話になってるかっつーと」 2人の馴れ初めなど当然省いて、現状を伝える。もくもくとポテトを熱心に口に運んではいたが、相槌も打たずに幸輔は聞き入って――最後の3本をくわえたところで、話は終わった。 その間、実に3分。 「食うの早っ」 「なるほど、そういう話になってんのね」 「無視かーい」 「小腹空いてるって言ったろ?」 「小腹の域越えてんだろ、ぜってー」 呆れるばかりの麻生がポテトの空き箱を見ていると、幸輔の手の平が叩き潰した。 「三雲興会ってーと、タケさんか」 指先を舐め、窓の外を見つめる彼の瞳に懐古が映る。 「そーいや、最近会いに行ってないね」 「タケさんの所には俺が行く。幸輔には他に頼みたい事があんだよ」 幸輔が振り向いた。 「頼みたい事?」 「梨香さんの見張り」 「梨香さんが怪しいのか」 「ちっげーよ」 神妙に呟く幸輔の後頭部をはたいた。 「また襲われるような事がねえとも言い切れねえだろ? そうじゃなくても、襲ったヤツが来るかもしれない」 「ん〜〜〜」 「……何だよ、その不満面」 「いや、不満じゃなくて。腑に落ちねーんだよ」 「梨香さんを刺しただけってところか?」 「そう、そこ」 幸輔の人差し指が、ビシッと麻生の鼻先に突き付けられた。 「うぜー」 指を叩き落としたが、彼は気にせず話を進める。 「カレシさんの居場所を知りたいなら、刺す前に脅すでしょ。しかも、襲われたのはマンションの前。ヘタすりゃ人目につく。部屋まで尾行するか、待ち伏せして脅して、部屋の中で話をした方が懸命だ。悲鳴上げられりゃ終わりだけど、それにしたって、いきなり刺すのは馬鹿だね。ラチるでもないわけだし。単なる通り魔じゃん、それじゃ。どうして刺すだけに止まったのか、そこが納得できないナリ」 「ナリって何だ」 「見張りはいつまですりゃいいの?」 見事なスルー具合だった。 「少なくとも、梨香さんを襲ったヤツが尻尾出すまで。そう簡単に出すとは思えねーけど、俺も三雲興会から調べてみる」 「ホテルは?」 「ホテル?」 オウム返しに尋ねてから、幸輔がホテル葉崎を指しているのだと思い至る。 「ああ、そっちは今のところ平気だろ。襲われたのはマンションの方でだし、ホテルはまだ安全なんじゃねーの? ホテル行ったって梨香さんはいねえんだから」 そこまで言った麻生の唇が不意に止まる。もしも――仮説が頭をよぎる。 「きっと俺とこーちゃん、同じ事考えてるんじゃね?」 幸輔が笑んだ。 「その、梨香さんって人がカレシから何かを受け取ってるんじゃないかなーって、俺は考えたんだけど」 ぴったり同じ事を考えていた。 「…………あー、ダメだ。そんな話聞いてねえな。言ってねえだけかもしんねえけど」 梨香と話した時間は短く、襲われた時の事しか聞いていない。 「じゃ、それは幸輔にお願いするわ。もしかしたら、何かを受け取ってるかもしんねえし」 「確認しとく」 「よろしく」 一度帰宅してから病院に行くと言う幸輔と別れた麻生の足は、そのままバスロータリーに向かった。歩いても行ける場所ではあったが、バスに乗った方が早く着く。 「……ま、妥当な判断だろ」 乗客の少ない車内のシートで揺られながら、独り言ひとつ。 葉崎駅から東へ15分ほど――麻生が降りたのは佐岩井公園だった。海辺に程近い、緑生い茂る広い公園である。昼間はちっこいやんちゃ坊主が母親に見守られ駆け回り、夜は平均身長172センチの茶髪やんちゃ坊主が女を引き連れてたむろする公園でもある。さらに加えるならば、深夜は18歳未満立ち入り禁止区域でもある。あちこちの草むらから聞こえる猫の鳴き声をヒントに、推して知るべし。将来ある君子ならば危うきに近寄らずがよろし。 そう考えると、この公園も末恐ろしい空間だと感じる。 感じてみただけだが。 公園の入り口のバス停に降り立つと、湿気をふんだんに含んだ熱気に麻生の唇がへの字に曲がった。バス車内は冷房が頑張ってくれていたおかげで快適だったものの、その反面、半端でない温度差に体が参りそうだ。奮い立たせた気もすぐに萎え、ダルい足取りで敷地内に入る。噴水広場を抜け、アスレチック広場を抜け、定年を迎えたと思しき老夫婦がウォーキングしている姿を横目に――麻生は公園の最奥部へと歩を進めた。 そよ風が少し強く吹いた。 足元の芝生が滑らかに揺れ、頭上に延びる枝葉がざわめく。 すぐ近くでセミが鳴き始めた。 ――ミーン、ミーン、ミーン、ミーン…… 歩道はとうに足元から消えていた。 見る限り緑色と茶色と白の視界。 あるのは葉擦れと木肌と木漏れ日の世界。 その中心に、コミュニティはあった。 「――おー。コースケじゃねえか」 ブルーシートとダンボールと骨だけのカサで造られた4つのオブジェが、それぞれ4本の頑丈な幹に寄りかかる様子は、依然訪れた時と何ら変化がなかった。自然と、麻生の唇の端が笑む。 「ずいぶんご無沙汰じゃねえか」 最も手前に位置するオブジェから、ワンカップのビン片手に出て来た男は、麻生を見るなり太く大きな声で迎えてくれた。身長190と少しの巨体に、ボサついた白髪。頬骨の浮いた細面には無精ヒげはなく、目尻には優しい笑いジワ。元は灰色だったと予想できるが、点々とシミが付いているせいで薄汚れている印象しか与えない、つなぎの作業服。 「久しぶり、リョージさん」 コミュニティ一番の背丈と綺麗好きの性格を持つ63歳、リョージ。麻生は笑顔で挨拶して。 「他のみんなは?」 残る3つのオブジェは、一見したところ静かなものだった。誰かが出て来る気配もなければ、誰かがいる気配もない。何より、笑顔だったはずのリョージの顔が、不意に曇った事が気になった。 「みんな、今はタケさんの所に行ってるよ」 タケさんの所――そう聞いて、麻生の視線はコミュニティの奥にあるオブジェを見やった。すっかり錆び切った上にパンクしている自転車が淋しく停められたオブジェ――タケの家である。が、やはり誰かがいるような気配は皆無。 彼の飼っているはずの雑種犬(名前は忘れた)すら、いない。 「行ったって追い返されるだけで、無駄なのになあ」 「みんな、どこ行ったって?」 「大東病院に行ってる」 「はあ?」 驚きのあまり素っ頓狂な声を出す。 「どうして病院なんか…………」 嫌な、胸騒ぎがした。胸がむずがゆく締め付けられる。胃が収縮する。重力が徐々に消え失せる。 タケさんの所へ―― 「おとつい、急にぶっ倒れたんだよ」 あれだけ暑かった空気が冷たい。ねっとりと――肌にねっとりとまとわり付くのは湿気か汗か。こめかみで血液が脈打つ。耳鳴り。ドクンドクン早鐘打ってるのは何だ。右手が痙攣する。耳鳴り。瞬きも忘れた。眼球の奥に鈍痛。三半規管が震動する。喉が渇いた。水が欲しい何か飲むものを。耳鳴り。耳鳴り。タケさんがどうした。タケさんがどこ行った。タケさん――タケさんが――――――どうしたって? 「……………………うそだろ?」 セミがうるさい。
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