「こーちゃん!」 いくら必死に暴れ、もがき、足掻いたところで細木の束縛は強固だった。 「……そんな泣きそうな顔すんなよ」 冗談でなく鼻が痛かった。もしかしたら折れているのかもしれない。それでも麻生は、幸輔に笑顔を作った。次いで、忍足と細木を見上げる。 「どうして止めなかった?なんて聞かないでね。どうせ止まらなかっただろうし」 予想通り、忍足は冷ややかな調子で、 「今のは、社長からけしかけたものですから」 予想外に、細木は突き放した意見だった。 「――麻生さん」 仏頂面かつ野太い声で名を呼ばれ、麻生は警戒した。今の状態でも、そこら辺のヤツなら相手は出来るだろう。テンションもまだ高い位置にあるし、鼻血を垂らしながらでも体を動かす事は出来る。しかし、相手が細木となると話は別だった。 「カギを、私にください」 ――やっぱ来た。 「麻生さんが持っていても意味のないものなんです」 「……そうかしら」 忍足がそう呟くのが聞こえた。彼女がどのような意図でそう呟いたのかまではわからないが。 「……何なんだよ、あのカギは」 「会長の意志なんです」 「意志?」 細木が口を開きかけた時――階下がにわかに騒々しくなった。それは繁華街の喧騒にも似た、しかし決して楽観的なものではなく、むしろ悲嘆色が濃厚な。悲鳴や慟哭が風の塊となって、屋上にまであふれていた。 「……何だ?」 怪訝を覚えたのは麻生だけではなかった。何事かと周囲を見回す幸輔も、黙して様子を探る細木も。 忍足だけが、知っていた。 「始まったわ」 「何が」 麻生の問いにしかし答えず、静かにフェンスに歩み寄った忍足は網越しに見下ろした。 「何が始まったって……」 腰を上げた麻生が鼻を押さえながらフェンスに近付き――絶句した。 「何だこれ!」 細木から解放された幸輔がフェンスに額を押し付ける。同じようにとなりで見下ろす細木が、唾を飲み込む音が聞こえた。 4人が見下ろす大東病院裏口は、人の頭で埋め尽くされていた。 何十人というレベルを越え、とうに百を越えているであろう人の数は裏口に収まり切るはずもなく、道路にまであふれ返っていた。目を凝らせば、ホームレスが大半――見るからにヤクザと判別できる者や、コック姿もある。子供を抱える女の姿や、ひと際大声で嘆く青年も見受けられた。百何十人という老若男女が泣き叫ぶ渦の中心に、白いバンが埋まっていた。 「――もしもし?」 いつの間にか携帯電話を耳に当てていた忍足。 『せっ先生! 大変です! 人が! 人が! 前に進めません!』 電話相手はどうやら、あの中心にいるらしい。金切り声に近い男声と周囲の喧々囂々が麻生の元まで聞こえる。ただただ唖然と、麻生は足下の信じられない光景に目を奪われっ放しだったが。 「彼ら、何か言ってる?」 『会わせろって! 誰っ! タケさんって誰! 助けてぇぇ!』 かわいそうに、すっかりパニクっている様子。 「会わせてあげて。あなたの後ろで眠ってる人がタケさんよ」 『何なんですかこの人たちは! あ! ダメだって! ワイパー引っ張っちゃダメだって!』 「早く会わせてあげないと、青柳くんに襲いかかり兼ねないわよ」 『ええええええええええ!?』 「いいから、早く会わせてあげなさい」 『誰たちなんですかこの人たちは!』 「家族よ。その人たち、みんな」 淡々と、忍足は一方的に通話を切った。 「……どーゆこと?」 点になった幸輔の目を見るなり忍足の鼻が鳴る。 「……俺の事が嫌いですか……?」 「あの人は、これまでの人生を、実に慌しく駆けて来たんです」 と、開口したのは細木だった。直立不動だったその手が網にかかる。 「任侠の世界に生まれ、ホームレスとして天寿を全うするまでに――教師、三雲興会社長、会長として、様々な人と接して来て。一度でも関係した人であれば、たとえ道端で肩がぶつかっただけの人でさえも、その人のために尽力し、奔走した人なんです」 あれだけ寡黙だったのにこんなにも滑らかに話す細木にも驚いたが、 「教師!?」 そちらの驚愕に麻生の目が剥いた。 「すげー、タケさん」 幸輔が見やるフェンス越しで、今まさに、バンから棺桶が下ろされる。騒々しかった群衆が水を打ったように静まり返る。戸惑いを隠せずにいる職員がおどおどと落ち着きなく、だが無事に箱を下ろし終えた。老人の顔の部分にある窓が開かれる―― 棺桶を中心に、黙祷の輪が広がった。 皆一様に手を合わせるまでに1分とかからなかった。 彼らに倣って、麻生も手を合わせる。 まぶたの裏でその老人は、黄ばんだ歯を見せ、笑った。 「――ありがとう! タケさん! 誰かの張り上げた声が、静寂を感謝の波に変える。 「ありがとう!」 「ありがと!」 「ありがとぉぉぉ!」 皆が皆、口々に諸手を挙げて空に声を張る。それぞれの謝恩を、想いを乗せて手の平を突き上げる。これだけの人数が1箇所に集って、それぞれでも同一の感謝を、逝ってしまったたった1人の老人に贈る。 「これだけ盛大に見送られれば、葬式なんていらないわね」 忍足の言葉は幸輔の目頭を熱くさせた。 この光景を一生忘れまいと、幸輔は心に誓った。それはあまりにも神秘的で、奇跡で、それでも1人1人の想いが形となった結果で、だから現実で。
――バンッ!
だからこそ、つんざいた銃声を認識するのが遅れてしまった。 「てっしーさぁ……」 麻生が背後を振り返る。 そのTシャツの脇腹に穿たれた穴が嘘みたいに、みるみる血で染まり、 「……空気読めよぉ」 脇腹を押さえたまま彼が揺れた――どっ――横に倒れ込んだ。 「こーちゃんっ!?」
|
|