これから老人を見送るというのに、麻生と幸輔はまるで見えないヒモに引っ張られているかのように階段を昇っていた。ヒモの先はもちろん、2人の先を行く忍足の背中だった。病棟はいつもと何ら変化なく、患者と看護士で賑わっている。老人が死んだ事が、まるで悪趣味な虚偽だったかの錯覚。 ばったり、梨香と出くわした。 「アソーくん! 幸輔!」 ストーカーの件が落ち着き、無事に退院を果たした彼女は、今度は井延の見舞いとして大東病院に通っている。 「あ、先生」 「忘れてたの? 見えなかったの?」 「いや、そんな事……あれ? 痛い、痛いです先生」 忍足のコブラクローが梨香のこめかみをきれいに捕らえていた。 麻生と幸輔が全力を注いで引き離した後、顔をしかめてこめかみをさすりながら、梨香は物珍しそうに聞いて来る。 「どこ行くんですか?」 「屋上に、ちょっとね」 麻生に羽交い絞めにされながらも淡々と答える忍足。 『屋上?』 麻生と幸輔は、付いて来なさい、としか言われていなかった。 梨香と別れ、また階段を昇る。 まだ階段を昇る。 「なあ先生」 「何?」 「どうしてエレベーター使わねえの?」 麻生の素朴な質問。 「屋上まで、エレベーターじゃ行けないのよ」 「途中までエレベーター使えばいいじゃん」 「…………」 「何も、ひたすら階段昇る事ないんじゃねえの?」 「あのコ、おもしろいコよね」 ――ナチュラルに流したっ。 「つい、からかいたくなるわ」 「いや、さっきのコブラクローは本気でした。確実に潰しにかかってました」 幸輔もコブラクローを食らう羽目になった。気持ち、強めだった。麻生が必死に止めなければ、頭を潰されかねなかった。 「ほら、私って人付き合いが下手だから」 呟いた忍足を2人そろって無視して―― ――たどり着いた屋上には、細木と勅使河原がいた。背の高いフェンスに寄りかかって、言葉を交わすでもなく勅使河原は空を仰ぎ、細木はどこか虚空を見つめる。天井の中心で干されたシーツが、幾重も風にはためく様は波を彷彿とさせた。 勅使河原が3人に気付いた。 「最期の挨拶は終わった?」 この鼻にかかった声が好きになる事など一生来ないと、麻生ははっきり断言できる。 「あなたも見送りに来たの?」 彼らに歩み寄った忍足が、勅使河原の右手に葉巻を見付けた。 「ここ、禁煙よ」 「ああ、ゴメンナサイ」 形式のみの詫び。見せ付けるように紫煙をくゆらせ、視線を空に戻す。 「あいつ、うそみてぇに痩せこけてたよな」 呟いた瞳には愛しさも懐古もなく、まるで一仕事終えた後の一服といった口調で。
「やーっと、いなくなった」
「――勅使河原ああああ!」 麻生が殴りかかった。止めようとした幸輔の手はもう少しのところで空を掻き、麻生の目の前に巨体が立ちはだかった。 「邪魔すんなあ!」 「――ストーップ」 右足に何かが引っかかる。前進する身を支えるものを失った麻生は無様に細木の足元まで転がった。 「ってえじゃねえか!」 すぐさま飛び起き振り返れば、足を引っ込めた忍足が麻生を睥睨している。 「麻生ちゃん」 思いがけず柔和な声を発した勅使河原を睨み付けた。彼はまだ、空を見上げていた。何を熱心に見入っているのか――彼に倣って幸輔も見上げてみる。遠くに入道雲が低空に浮かび、煌々と照る太陽の脇を綿あめの形をした雲がよぎる。夏の空。蒼は澄み、広大――視界を戻すと、勅使河原は麻生を見つめていた。 「もう、隠すのはやめよう。井延と会ったんだろ?」 「はあ?」 「井延の恋人、もう退院したんだろ? さっき見かけたよ。まだここにいるのはどうしてだ?――ああ、俺が隠すのもアレだな。彼女についてったんだ。そしたら、まあ、あんな平和そうに寝ちゃってさ」 勅使河原はゆっくりと、麻生に近付いた。無言で睨み返す麻生との距離を10センチほどに縮め、 「近ぇよ」 麻生の抗議をひねり潰す。 「井延が預かったもの、俺によこせ。もし麻生ちゃんが井延と接触してるんなら、あいつが持ったまんまだなんて考えにくいんだよ」 「じゃあ、教えろ」 麻生の鼻をぐっと寄せる。勅使河原は身じろぎもしない。 「コインロッカーには何が入ってんだ?」 「やっぱ持ってたんだ」 「教えてもらうまで渡さねえ」 「頑固なんだね」 「頑固なんだよ」 ごっ!――勅使河原の頭突きが麻生の額を弾いた。仰け反った麻生の背筋と腹筋が膨らむ。 ごっ!――反った身を返す反動を頭突きに乗せる。揺らいだ勅使河原の頬を麻生の拳がえぐった。回る体――左足を軸にした回し蹴りに変わる。革靴の踵が麻生のこめかみを捉え、 「力づくって、好きじゃないんだよ」 「ああ、俺もだ」 麻生が軸足を払う。バランスを崩し肩から落ちたところをとっさに受身を取った、勅使河原の頭に容赦なく打ち込む蹴り――腹筋と屈伸で跳ね起き、寸でのところで空振り。 「せっかくの白スーツが汚れちゃうじゃないか」 「そんなもん着てっから気になるんだ」 麻生が間合いを詰める――勅使河原の肘打ちを紙一重でかわし、ガラ空きになった胸元から突き上げた拳がその顎を砕く。彼の手が麻生の髪をつかんだ。 「つかまえた」 かわした肘打ちが顔面に入った。鈍痛――鼻の奥でキィンと痛覚が弾け、たまらずうめいた。噴いた鼻血がスーツを汚す。勅使河原が顔をしかめ、生じた隙を見逃さなかった。麻生の拳がみぞおちにめり込み、体をくの字に折った彼の手が緩んで、 「――沈め!」 両手で固定した顎に膝を打ち込む。 ――ごっ! 骨と骨がぶつかり合う鈍い音が空に抜けた。 白目を剥いた勅使河原の膝が地面に落ち、脱力した身がふらふらと左右に揺れた後――前のめりに伏す。乱れた呼吸に肩を上下させて彼の脇に座り込んだ麻生は、しびれた鼻に触れ、 「っつ!」 しかめっ面。俯けば、鼻先から地面に血が滴る。赤い点のとなりに吐いた唾もまた、赤かった。口の中はきっと鉄臭いのだろうが、鼻がこの通りだ、嗅覚よりも痛覚の方が断然勝っている。 白目で動かない勅使河原を一瞥、麻生は俯いたままで首をねじった。 忍足は腕を組んで傍観に徹していた。 細木は自分よりも2回りほど小さい体を抱え込んでいた。 幸輔は自分よりも2回りほど大きい体に埋もれていた。
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