『――たった今、ジイさんが死んだよ』 その電話をくれた人物は、律儀にも大東病院の入り口で葉巻片手に待っていた。 「やあ」 「こーちゃん!」 呑気に葉巻をくゆらせる勅使河原の頬を、幸輔の制止も聞かずに殴り付けた。 「いきなり殴るなんてひどいんじゃない?」 殴り返された勅使河原の拳は重かったのだが、痛みはなかった。体中の血液が煮えている。 「ストップ!」 睨み合った2人の間に幸輔が滑り込む。奥歯を軋ませ麻生が睨み付ける勅使河原の口角が、左だけ上がった。 「ジイさんに最期の挨拶をしに来たんだろ?」 「ついでにその面も殴りに来た」 「それじゃ、あとはジイさんと対面するだけって事だ」 「まだ殴り足んねぇ」 「ほんと、キミって男は――」 ニタリと、勅使河原の唇が左右に伸びた。 「――おもしろい男だよ」 その身が180度回転する。自動ドアをくぐりながら、 「ジイさんの所に連れてってあげるよ」 そう言った無防備な背中に殴りかかるのは後にして、麻生と幸輔は大人しく従う事にした。 地下2階。陽の光に代わって蛍光灯が照らし出す無機質な廊下には、露出した肌にひんやりと触れる空気が飽和していた。3つの足音だけが鳴り、1枚のドアを前にして立ち止まる。霊安室と書かれたプレートを一瞥し、麻生は部屋に入った。 蛍光灯が2本。簡素なベッドが1台。横たわる老人が1人。佇む巨体が1つ。 思いの外狭く区切られた部屋で、細木が手を合わせていた。 「何だ、来てたんだ」 勅使河原の放った言葉は何の感慨も意味も携えたものではなく、細木がいてもいなくても大した差はないようだった。ドア脇の壁に寄りかかった彼は、麻生と幸輔に目で促した。 久しぶりに対面する老人は痩せこけていた。胸元で組み合わせられた手は骨張っていた。そっと麻生の手を乗せた。信じられないくらい当たり前に、老人の手は冷たかった。 「体中ガタついてたんだってさ」 勅使河原の声を聞きながら、老人の顔まで視線を這わせる。筋張った首筋、乾いた唇、血の気のない頬、綿を詰められた鼻、閉じたまぶた、数本だけ立つ薄い眉、富士額。 「あんな生活してたんだ、ボロボロになるのも当然」 穏やかに眠る老人の顔が霞む。浅く吸い込んだ空気は、吐き出す時にはかすれていた。 「……タケさん。久しぶり」 やっと、会えた。 「病院のメシ、まずかったのか? ずいぶん痩せたな」 無言のまま、細木が退室する。勅使河原は声をかける事すらしない。 「シケたメシ出すんだな、この病院。金あるんだから、メシぐれぇまともなもん出せよな」 老人の手を優しく叩く。 「こんな手じゃ、俺を殴ったら砕けちまうよ。タケさん。トウゴが泣いてたよ。俺、犬が泣くのなんて初めて見たんだけどさ、本当に哀しそうに、泣くんだよ。ちゃんとあの頭撫でてやったのか? あんたがガキどもから守った犬なんだ、最後まで面倒見てやれよ。そうだ、まだ言ってなかったけど、俺が刺された時に応急処置してくれただろ? あれ、医者が驚いてたよ。完璧な処置だったってさ。あんた、すげーよ。タケさん――」 麻生の膝が崩れた。慌てた幸輔がとっさに支える。 「こーちゃん」 「俺…………まだ――まだあんたを殴ってねえだろがよお!!」 張った声が狭すぎる室内を飛び交った。 「――――くだらない」 幸輔が振り向いた時にはもう、勅使河原の背中はドアの向こうにあった。麻生の嗚咽を残し、ドアの隙間が細くなる。
ばたん。
「こんな所で何してんの?」 後ろ手にドアを閉めた勅使河原の前に、白衣を着た女が立っていた。メガネをかけた顔は眠そうではあるが、どこか理知的で、無機質な廊下に違和感なく溶け込んだ。白衣のポケットに手を入れたまま、その唇を最小限に動かす。 「お別れの挨拶をしに来ただけよ」 「ジイさんの主治医でもないのに?」 「病院の患者だから、じゃあ理由として不十分かしら?」 勅使河原は肩をすくめた。 「十分だよ。だけど、今はやめといた方がいい。せっかくの再会を邪魔する事になるし――」 鼻頭と眉間に縦ジワを刻み込む。 「――湿った空気に気が滅入るだけだ」 「そう」 女は無関心な顔で受け止めた。 「じゃあ、しばらくここで待つ事にするわ」 「それが賢明だ」 彼女の肩をすり抜ける勅使河原は、まだ昼食を取っていなかった事を思い出した。さて、何を食べようか―― 「――コースケ」 足が止まる。 「これって何かの縁かしらね。同じ場所に同じような名前の男たちが集まるなんて」 肩越しに振り向いた。女の背中は微動だにしない。 「偶然にしては出来過ぎに思えるけど、それでもやっぱり偶然なのよ。こんな事言っても私自身信じられないけど――偶然じゃなければきっと、あの老人が呼んだんでしょうね」 勅使河原の表情に険が浮き彫られる。頭の片隅にすら、空腹感は残らなかった。 「…………」 「あと1人、ね」 あと1人――その意味は皆目わからなかったが、 「おまえ何者だ?」 我知らず早口で質す。 女はゆっくり――ゆっくりと振り返った。 「しがない女の医者よ」 口元が意味深に微笑んだように見えた。 「しがない女の医者が――」 勅使河原の語尾まで聞く事なく、彼女の手がドアノブにかかる。 「――俺の名前知ってるわけないだろ」 彼の言葉をすり抜け、女は霊安室に吸い込まれた。
ばたん。
ドアが閉まる音に勅使河原を連想したが、振り向いた幸輔をじっと見つめていたのは忍足だった。 「先生? あれ……」 どうしてここに?――尋ねようとしたところで彼女の視線が足元にずれた。あぐらを掻いて座る麻生は先程よりずっと落ち着いたものの、ずっと頭を垂れたまま何も言わない。 「もうお別れは済んだ?」 忍足の声音が凛と揺れた。こうも慈愛を感じさせる声音を紡げるなんて、初めて知った。 「……どうしてあんたがいんだ?」 天井を仰いだ麻生が鼻をすすって、背を向けたまま尋ねた。 「さっきも同じ事聞かれたけど――」 きっと勅使河原だろう――幸輔が予想できる範囲では彼しかいない。 ――あ。あの人もいるか。 入室した時にいた巨躯が脳裏をかすめた。 「――その人の主治医ってわけじゃなくても、逝った人に祈る事ぐらいできるでしょ」 「じゃあ、この男がどんな人間かってのは知らねぇよな」 「死に顔を見る限り、穏やかに逝けたってのはわかるわ」 「そうとは限らねぇだろ」 「もちろん」 「穏やかにだなんて軽々しく言うんじゃねぇよ」 「そっちこそ」 「あ?」 「少なくとも、私はあんたより人の死に顔を見てる。病院って、思ってる以上に人の死が多い場所なのよ。病で逝く人だけじゃない、ここは緊急病棟だもの、突然の事故に見舞われて逝く人だっている。そのすべての死に顔を、私は見てるの」 いったん言葉を区切った。麻生と幸輔が黙っていると、再び語を連ねる。 「そうしてるうちに、その人の最期が見えるようになったのよ。ただ、実際に見たり聞いたりしたものじゃないから本当のところはわからない。あんたの言う通り、その老人が穏やかに逝けたなんて確証はないわ。私は死に顔から読んだだけ。そしてあんたは、穏やかにとは限らないって決め付けてるだけ。それを断言できるのは、あんたじゃない」 「……なんか」 やや間を置いて、麻生の首が忍足に向いた。 「人の死に対して冷静だな」 幸輔の目に映る彼はどこか卑屈さがにじみ出ていた。彼の敬愛してやまない老人の死がそうさせているのだとわかってはいるのだが。 「怖いよ。人の死は」 忍足の右足が前に出た。 「めった刺しにされた彼の手術なんて、あまりにリアルに死を想像できて手が震えたもの」 「あんなに自信満々だったじゃねぇか」 「そうしないとダメなのよ」 壁に沿って歩く忍足の瞳が、麻生から老人に移動する。ベッドの頭でぴたりと足を止めた。 「あれは自己暗示。人を助けたくて医者になったのに、手術する直前に怖いだなんて言ってたら笑われるでしょ? けど、死が怖いっていう気持ちは絶対に忘れたくない。私が手術しても死んでしまうんじゃないか――そう思っても手が震えなくなった時は、医者を辞めるつもり。死に対して怖いっていう思いと、それでも助けるっていう想いが極限まで引っ張り合って、拮抗してる状態が私にとってベストだから」 「すっげー精神状態だな」 反発し合う恐怖心と救護心に、両端から体を引っ張られる――幸輔には想像がつかない。限界まで引っ張られ、張り詰めて、プツンと切れた時なんて――その反動を想像もしたくない。 「そんなんでよく、これまでもつな」 「神経図太いのよ」 麻生の感嘆に彼女が振るった言葉もまた自己暗示なのかと――幸輔は頭を振って、思考を追い出した。それか否かを追求したところで意味なんてものは成さないのだから。 忍足の両手が、老人の頬を挟み込むように触れた。 「おやすみなさい」 初めて見た彼女の微笑は慈悲にあふれていて、美しかった。こんなにも優しい笑顔をどこに隠し持っていたのか、どうしていつもは出さないのか、不思議だった。 「――2人とも、見送るんでしょ?」 見上げた時には跡形もなく引っ込んでいたけれど。 「見送る?」 麻生の片眉が跳ねた様子を呆れて見やり、忍足の顔が幸輔に向く。 「この老人が斎場に向かうのを、見送るんでしょ?」 「え……もう?」 穴を開けてやろうかというほどの幸輔の視線を、老人を見る事によって忍足は受け流した。 「せめて葬式くらい開けばとも思うんだけど、斎場に直行するっていう話らしいわ」 麻生の目が見開く。 「どうして…」 「私に詰めたところでどうにもなんないって事くらいわかるでしょ」 「…………」 目の前に正論をぶら下げられては、麻生も口をつぐむ他ない。 「……じゃあ、せめて」 幸輔が提案する。 「俺らも車に乗せてよ。一緒に、斎場に行く」 忍足のまぶたが閉じ、開いて――ゆっくり瞬いた彼女の言葉は重く沈んでいた。 「そんな権限、私にはない」
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