「……どうしたんだよ」 「見守ってんだ」 麻生の近くにいた初老の男が、どこか訛りのある口調で言った。 「見届けようとしてんだ」 「待てよ……昨日、ジジィが手当てしてたろ?」 老人は歯を食いしばり、首を横に振った。 「傷口に菌が入ったんだ……こいつはまだ、生まれたばかりだから免疫が…」 かろうじて、嗚咽と区別ができた。震える仔犬にポツリと添える。 「……すまない」 ごめんね――麻生の足が勝手に動いた。輪の中に飛び込んだ彼は、ホームレスたちを縫って老人の前に立つ。 「何する!?」 仔犬を奪い上げた。麻生の暴挙に老人だけでなく、全員が立ち上がった。 「返せ」 伸ばされた老人の手に言葉を突き付けてやった。自分のどの部分から放たれたのかわからない思いも一緒に。 「獣医に診てもらおう」 子犬の体は驚くほど軽かった。見るからに痛々しい傷――どうして俺は。 「無理だ……」 「決め付けてんじゃねぇよ」 「もう、無理…」 「俺は連れて行く」 周囲のホームレスたちを睨み付け声を張った。 「シケたツラで見守って! それだけで満足か!」 麻生は駆け出した。ホームレスたちをすり抜けひた走る。 「……どうして」 公園を抜け出た彼は、勘に任せて道路沿いを駆けた。バスで外を眺めていた時、獣医の看板を見たような気がする。 「……どうしてこんな事してんだよ」 ゴミが。 ごめんね。 なんか、怖いよ。 「どうして走ってんだよっ」 ひたすら地を蹴った。 蹴って駆けて走って―― ――あった! 視界に飛び込んだ獣医の看板――掲げた建物に跳び込んだ。 「急患なんです!」 声を張って受付窓口に迫る。驚いて飛び上がった窓口の女は、露骨に迷惑そうな顔で、 「あー、じゃあ、この用紙に氏名と…」 ばんっ!――差し出された用紙に手の平を叩き付けた。女が再び飛び上がる。 「すぐに診てやってくれよ! その後だったら何でも書いてやるから! この通りだから!」 麻生は、脇目も振らずに頭を下げていた。 「お願いします!」 人に頭を下げた事なんてなかった。教師にだって下げた事なんてないし、親にだって――そもそも、いて、いないようなものだった。そして、人に何かをお願いする事なんてなかった。 「……そう言われても」 女の言葉が途切れる。自動ドアの開く音に、慌しい足音が加わった。何事かと振り向けば―― 「――お願いします! こいつを救ってやってください!」 麻生のとなりで老人が頭を下げていた。彼だけではなかった――先程のホームレスたちが勢い良く待合室になだれ込んでいた。 「お願いします!」 「お願いします!」 待合室いっぱいに幾重も声が重なる。大の男たちが一斉に頭を下げるその風景を、呆然と、半ば呆れながら麻生は見つめた。 その風景に、今、麻生はいる。 「――お願いします!」 再び、麻生は頭を下げた―――― 「――――これだけの人たちに付いてもらって、このコは幸せだね」 治療を終えた後、若い男の獣医はそう言った。 仔犬はトウゴと名付けられた。
「――どっせい!」 気合いの入りまくった掛け声とともに棒切れが空に飛ぶ。 ワン! ワンワン!――棒の軌道を鼻先で追ったトウゴは、すぐさま尻尾を振って追い駆けた。幸輔が腕時計のストップウォッチをスタートする。 「さて! 何秒で戻って来るでしょう!」 「知るか」 勢い良く振り返った彼の問いかけを、麻生は叩き折った。 「突っ走れ! トウゴ!」 跳ねるように駆ける茶色の毛玉に声援を贈る、幸輔を眺めてあくび。背中を倒せば視界がグルッと回って、紺碧に伸びる枝葉と葉擦れと陽光。となりに座るリョージが、ボサボサの白髪を掻いた。 「タケさんのお孫さん、おまえの事を憶えてたか」 「2年前に1度しか会ってねぇのにな」 「おまえだって憶えてたんだろ? それと同じだ」 「俺の場合、腕折られたってのがあるし」 右手をかざす。2年前、この佐岩井公園で、麻生は折られた。勅使河原が強引にホームレスの老人を連れ去ろうとしたところへ跳び込んだ代償だった。 その時の事を思い出したのか、リョージが苦笑する。 「まさか食ってかかるなんざ、考えもしなかったからな」 「血気盛んだったから」 「その顔も、お孫さん?」 やや腫れた麻生の頬と、唇のカサブタを指しているのだろう。 「いや、これは違う人」 「今でも血気盛んじゃねえか」 言われて麻生も苦笑する。遠くからトーゴの足音が聞こえた。 「ま、コースケのおかげでもあるからな。タケさんがここにいるのも」 「そりゃ言い過ぎでしょ」 顔だけ持ち上げれば、棒をくわえ猛ダッシュで戻って来るトーゴが見えた。興奮気味に幸輔が叫ぶ。 「すげえ! 新記録! 1分切った!」 「リョージさんとか、ここら一帯のみんながいたからタケさんは残ったんだ」 「コースケもその1人だ」 「そうだとうれしいね」 両手を広げ迎え入れた幸輔の顔面にトウゴが突っ込む。くわえた棒が鈍い音を立てた。 「少なくとも、俺はそうだよ。トウゴを助けたあの時から」 「……その話されっと、恥ずかしいんだよね」 「ははは! 恥ずかしい事なんてひとつだってねえよ!」 涙目で顔を押さえながらもトウゴの頭を撫でる幸輔の姿は微笑ましかった。 「――タケさんってさ」 「おう?」 「どうして三雲興会から抜けて、ここで生活し始めてたんだ?」 「目的ってか目標ってか、目指すもんが変わっちまったっつってたな」 赤くなった幸輔の鼻をトウゴが舐める。申し訳なさそうに耳を垂らしていた。 「目指すもん」 「そう。この生活を選んだのは、目指すもんがやりやすいからだって、酔ってる時に言ってたな」 「酒、好きだったもんな」 酒を飲んでご機嫌になるとよく、麻生が吐くまで飲まされた。麻生にとっては迷惑な話だったのだが、おかげでアルコールには強くなった。 トウゴが幸輔にじゃれ付く。しまいには押し倒された。死に瀕していた彼を救ったのは麻生だというのに、何故か幸輔の方によく懐いていた。あれから2年――健康に育った仔犬は大きくなって、今は主人の帰りを待っている。 「――――」 それは突然だった。弾かれたかの如く、麻生の上体が起き上がる。 ――もしかして……! 思考は不意に仮定を打ち出した。 「トウゴ?」 見開いた麻生の瞳の中、あれだけ嬉々としてじゃれ付いていたトウゴが静かになった。その身に乗っかられた幸輔の呼びかけにも応じない。 午後1時9分――その時に何が起こったのか、鋭敏に感じ取ったのはトウゴだけだった。 「どうしたんだ?」 リョージが疑問符を投じる。 トウゴが空を仰いだ。夏の蒼をこれでもかと敷き詰めた空はどこまでも抜けていて。
――アオォォォォォォォォォォォォォォォォォォ……!
長い長い彼の遠吠えを寛大に吸い込んだ。 黒くつぶらなトウゴの瞳は、心なしか濡れているように見えた。 きっと、それは事実だったのだろうと思う。 午後1時9分。 タケさんが、逝った時間だった。
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