林のものではなく、幸輔のそれでもなく。 「あ〜ぁ。麻生ちゃん、こてんぱんにヤラれちゃったね」 2人の視線が男声に引っ張られる。 幸輔の左。 林の右側。 エレベーターホールから白スーツが歩み寄っていた。 ――えっと……誰? 無造作ヘアに細目。勅使河原という人物を、幸輔は初めて目にした。 「車で来てたの忘れて戻って来たらこれだよ。麻生ちゃんってトラブルメーカー?」 横倒れになった麻生の頭で立ち止まる。 「で。麻生ちゃんをこんなにしたのは、あんた?」 勅使河原が林を見た。 「……引っ込んでろよ、てっしー」 麻生がうめく。 「つれないね。――あ」 幸輔の背に梨香を見付けた勅使河原は、ふんふんと数度頷いて、 「なるほど。1つだけ確認しよう」 人差し指を立て、林に向ける。 「あんたはあのコの何?」 「婚約者だよ」 いつのまにか、林は微笑に戻っていた。 「そいつは変だね。あのコには恋人がいたと思うんだけど。それとも、井延は遊びでしかなかったのかな。あのコも、かわいい顔して罪深いもんだね。いやいや、いやいやいや、ずっと同棲していたはずだ。となると、婚約者であるあんたとはいつ会ってたんだろう」 過剰に芝居がかった身振りで言う勅使河原の見つめる先で、林がぼそりと零す。 「……どいつもこいつも」 その右手が震えていた。うつむいたせいで前髪が瞳を隠す。 空気が、振動した。 「何だ! どいつも邪魔すんじゃねえ! わけわかんねえ事ばかり言いやがって!」 「…てっしー、あっち行ってろ」 「麻生ちゃんは大人しく寝てな」 身を起こすために立てた麻生の腕を足で払う。 「いてっ!」 「婚約者だって言ってんだろ!」 再び倒れた彼を越え、林が飛び掛かった。 「婚約者だろうが何だろうが、興味ないんだけどね」 後方に跳んだ勅使河原の鼻先で右フックがうなる。彼の右手がスーツの内側に回った。林の左足が大きく踏み込む。つながる右ストレート―― ――捉えた……! 息を呑んだ幸輔の視界で勅使河原の身が沈む。その頭上を紙一重で拳が過ぎた。 ――どすっ。 勅使河原と林が――すれ違った。 「麻生ちゃんを痛め付けていいのは俺だけだよ」 くるりと振り返った勅使河原の言葉をまるで聞いていない風で、右腕が伸び切ったまま静止した林は呆然と、左太腿を見つめていた。そこに何があるのか、幸輔の位置からでもはっきりと見えた。 深々と、ナイフが突き刺さっていた――林の表情が引き攣る。 「ひぃやあああああ!」 「大袈裟だよ。刺されたくらいで」 喉が割れんばかりの悲鳴を上げ、膝を付き太腿を押さえる。ナイフを中心に赤い染みが広がる様を、今にも泣き出しそうな顔で見つめる。 「ひっひぃぃぃ」 「ナイフとか血とか、慣れたもんでしょ?」 空気よりも涼しげに言いながら、彼の前に回った勅使河原は――おもむろにナイフを蹴った。 「――――っっ!!」 刃先が骨を削りなおも肉を裂く。林の喉が喘音に振るえ、 「ああああああああああああああああああああああああ!!」 悲鳴が荒々しく荒れた。傷口からあふれた血でパンツが赤く潤う。 「ああああああああああああああああああああああああ!!」 鬼の形相で跳び上がった林の左腕が勅使河原の胸倉をつかんだ。 「うるさいよ」 その手首をつかむや身を引く。引っ張られ林がつんのめる。引かれ伸び切った左肘に、勅使河原は。 ひとっかけらの躊躇もなく。 右拳を――――打ち込んだ。
ごきんっ。
「――がああああああああああああああああああああああ!!!!」
肘からぶら下がるだけの左腕を押さえた林は左足で踏み止まる事もできずに地面に伏した。涙を流し悲鳴を上げ続ける男を勅使河原は睥睨し、つまらなそうに淡々と、 「黙んなよ」 言い捨てる。 「あああ! ああ! あああああああああああ!!」 激痛に惜し気なく叫ぶ林を、やれやれと見下ろし――その右足を持ち上げる。丹念に磨かれた靴底の下には林の頭部。 「――黙れ」 右足が全体重を乗せて落ちる―― 「――やめろ!」 ――寸前に、彼の後ろから幸輔が羽交い絞めにした。 「もういいだろ! これ以上痛め付けなくたっていいだろ!」 訴えた。必死だった。直感的サイレンが、勅使河原が危険だと報知していた。林とは異なって危険だと知らせていた。尋常でなく異常だと。 勅使河原の足が下りた。林の頭ではなかった。 林は泣いていた。恥ずかしげもなく泣いていた。 「つまんないよ、きみ」 興が冷めた口調で勅使河原が言う。 つまらなくたって結構だ。 「……あんたは、おもしれえのかよ」 鼻で笑ったのが聞こえた。
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