腕に抱えた彼女は思いの外に重くはあったが、彼にはまったく苦には感じられなかった。むしろ、愛しい人を傍に置ける喜びに全身が火照り、今にも踊り出したいほどだった。 地下駐車場の空気は外よりも涼しく、彼の靴音が一定のリズムで鳴り響く。白線で区切られたスペースに大人しく納まる車の列は、何の感慨も持たずに彼を見つめた。 やがて彼は1台の車の前で立ち止まった。右手に持っていたリモコンキーを押すと、深い青色を蛍光灯で鈍く輝かせる車がヘッドライトを瞬かせた。となりの車との隙間は十分に開いている。彼女を抱えたまま隙間に入り、後部シートに横たわらせた。胸を上下させ、静かに寝息を立てる彼女の額に口付けた。 運転席に乗り込んだ彼は、ダッシュボードに転がっていたタバコに手を伸ばし、止めた。ルームミラーで彼女を確認する。慣れた手付きでエンジンをかけ、すぐに発車。ハンドルを切って駐車スペースを脱した瞬間、車の前に人影が躍り出た。 「うわっ!」 急ブレーキを踏んだ体が前にのめった。人影が後方に飛んだのをたしかに見た。 「……おいおい」 飛び出したのは向こうだ。ぼくのせいじゃない。向こうが勝手に飛び出して。 責任転嫁の思考を慌てて掻き消す。 ぼくは医者じゃないか。責任追及なんて後でいい。まずは――そう。まずは手当てが先決だ。 思い直した彼は車を降り、ドアを閉めた――その瞬間。 「――やあ、先生」 胸倉をつかまれ、圧倒的な腕力で背中を車体に押し付けられた。 「な……何?」 状況がわからず瞬きする。車の前から声がした。 「あっぶね〜。あと少しでもブレーキが遅かったら本当に轢かれてた」 「無茶してんじゃねぇよ、幸輔。見ててひやっとしたわ」 「ナイスな演技だったっしょ」 すっくと立ち上がり満面の笑みで親指を立てた幸輔から、麻生は目の前の男へ目を移した。焦げ茶っぽいスーツ姿の男。目立たない程度に茶色く染めた髪の下に、細い指と二重の瞳が並ぶ。見た感じ、イケメン。 「俺の方がカッコイイ」 「は?」 意味がわからず見開いた男の目に、麻生はそれを示した。 「これ、先生のだろ?」 それはネームプレートだった。プラスチックの白い長方形。裏にはクリップ、表には林と記されていた。 「……ああ。どこに落としたのかと思ったら」 「どこに落ちてたと思う?」 ネームプレートを受け取ろうとした男の手をよける。 「返してくれないのかな?」 怪訝を込めた笑顔で麻生を見つめた。 「そいつの病室に落ちてたよ」 麻生の顎が後部シートをしゃくった。 「桜田梨香の病室で、だ。どこに連れてくかなんて知らねーが、彼女を返してもらうぞ」 「――ああ」 林が笑った。清々しいまでに涼しく、人当たりの良い、さぞ患者たちに好評を博しているであろう笑顔でもって。 「きみたちは梨香の友だちなんだね」 人に好印象を与えるはずのそれは、しかし幸輔の背中を悪寒となって撫で上げた。外より涼しいとはいえ、それとは明らかに異なる寒気に鳥肌が立つ。得体の知れない黒い何かが幸輔の前で両翼を広げた。右の顎の付け根が痙攣し頬を引っ張る。 ――違う。 直感的に悟った。 「ああ、友だちだ。だから返せ」 「あ、きみの声」 林の瞳が見開いた。 「知ってるよ。梨香の家に来てたね。もう1人の女は? そこのきみじゃあないみたいだけど」 幸輔と麻生の顔を見比べる。 こいつか――麻生は確信した。梨香の家で見付けた、招き猫の中から転がった小型マイク。 「梨香の事ならぼくに任せてくれて大丈夫だよ。彼女を不幸になんてしない」 まるで麻生の言葉なんて聞こえていない。彼の眉間のシワが深くなるのも構わず言をつなぐ。 「名前を教えてよ。ぼくらの結婚を祝ってほしいんだ」 「ああ?」 「きみの名前は?」 麻生の何かが弾けた。頭は白く体が動く。固く握った右手が林の頬に打ち込まれる――はずだった。 ごっ。 ――あれ? 麻生の視界がブレた。林を睨んでいた焦点がずれ、浮遊感。顎で爆発した強烈な痛覚を思い出した時にはもう吹き飛んでいた。 「コーちゃん!」 幸輔の悲鳴が聞こえ――どすっ――コンクリートに背中を打つ。 痛い。 「先に手を出したのはきみの方だよ。これは正当防衛だ」 歌うような林の声音。 「って〜」 しかめっ面で顎をさすりながら、麻生は立ち上がった。眼間の林は軽く両腕を開いて言った。 「暴力に訴えようなんて野蛮だよ。いきなり殴りかかられたら、ぼくだってつい反応してしまうよ」 変わらぬ笑顔で右アッパーを素振りする。ビッ――空を裂く鋭利な音と、先の、顎で弾けた痛覚が結び付く。単なる医者だと思っていた自分は甘かった。素振りの音、体の軸を揺らさない自然体な構え。ただの医者でない事に気付いた。 「こう見えても、中学から格闘技をやってたんだ。最近はなかなか体を動かす機会がないのが残念だけど」 「みたいだな。全然効いてこねぇ」 格闘技だぁ?――麻生に知る由もない。にこやかに笑い続ける医者――接し方を改める必要性があった。 「梨香の友だちを傷付けたくないんだ。初対面だから信頼性に欠けるのはわかるけど、ゆっくり話せばわかってもらえるよ」 唄うように語を紡ぐ林は、己に心酔しているようにも見えた。 「だから今は、大人しく通してくれないか?」 「断固拒否」 「しょうがないね」 一瞬で林は麻生に肉薄する。彼の左拳の軌道上――とっさに両腕で顔面をガードした麻生の脇腹を右拳が入った。 「くっ!」 胃が震える。歯を食いしばり反撃のためガードを解いた瞬間、頬を左拳が打つ。 「――もう痛くねぇ」 頬で受け止めた体勢から打ち出した拳は林の鼻先を掠めるに留まった。さらに林の懐に踏み込み顎を狙う。 「おっと、危ない」 後ろに重心を移すだけで林は回避した。動体視力もしっかり備えているらしい。麻生がチラリと幸輔を見た。 「よそ見するなんて――」 林の拳がその左頬を鈍く鳴らす。 「――余裕じゃないか」 次いで右頬を鳴らす。 「――――」 「何だって?」 訝った林の動きが止まった。生じたわずかな隙に、麻生の身が沈み彼の腰にタックル―― 「ファックっつったんだよ!」 どんっ!――林もろとも車体に突進した。 「ああ!? 車が!?」 裏返る悲鳴――構う事なく身を翻しざまに林の右腕を取る。 「ケチくせぇ事言うな!」 一本背負い――麻生の背で軽々と持ち上がった林はコンクリートに叩き付けられた。 「っでぇ!」 硬い衝突音と潰されたカエルのような声が重なった。 「高収入の分際で、車1台でガタガタ――わっ!」 勝利を確信していた麻生の腕が急に引っ張られる。体が前のめりに崩れた――倒れ込む腹にめり込んだ左拳。 「うっ」 吐き気を押さえ膝を付いた地面には、すでに林はいなかった。彼を探すため上げた顔を右フックが射止める。視界で星がちらついた。地に手を付いたはずが、麻生は右肩から倒れた。 「さすが、と言うか。ケンカ慣れしてるのかな」 やや息の乱れた声をぼんやりと聞く。吐き気で胃の上辺りが気持ち悪い。鼻腔を鉄臭い匂いが横切った。右頬に当たっているコンクリートの冷たい感触。 「だけど、やっぱりそれはケンカでしかないよ。敵うはずがない。一本背負いには参ったけどね」 林が大きく咳き込んだ。 「……まだ肺がおかしいよ。ったく」 どっ! 「がふっ!」 腹部に衝撃。綺麗に磨かれた革靴がめり込んだらしい。喉元まで迫った胃酸を何とか飲み込んだ。鼻の奥が痛かった。 「――きみ」 びくっ――林に対して車の陰にいた幸輔の肩が震える。 「梨香を返してよ」 先程麻生のアイコンタクトを受け取った幸輔はすぐに車に回り込み、今まさに梨香を背負ったところだった。 「婚約者から恋人を奪うなんて、ひどい事をするもんだ」 「あんたは婚約者じゃない」 梨香を背に乗せ立ち上がる。車を挟んで、林は微笑していた。どこまでもやさしく、それでいて狂気をにじませる微笑を浮かべていた。 「返してよ」 手を差し伸べたその微笑が、にわかに破綻する。 「返せって言ってんだろ!」 駐車場内に響いた声が長く尾を引いて―― ――カツッ、カツッ。 靴音に変わった。
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