「――お願いされるまでもなく、死なせるわけにはいかないのよ。病院内で人殺しがあったなんて笑えないでしょ。ここには血液もあるし、設備も整ってる。その上執刀するのは私よ? それを承知でなお、何かしたいって言うのなら、祈ってなさい」 手術直前でもまぶたの半分落ちた無表情は変化がなかった。毅然と表現するにはいささか頼りに欠ける背中を見送り、手術灯の光をぼんやり見上げる。 「…………」 麻生はどこか現実味のない今をどう受け止めるべきか迷っていた。ついさっき腕をつかんだ人間はすぐに血に塗れ、手術台に乗っている。洋式の便座で紅く染まり、だらりと両腕を下げ、貯水ポンプに背中と頭を預けた死体を目の当たりにした時、世界の境界に立つ感覚を覚えた。 生と死。 それは決して可視のものではなかったが、まるでそこだけ空間を異にしているような、処理のしように困る違和感。五感で感じられる井延の向こう。見えるはずもないのに、麻生は目を凝らした。裂かれた衣服から覗く血肉しか見えなかった。目を凝らした事を後悔した。 そうこうしているうちにトイレに担架が持ち込まれ、井延は便座から引き剥がされた。固まり切らずにまだ流れる血液が、彼の指先を伝って床に赤を描いた。 ――てっちゃんか、細木か…… もちろん、他の人間である可能性だって否定できない。勅使河原は帰ったのだし、細木はきっと、病室から動かない。三雲興会の人間で、井延を知っていれば誰でもいい。 力づくでも病院から引き離すべきだったと、今さらながら後悔した。 「コーちゃん」 呼ばれて振り返る。幸輔が小走りで駆け寄った。 「ごめんごめん。なかなか収まりが付かなくて」 「もう済んだのか?」 「そりゃもう、キレイさっぱり。後腐れなく」 「そいつぁ良かった」 「体重が2キロぐらい減った気分だよ」 以上、大便トーク。 「井延さんは?」 幸輔は手術灯を見上げ、憂慮の色を浮かべた。 「忍足姉さんが執刀中。大した自信を持って入ってったところ」 「そう」 「幸輔。ちょっくら三雲興会に行って来るわ」 麻生の発言に、幸輔の憂色が驚愕に変わる。 「どうしていきなり?」 「井延を刺したヤツの面を拝みに行って来るんだよ」 「……その事なんだけど」 「?」 何やら言いにくそうに、控えめに口を開いた幸輔に麻生は怪訝を覚えた。 「いや、最初っから言えば良かったんだけど、なんてーか、言いそびれたって言うか」 視線をあちこちへ飛ばしごまつく彼に苛立つ。 「それ、今じゃねぇとダメな話か?」 「たぶん、井延を刺したの、三雲興会の人間じゃない」 何言ってんだこいつとあからさまに軽侮した目で見た。 「……は?」 「忍足さんに言われたんだ」 そこで麻生は始めて、林航助という人物を知った。 忍足と2人っきりで話した事を述べ終えた幸輔の肩に、ぽんっと手を置く。 「幸輔」 ドロップキックを放つ。 吹き飛ぶ幸輔。 「そういう事ぁ早く言えぇ!!」 言うが早いか駆け出し、転がる幸輔の体を跳躍。痛覚に顔をしかめながらも慌てて起きた幸輔が後を追う。 「だって話す機会なかったろ!?」 「機会くれぇ見付けろ! どうしてさっき話さねぇんだよ!」 「漏れそうだったんだ!」 下世話な主張。 「バカ! バカバカバカ!」 「ところで! どこ向かって走ってんの!?」 「どうしようもなくバカ!」 「どうせ俺はバカさあ!」 「ちょっと考えりゃわかんだろ! その林ってヤツが井延を刺したのはどうしてだ! きっと梨香を刺したのもそいつだ! 刺した理由は!」 「井延さんは……梨香さんの恋人だから?」 階段を駆け上がる。危うく老婆にぶつかりそうになった。 「梨香を刺したらどうなる! どこに運ばれる!」 踊り場で麻生の身が翻る。1秒遅れて幸輔も翻す。彼が言わんとするところがわかった。 「病院!」 葉崎市の有する緊急病院は大東病院しかない。救急車で運ばれるとすれば、ここしかない。 「それが林の計算だったんだよ! 自分の領域である病院にまんまと引き込んだんだ!」 「梨香さあああああああん!」 跳び出した3階の廊下に幸輔の悲鳴が轟き渡る。信じられない加速を見せた彼の足はすぐに麻生を追い抜いた。 「速っ!?」 幸輔の目は梨香の病室しか見えなかった。その手がドアノブに伸びる―― ――ばんっ! 「――あはははは!」 ベッドの上で、テレビ番組を見ながら手を叩き爆笑する梨香。麻生に気付くと不思議そうな顔をして聞いて来る。 それは先日にもあった杞憂。 どんっ――体に乗せた速度を殺し切れずに、麻生が衝突した。 「おまっ、急に立ち止まるんじゃねぇよ!」 体がわずかに揺らいだだけで、幸輔は何も答えない。呆然と注ぐ彼の視線を辿る。 シーツの乱れたベッドを残し、梨香は忽然と姿を消していた。 「梨香さん……」 「落ち着け、幸輔」 その場にへたり込んだ幸輔の頭に触れ、麻生は部屋に入った。 「まだ、そうだって決まったわけじゃねぇだろ。トイレに行ってるだけかもしれねぇ」 それが気休めにもならない事だとわかってはいた。簡易棚に積まれていたマンガが乱雑に転がる床をよけ、ベッドに寄った。見てわかるほど、ベッドは正位置からずれていた。 腕を引っ張られ、必死に抵抗する梨香の姿が脳裏に投影される。 ――くそっ。 舌打ち。シーツを苛立ちと力任せに引っ張った。何の重みも持たない布が麻生の視界で舞い――コトン――何かが床で鳴った。
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