公衆電話は、エレベーターホールに備え付けられていた。色褪せたような緑色をした電話はテレホンカードも使えたのだが、 「そんなもん、持ってねぇし」 持ち歩かなくなって久しい麻生は、財布を開いて小銭を探った。10円玉を投入し、番号を押そうとして携帯電話を取り出す。 「番号なんて憶えちゃいねぇし」 遠野の番号を出し、ディスプレイを見ながら番号をプッシュ。 ――こうしてみっと、どんなにケータイに頼り切った生活かってわかるよなあ。 呼び出し音を数えながら、しみじみと思った。 『――おう』 「わり、俺」 『公衆電話じゃなくても、外出りゃ良かったんじゃねえか?』 「あ……」 正鵠を射抜き貫通した言葉に、今さらながら気付く。 「……次からはそうする」 『はは!』 遠野の豪快な笑い声は、聞いても不快にならないどころか安心感をもたらすから不思議だ。 「ストーカーのヤツ、どうなった?」 『そう、それで電話したんだ』 「そりゃそうだろ」 『あいつ、あっさり自供したぞ。あんまりにもあっさり過ぎて、肩透かし食らった気分だ』 「結構な事じゃねぇか。暴力沙汰にならなくて良かったんじゃね?」 『俺にはそんぐらいがバランスいいんだよ』 「何のバランスだよ」 『あっさりした取り調べなんざ、発狂しそうになる』 とんだ刑事もいたもんだ。 「発狂しちまった?」 『そんなヒマもねえほどよ。こっちが聞く事全部に素直に答えてくれちゃってよ、張り合いもねえ』 はんっ――遠野は鼻で笑った。 『志村良人(しむら よしひと)、39歳。IT系の会社で勤務してんだと。コウ。IT系って何だ? 系って言ってくくっちまえば何でもかんでもカッコイイとか世の中は考えてんのか?』 「知るか」 軽くあしらう。 「梨香さんにはいつから付きまとってるって?」 『去年からだと。風俗店で彼女に世話してもらって、のめり込んじまったんだな。結婚もしてねえし、女の経験も少ねえ。仕事上での接客だったとはいえ、志村にとっちゃそれ以上のもんになったって事だ』 「っへ〜ぇ」 『梨香ってコが前にいた店の店主からも聞いたんだが、毎日のように通っちゃ指名してたんだとよ。イチズなオモイってヤツだ』 「茶化すなって」 ははっ!――遠野の笑い声が不自然に途切れた。 「……あれ?」 もしもし?――受話口からは何の返答もない。 はたと気付いた麻生は口いっぱいに苦虫を頬張った顔で小銭を取り出した。 『――長らく公衆電話を使ってねえと、どのタイミングで切れんのか忘れちまうよなあ』 電話に出るなり、遠野は爆笑した。 「今度は平気だ。30円入れたし」 『それなら安心だ。どうせなら気前良く、100円入れちまえよ』 「釣りって出るっけ?」 『出ねえよ』 「じゃ、まっぴらだ」 『100円ぐれえでガタつくなよ、コウ』 「根っからの貧乏性なんだよ」 はははは!――遠野なら世の中の何事も笑い飛ばせるような気がする。 「志村、これからどうなんの?」 『ん? ま、今回は不法侵入と傷害だな――コウ。1つだけ、おまえの話と食い違ってる部分があるんだけどよ』 遠野の口調が一変、低く神妙さを帯びる。 「食い違ってる?」 『ああ。志村はな、梨香ってコを刺してねえって言ってる』 「はあ?」 『そのコが刺された時間、志村は会社にいたんだ。裏も取れてる。残業してたんだよ』 梨香を刺した人間が志村だと疑いもしなかった。その志村にはアリバイがある。となると、では……梨香を刺した人間は?
「――うわあああああああああああああ!!」
突然廊下を突き抜けた悲鳴に、危うく受話器を落としそうになった。 『どうした?』 「いや、なんか、悲鳴が」 『悲鳴?』 麻生の脳裏に一瞬だけ井延の顔が浮かんで消えた。今の悲鳴は、被害を受けた時に発する種のそれではなかった。むしろ、何か衝撃的なものを目の当たりにしてしまったような。 ――ばんっ! どよめき始めた廊下に、トイレから飛び出した人影。転がるように現れたのは幸輔だった。 「い、医者! この中に医者! 医者はいませんか!?」 「病院だぞ、ここ」 よっぽどパニックに陥っているらしい、地べたにへたり込み声を張る彼は一心不乱。その瞳が麻生を捉えた。すがるように幸輔が叫ぶ。 「お医者ちゃん!」 「誰だそれ」 「いっ、いっ、いっ!」 引き攣った表情は、決してふざけているとは思えない。ざわり…麻生の胸でヤな感触がうごめいた。 「いっ!――井延っさんがっ……!」 トイレを指した幸輔の右手は震え、紅く濡れていた。 『コウ? 何があった?』 手にしていた受話器を、フックに叩き付けた。
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