入院患者たちが起臥を共にする病棟の1Fには売店がある。ガラス罵詈で囲われた商品棚のレイアウトをのんびりと歩く幸輔は、各種取り揃えられた商品の豊富さに、しきりに感心していた。 ――うわっ。 うっかり女物の下着の並ぶ棚に挟まれてしまい、うろたえる。足早に棚を抜け、雑誌コーナーに逃げる。下着類は別で扱えよ――突然の出来事で手放してしまった平静を、適当に手に取った雑誌をめくる事で掻き集めようと試みた。 女物のファッション誌だった。 ――おいっ。 狼狽するにも限度ってもんがあるだろっ――自分自身に突っ込んで、改めて雑誌を選んだ。 にしても。 7割方落ち着きを取り戻したところで、再度店内を見回す。ショッピングストアほどではないにしろ、スーパーに比べてもまだ狭いのだが、それにしても売店と呼ぶには広い空間を抱え込んでいた。飲食物、雑誌、衣類、生活用品……ポータブルゲームまでも置いてあるのだから驚く。ともすれば退屈でしかない入院生活、せめて楽しく時間を費やせるようにとの配慮なのだろうが……何とも。 店に入った時、レジカウンターに貼られた『現像承ります』のポップな文字を見て、激しく突っ込みたいのを必死に抑えたほどである。 ――コンコンッ。 適当に選んだファッション誌を思いの外熱心に読んでいた幸輔は顔を上げた。ガラスを挟んだ向こうに、忍足がいた。軽く驚いても会釈は忘れない。細く綺麗な指先で、ちょいちょいと手招く忍足に従ってロビーに出た。 「彼女、明日には退院できるわ」 開口一番、忍足が言った。彼女という代名詞が梨香を指しているのだとすぐに思い至り、幸輔は顔を輝かせる。 「本当ですかっ?」 トーンを調節できずに大声を響かせるほど。通りすがりの看護士に睨まれた。 「病院内は静かにしなさい」 冷淡な忍足に頭を下げる。 「すみません」 「あとは自宅療養で十分よ。もちろん診察には来てもらうけど、普段通りの生活に支障はないでしょう。本人にも言ってあるけど、仕事は完治するまでは出ないように。生活に支障を来さないって言っても、傷が完全に閉じたわけじゃないから」 続けて、梨香の傷がどんなものだったのかを説明してもらったが、幸輔の耳には一片も引っかからなかった。 梨香が退院する――とても喜ばしい事だった。そうなると見張り役としての幸輔のポジションはどうなるか。梨香を刺した犯人はまだその尻尾を出していない。幸輔の見張り役としての任期は、犯人が尻尾を出すまで。 つまりは、見張り続行。 @梨香's HOME。 ――……いやーははは。 「……退院がうれしいのはわかるけど」 忍足が不気味っぽく幸輔を見ていた。 「どうしてデレッとして……」 彼女の言葉が切れ、嘆息が漏れる。 「完治してないんだから、当分セックスは我慢しなさい」 たっぷり3秒、幸輔フリーズ。 「セックスっていうのは、体にかかる負荷を考えると…」 「ちっ違っ!」 「最近の若い脳みそって、9割方セックスよね」 「NO!」 混乱のあまり英語。 「責めてるわけじゃないわ。ただ、彼女を怪我人として労わってあげて、って言ってるの」 「誤解です、先生!」 「何が」 「なんつーか、いろいろと!」 先の『彼女』が代名詞ではないのだと気付いて、幸輔は抗弁しようとしたのだが。 「――おいぃぃぃ! 待て! ちょっと待て!」 突如騒然とロビーに響き渡った男声にびっくりして、入り口を振り向いた。 「うるっさいな」 低く呟いた忍足の舌打ち。 入り口の自動ドアにぶつかりながら飛び込んで来たのは、麻生だった。焦燥に駆り立てられた彼は、目の前を悠然と歩く男に追い付くとその腕をつかむ。立ち止まった男は迷惑そうに、苛立った顔を麻生に向けた。スーツに柄シャツ――男の顔に、幸輔は見覚えがあった。 「おめえ、何のつもりだ!?」 「あ?」 「どうして来てんだよ!」 「来ちゃわりいのかよ」 「ったりめーだろ!」 わめく麻生と睨み付ける男。ロビーにいた人間の視線を一気に集める中、男が麻生の手を振り払った。 「梨香に会いに来るぐれえ、いいだろ?」 「それが良くねえんだ!」 衣擦れの音に幸輔は背後を見た――忍足がいない。 「わけわかんねえよ。あ、もしかして手ェだしたか? あ?」 「出すかよ!」 姿を探して――すぐに見付けた。 「隠したってすぐにわかんだぞ?」 「隠してねえし! 隠す事もねえし!」 脇目も触れずに言い合う2人の所へ、忍足は歩み寄っていた。 「悪いけど。病院内で騒ぐのなら早々に出てって」 「あ? 俺は見舞いに来ただけだ。出てくならお前だろ、麻生」 「井延さん、あんたが見舞いに来るにはまだ早ぇっつってんだ」 割って入った忍足を挟んで、双方睨み合う。 「まだ早ぇ? は? 何言ってんのかさっぱりだ」 「それを説明してやっから外出ろ」 「麻生……そこまでして俺に会わせねぇつもりか」 「あんたはまだ外に出ちゃいけねえだろうが」 「手ェ出したんだろ?」 「そういう話じゃねえんだよ!」 「手ェ出したから、俺と梨香を会わせたくねぇんだろ?」 「しつけーぞ!」 「どんな手でオトしたんだ? 俺が死んだとでも言ったか?」 「言うかよ!」 「このゲス野郎!」 「――はい。じゃ、続きは外で、って事で」 と制した忍足の白衣を、男が引っつかむ。幸輔は固唾を飲んだ。 「あんた、しゃしゃり出てんじゃねぇぞ」 彼女に顔を近付け睨み付けた男の首を、忍足の手がつかみ――長い指が頚動脈を確実に圧迫した。 「ぐっ」 男の枯れた呻き声。 「あの、先生……」 うろたえる麻生。 「医者をなめてんじゃねーよ。てめーの息の根止めんのなんて、ワケねーんだぞ? ここは治療が必要な人のための場であって、騒ぎ立てていい場所じゃねーんだ。医者として患者を守る側にいる以上、あんたらみてーな人間を迎え入れるわけにはいかねーんだよ。わかった?」 凄みを利かせた彼女の視線に射抜かれ、壊れたオモチャのように麻生は、こくこくと頷いた。首をつかむ腕を男がタップする。 「見舞うのはいい。患者にとってうれしい事だからよ。ただ、2度も騒いでみろ、次は実力行使で排除する事を、その足りない脳みそに刻み込んどけ」 この先何があってもこの人に歯向かう事だけは避けよう――幸輔は心に誓った。 ――? ふと何かを感じ、彼は周囲を見回した。騒ぎを聞き付けたガードマンが、幸輔の背後から駆け抜ける。成り行きを見守っていた患者、看護士たちの表情に浮かぶ安堵。ロビー内の張り詰めた空気が緩んだ。隅に身を寄せていた老人が拍手する。やがて拍手はまばらに広がり、すぐに渦と化した。 患者、看護士、売店の店員まで――皆一様に拍手を贈る中心で、麻生はバツの悪い顔で、首を解放された男は咳き込んで、忍足は無表情にガードマンに接していた。 彼女の人徳が拍手を生んだのか、単に野次馬のはやし立てなのかは区別ができない。しかしこうして現実に拍手は巻き起こっているし、その反面、この状況をつまらなそうに見つめる数人の医師たちもいた。 これが、忍足自身を取り巻く縮図だと感じた。 先程感じた粘着質の気配は、消えていた。
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