「――なあ、井延さん」 イスに置かれたままのタバコを、勝手に吸っていた井延が顔を上げた。 「どうしてあんたは逃げるハメになったんだ?」 「俺が会長から受け取ったもの、それがほしいんだよ」 「会長?」 ゴミをビニール袋に入れる麻生の手が止まったが、またすぐに動き出す。 「ああ、タケさんか」 「知ってんのかよ?」 仏頂面でゴミを片付ける麻生を驚き見つめる。どこからどう見たって井延と同じ側の人間ではない。学生ほどの年齢の、ただの男だ。ましてや会長はアレであるし、こんな平凡な男との接点などあるはずがない。 「受け取ったって、何を?」 「教えられねーよ。ただでさえ梨香の事で巻き込んでる見てーだし、これ以上首突っ込む事もねーだろ」 言ってから、はたと考えた。 「おい」 「何」 「てめー、梨香に手ェ出してたりしたらブッ殺すかんな」 「人の女に手ェ出すかよ。考えるだけ損だ」 「そりゃそうだ。ゴミもまともに片付けられねぇような男に、梨香が体を許すわけねーし」 笑ってから、ふと思う。 「おい」 「次は何だよ」 「まさか、力づくで梨香を…」 「だあからぁ! そんな事ぁ一切してねーっつってんだろ!」 声を荒げた麻生が袋でテーブルを叩いたせいで、せっかく集めたゴミが宙に舞った。 「……あーあー」 テーブルから足元にかけて落下したゴミをげんなりと見下ろす麻生は、見ていて滑稽だった。 「けどよー、井延さん」 テーブルに屈みゴミを拾い上げる彼を見ているのも飽きた。ゲーム機と並んだリモコンを手に取りテレビを付ける。バラエティ番組だった。 「会長が、どうして井延さんに託したんだ?」 「無難だって感じたんだろ。それに、社長を良く思ってねー人間の1人でもあっからよ。俺に渡せば社長の手には行かねーって事だ」 画面の中では、気ぐるみを着たタレントがプールでジタバタと大袈裟なまでに溺れていた。スタッフの笑い声が聞こえる。麻生の声が重なった。 「でもバレた」 「そう。それで今や逃亡生活よ」 「誰にバラされた?」 「俺」 「は?」 「酒に酔った勢いで」 「……ダメじゃん」 「んな事ぁわかってる」 頭を抱え、井延の顔が苦渋に歪む。 「わかってんだけどよ……秘密ってのは、酔うと誰かに話したくなるだろ?」 「なんねーよ。なるんじゃねーよ」 「トランクス一丁のゴミ拾いが」 「そーゆ事言うんですかあ?」 麻生の語気が一気に弱々しく萎んだ。 「何にせよ、そん時いた誰かがチクったんだ」 ふぅん――麻生の鼻が鳴る。息を吸う、空気のこすれる音がした。 「最初から渡しちまっとけば、すべては丸く収まってたんじゃねーの?」 「おめーなあ……」 抱えた頭を上げると、あれだけ散らかっていたゴミがキレイになくなっている。 「梨香さんとこから離れる必要だってなかったんじゃねーの?」 ゴミでパンパンに膨らんだ袋の口をキュッと縛る麻生。 「……片すの早ぇな」 「本気出せば早ぇのよ」 「最初っから本気出しとけよ」 それには応えず、麻生の放り投げた袋は綺麗な弧を描いてゴミ箱へ吸い込まれた。 「今からでも、返しに行けば解決するだろ」 「簡単に言ってくれてんじゃねーよ」 井延の口調が荒くなる。 「じゃあ、いつまで逃げてんだ?」 睨みを利かせた視線を受けても動じなかった。 「明日か? 1年後か?」 「社長に渡すわけにはいかねぇんだ」 「だったら俺に預けろ」 何言ってんだ? 「は〜あ?」 素っ頓狂にも程がある。身の程もわかっちゃいない。酔狂にしたって笑い飛ばせもしないし、ジョークにしては悪趣味だ。 「絶対、悪いようにしない」 麻生の目は真剣だった。 生じた沈黙に割り込むタレントの悲鳴とスタッフの笑い声。 会長を愛称で呼ぶ男。 麻生浩介。 考えがあるのかバカなのか。 井延を真っ向から見据える彼の目は。 「……くっ」 どうして吹き出したのか、井延自身にもわからない。 「わかってねーな」 どうしておかしさが胸から湧くのか。 「これ以上首を突っ込むな」 「それがさぁ、もう十分突っ込んでんだよな〜」 腕組みした麻生が困り果てたように首を振る。何を言っているのかさっぱりだったが、決定的な事実を突き付けてやれば大人しくなるだろう。 「麻生。それでもお前に預ける事はできねぇよ」 「何で」 「俺の手元にそいつがねぇんだよ」 両腕を大きく広げて示してやる。 「俺が捕まった時のために、コインランドリーに放っちまったよ。誰のもんだか知らねぇヤツの洗濯物の中にだ」 予想通り、予定通り――麻生の目と口が丸くなった。 「……………………あいたー」 失望の念に手の平で額を叩いた彼の反応を、満足のにじんだ笑みで眺めた――のも束の間。 「わかった。井延さん――ぜっっってー捕まるんじゃねーぞ」 「……?」 決意を瞳に宿した麻生を前にして、満足は怪訝に取って代わった。 「――そのカギなら友人が持ってる」 カギだなんて一言も言っていない――怪訝は驚愕に至った。
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