葉崎駅の北口には飲み屋が密集する。北口がこうも偏った発展をしたのは、葉崎駅を最寄りとする大学が4つもあるためだった。並んだ店の灯す明かりがあふれる午後8時――今日は金曜日。サークルで、個人の付き合いで、酒を交わし1軒目を消化した赤ら顔の学生たちが2軒目を探し、あるいは早々に帰路に着き、あるいは道端にうずくまる光景。四方八方から鼓膜を打つ騒ぎ声。 酔っ払い天国と化した大通りを、駅の反対方向へ歩けばすぐにそれは佇む。 ホテル葉崎。 居酒屋がまだ軒を並べる以前から街を見下ろす11階建ての建物は、今や居酒屋の中に埋もれ、湧き立つアルコール臭に息苦しそうにも見えた。ガラス張りで大通りに接する自動ドアをくぐると、赤絨毯にシャンデリアのロビー。右手奥の受付カウンターにはショートヘアの女が折り目正しく頭を下げる。 「いらっしゃいませ」 好印象待合なしの営業スマイルを浮かべる、彼女の前を横切った先のエレベーターで9階まで昇る。揺れを感じさせないボックスで待つ事数秒、緩やかに停止し左右に開くドア。その向こうには、ロビーとおそろいの赤絨毯が直進する。天井に埋め込まれた電球がやわらかい乳白色で照らし出す壁に、木目の綺麗に浮き上がるドアが等間隔に並ぶ様はまるで絵画を思わせるほど、潔癖なまでに完璧だった。どの部屋にもアンティークの調度品が用意され、シャンデリアのあるリビングと、ランタンをイメージしたライトスタンドのある寝室といったレイアウト。夜になれば淡いライティングで、ワインのグラスを傾ければ彼女もウットリ。海を一望できるベランダもあります。街の光を足元に、2人で夜の海を眺めてみてはいかがでしょう。目を凝らす事なく、夜闇に煌めく橋が遠くに見えます。曇天時には見えない事もあり。葉崎駅から歩いて10分。1泊2食付、1万6千円から。 ――さて。 『905』と刻まれた金のプレートを叩く。 が、いくら待てどもドアが開く様子はない。もう一度ノックしても、やはり誰かが出る気配もない。 外出しているのか?――怪訝に思いながらドアノブに手をかけた。 何の抵抗もなくドアは開いた。 不用心極まりない。これでは誰が入って来るか知れたもんじゃ……頭をよぎった最悪の結果にはっとしたが、すぐに消えた。室内に入ってすぐのバスルームからシャワーの音がする。なるほど、これではノックに出る事はできない。ノックが聞こえたのかも怪しいところだ。 ってゆーか、カギ開けたまんまでシャワー浴びんな。 驚かせてやろうと思い、音を立てぬよう鍵を閉め、忍び足で奥に入る。リビングに抜けると呆然と立ち尽くした。まず目に飛び込んだのは、コンビニのビニール袋や空のカップラーメンやオニギリの袋の散乱した木製のテーブルだった。銀の燭台は本来の位置であるテーブルの真ん中から、足元に移動している。暗く室内を反射するテレビにはゲーム機がつながれ、コントローラーの伸びる安楽イスの周りにはゲームソフトのケースたちがひしめいた。アンティークである事が誇りのソファに至っては、Tシャツやらトランクスやらジーンズやらが乱雑に…… ……トランクス? ――がちゃ。背後でドアの開く音。頭の中を整理できぬままに振り返った。 「あー、スッキリした」 下半身を巻くバスタオル意外何もまとっていない男が、濡れた頭をタオルで拭きながら現れた。細身ではあるが鍛えていると推測できる筋肉。考えるより先に身構えた。 「だっ誰だ!?」 がっしがっしと髪をめちゃくちゃに拭いていた手が止まる。バスタオルを少しずらした男は、覗いた右目でこちらを窺った。 「……ああ、あなたがコースケさん?」 何もかもを面倒臭く感じているような口調だった。それよりも、名前を知っているという事実に戸惑った。 「てめぇ何モンだ!」 怒鳴る。男は大した反応も示す事なく、ゆっくりとタオルを外した。どこからでもかかって来いと身構えたのだが、半乾きの茶髪の男は空咳をひとつして、短く答えた。 「俺もコースケなんだわ」 「……意味わかんねーし――」 麻生浩介と名乗ったその男は、一通りの説明をした後、おもむろに尋ねた。 「タバコある?」 「切らしてる」 「たしか買ったよーな気が」 頭にタオルをかぶったまま、無造作に散らかったコンビニ袋を漁り始めた麻生を、所在無く眺める。 「おっ。あったあった」 袋から未開封のタバコを取り出し早速くわえた彼は、次いできょろきょろと辺りを見回した。 「ほらよ」 「お、あんがと」 放り投げたジッポで火を付け、深く深く息を吸う。実にうまそうに紫煙を吐く男だと思った。 「……で、今の話は本当なのか? 梨香が刺されたって」 「井延さんに対して、そんな縁起でもねーウソつくと思う?」 語調は真剣でも身に着けているのはバスタオル1枚。 信じるに値するのか、本気で迷った。 「こんなナリだから信じらんねー?」 心を見透かすように言ってから、どうしてか苦虫を噛み潰す。よくわからない男だ。 「……梨香が刺されたなんて」 鼓動が増して胸が苦しい。眩暈もする。ソファに重なる服の上から腰を下ろした。 「何か冷たい物、ってもこれしかねーか」 テレビのとなりで壁に寄り添う小型の冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、麻生はそれを放り投げた。 「ありがとう」 「飲めば少しは落ち着くだろ?」 受け取ったミネラルウォーターはしっかり冷えていて、喉を程よく刺激して食道を流れる感覚が気持ちいい。汗ばんだ体と乱れる思考を落ち着かせるのには最適だった。 「話は、わかった」 ペットボトルの半分近くを喉に流し込み、麻生を見つめる。窓の向こうを眺める彼はビールの缶を口にしていた。 「何者にか知らねーが、梨香は刺されて大東病院にいる。だが、その刺した野郎は組のモンじゃねぇ」 「組長の話だとな」 「そいでもって、病院にいる梨香を守ってくれてるって事だな、あんたが」 「そういう事」 「あの野郎じゃねーとしたら……」 梨香を刺したのは。 「……誰だ?」 「ああ、それなら問題ない。もう捕まえた」 至極あっさりと応えてくれた。おかげで疑問も不安も払拭。代わりに、何とも無駄な事を呟いたという疲労感を覚えた。 「……それ以前に、どうしておまえはここにいんだ?」 根本的な質問を口にする。 この部屋は梨香の身の安全を確保するために用意したものだ。梨香が病院にいる事は信じられても、麻生という男がここにいる現状が理解できない。テーブルのビニール袋を見る限り、今日や昨日からいる様子とも思えない。それ以前に、タバコを見付けられなくなるほどにビニール袋を放置するな。 「あんたが姿を消して、今日でちょうど1週間。梨香さんに会いに来る頃かと思って、2日間ほど張ってたってだけ」 窓際から安楽イスに移動した麻生は、散らかったケースを足でどかしながら、イスを井延と向かい合わせた。 「もしも生きていれば、必ず恋人の所へ来ると思ってたんで」 「もしも来なかったら、そん時はどうしたんだ?」 「組長のとこに直接乗り込む」 イスに座り、事も無げに言いのけた彼を一笑に付す。 「バカか? 半殺しにされるだけだ」 「もう殺されかけてるし」 「はあ?」 見たところ、麻生の体には傷一つ見当たらない。 「虚勢張りやがる前にゴミ片せよ」 「……明日、片そうと思ってたんだ」 目が泳いでいる。 「はっ」 失笑してやった。 「――なあ、井延さん」 「話逸らすな」 「わあかったよ! 今片すよ! 今すぐ片付けますー!」 いきり立った麻生が立ち上がった拍子に、バスタオルがはらりと。 「あ」 「……とっとと履きやがれ」 手近にあったトランクスを、慌てて前を隠した麻生に放ってやる。 「きったねーモン見せやがって」 「うるせーよ」 かくして、トランクス一丁でテーブルのゴミを片付ける麻生の姿があった。
|
|