腕時計を見ると午後4時まであと5分ほど。晴れやかだった空はにわかに曇り始めていた。もしかしたら、ひと雨来るのかもしれない。そうなってしまえば帰りが困る。びしょ濡れになってしまえばいっそ気も楽なのだが、中途半端に濡れてしまうのは避けたい。濡れ過ぎず、乾き切らずが一番厄介だ。 そんな事を考えながら尋絵はマンションに入った。郵便ポストの前で腕組みする男がいた。 「こんにちは」 渋い顔でポストを睨み付けているのは、頭がすっかり寂しくなった中年の管理人だった。梨香の部屋へ遊びに来る際、何度か声を交わした事がある。 「ん? あ、こんにちは」 「どうしたんですか?」 「これ見てよ」 管理人が顎で示したのは、郵便ポストの壁――ピンクの『FUCK YOU』。 「誰が何のためにしたんだが、困りもんだよねぇ」 「イタズラですかね」 「じゃなかったら、こんな事しないだろう。横文字って、そんなにイカしてるのかねぇ」 イカスなんて言葉、久しぶりに耳にした。 「じゃ、失礼します」 早々に話を切り上げて自動ドアを開けようとした尋絵を、管理人が呼び止めた。 「ああ、あんた。井延さんとこの友達だろ? 郵便物来てるよ」 と、今度は指で示す。住民ポストを覗くなんてとんでもねー不届き者だと一瞬思ったが、すぐに思い出した。見れば、ポストの覗き窓から中身が覗いている。 「桜田さんに、お大事にって伝えといてくれないか」 不躾で多少乱暴な物言いではあるものの、一住民である井延も梨香も、顔と名前をしっかり記憶しているし、その身を案じている(彼が救急車を呼んだのだと、あとになってから梨香から聞いた)。できた管理人だと思う。 「はい、伝えておきます」 ポストにはアズキ色の封筒が投函されていた―― ――施錠を解いたドアの向こうは、昨日麻生と来た時と何ら変化はない。当然なのだが。 部屋まで、難なく来てしまった。怪しい人物を見るわけでもなければ鉢合わせになる事もなく、梨香のように襲われる事だって皆無で――難なく、ここまで来れてしまった。 部屋に来たって証拠や手がかりなどないのに。不甲斐ない自分に、少し落ち込んだ。 1秒で立ち直った。 「……よし」 尋絵の手には封筒がある。先の封筒とは異なって、ずいぶんと厚みがある。テーブルと並ぶ2つのクッション――白と黒、白とピンクのそれぞれ縞模様――のうち、梨香のものと思われる白&ピンクの方に座り、テーブルの上で封筒を開いた。 便箋とビデオテープ 『この2人は誰? 特に男の方 こいつに言い寄られて迷惑してない?』 気色悪さを堪えて開いたアズキ色には、その3行しか書かれていない。 この2人という文字。そしてビデオ。 日にちも考慮して、昨日の麻生と尋絵の事だと容易に想像できる。ビデオは大方、マンションを出入りした2人の映像だろう。 何が、ぼくの愛するエリカ、だ。さも恋人のように想いを綴り文字を連ねた文面は、思い出すだけでも鳥肌が立つ。時にそういった誇大妄想へ発展し、自らが客として接客された事を忘れ、ストーカーになる客がいるという事を、話だけなら耳にした事があった。中には、思い詰めたストーカーに殺害された者さえいる。 殺害――嫌な響きだ。一方的で、理不尽で、妄想。それだけで殺されるなど――梨香が殺される事など、あってはいけない。そうなってしまう前に止めなくてはならなかった。 ビデオデッキを借りる事にして、気は進まないが、確認の意味でテープをセットした。テレビを付けて――再生。画面はすぐに明るくなった。 「……え?」 カーテン。尋絵。 カーテン越しに尋絵が背後を振り向く。 次いで、麻生。 「これって……」 呆然と尋絵は呟いた。瞬きを忘れた。口を閉ざすのも忘れた。思考すら停止した。 音声のない画面の中で、麻生と尋絵は驚いていた。 画面を越えて、こちらを――尋絵を見て驚いていた。 頭が記憶を呼び起こす。弾かれたように立ち上がった彼女は、寝室とリビングを仕切るカーテンを勢い良く引き開いた。ぶちぶちっという繊維の悲鳴。ベッドの上で昨日と変わらぬつぶらな瞳で――招き猫が鎮座する。 テーブルのペン立てから抜き取ったハサミを、福を招く猫の額に倒れ込むようにして躊躇なく突き立てる。ぶちっ――繊維を貫く音。ハサミを投げ捨て、穿たれた穴に指を突っ込む。人差し指しか入らない穴を強引に広げる。中指が入り、綿が飛び出した。ぶぢぶぢっ――左手の指が入るほどに広がった穴をさらに裂く。奥歯を噛み締め、無心に。盛り上がる綿に両手指を押し込んで、生地を左右に引っ張った。渾身の力を込めた。噛み締めた。噛み締めた。噛み締めた。 ぶぢぶぢぶぢっ! 少しでも裂けてしまえば簡単に裂け切れた。真っ白な綿が圧迫から逃れて膨張し、左右の目が別の方向へ向き、招き猫の頭はいびつに開いた。細かい繊維が宙を浮遊。窓を雨が打ち始めた。 小型のカメラが、あった。 息を乱し、肩を上下させ、しばし放心してそれを見つめていたが――むんずとつかみ取るや力任せに、床に投げ付ける。 バキッ!――叩き付けられたカメラはバウンドして転がった。 「……ゲス野郎が」 されるがままの機械に吐き棄て―― ――ぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちっ! 背後で弾けた音でとっさに振り向いた視界一面を布が覆った。のみならず押し倒される。 「ちょっ!? 何!?」 わけがわからないまま本能的に手足を振り回す。右足が何かを蹴った。 「うっ!」 うめき声と同時に、ベッドに押し付けていた力が緩まった。腹まで膝を持ち上げ、屈伸の要領で何かを蹴っ飛ばす――たしかな手応え。床に重いものが落ちる鈍い音。体が急に軽くなった。眼間を邪魔する布をつかみ、払う。仕切りとして使われていたカーテンだった。 「い、痛いじゃないか」 ついさっきまでカーテンのあった辺り、リビングと寝室の敷居に小柄なサラリーマンが倒れていた。打ち付けたのか、後頭部をさすり立ち上がる。 「おまえ、誰だよぅ? エリカの何なんだよぅ?」 ――やばい……っ! 直感的に察知する。 ――こいつ、私が生理的に受け付けない人間だ…っ! ベージュのスーツ。ネクタイはずれていた。 「エリカはどこ行ったんだよぅ。おまえが隠したのぅ?」 にじり寄る男に対し、尋絵は膝で後退る。足元に何かを見付けた男は一度屈むと、ハサミを逆手に握って起き上がった。さーっと、尋絵は自分の血の気が引く音を聞いた。 「エリカをどこへやったんだ――よぅ!」 「やあああああ!?」 男の振り上げたハサミがマットに突き刺さる。飛び退らなければ、間違いなく尋絵の膝に刺さっていた。 「どこだ、よぅ!」 尋絵はベッドから床に転がり落ちた。ぶすっという音が不気味に耳を打つ。 「な、な、なっ」 必死になって四つん這いで逃げる進路――リビングへの敷居に男が跳躍した。眼前を阻んだベージュのズボンに心臓が萎縮する。 「きゃあああああ!?」 尋絵の頭は恐怖でいっぱいだった。仰向けに跳ね、踵で床を蹴って体を後退させる。凶器を持った生理的に受け付けない男が殺意を向けている――混乱するための要素は十二分だった。 「エリカはどこぅ?」 一歩、一歩。恐怖心を煽るようにゆっくりと歩み寄る。 「来ないで来ないで来ないでぇぇぇ!」 後退に限界が訪れた。壁際に追い詰められた尋絵が乱暴に喉を鳴らせる悲鳴。 ぴたりと。男の足が止まった。 男との距離は1メートル強。 「……うるさいなぁ」 ハサミを振り上げる。 「いや、いや、いや」 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を必死に振る。 「やめてやめてやめてやめて」 「エリカを出せよぅ」 振り上げた腕に力が込められた。 「――――――――いやあああああああああああああああ!!」 壁に背中を押し付け両腕で頭をかばい声帯を奮わせた絶叫が、
――ガシャァァァァァァァァァァァンッ!!
突如つんざいたガラスの破裂音に掻き消された。 「うわあ!?」 弱々しくうろたえる男の声にまぶたが開く。後ろに下がった男と尋絵のちょうど間――サッシ窓が粉砕され、破片が室内に散っていた。ベランダからベッドにかけて、土が軌跡を描くように直線状に散っている。ベッドに見付けた植木鉢が、残っていた土を零しながら向こう側に転がり落ちた。 がしゃんっ。 割れたらしい。 ベランダから伸びた手がカギを開け、枠だけとなったサッシ窓をカラカラとスライドさせる。 吹き込む大粒の雨と一緒に、ずぶ濡れた麻生が床を踏み締めた。 「あ…あ、あ……」 名を呼ぼうにも舌が回らない。 「病院からここまで、全力で走って20分――自己新記録!」 「だだだ誰だよぉぅ!」 「うるせい!」 狼狽か困惑か両方か、飛びかかった男のハサミを簡単によけた麻生の拳が頬にめり込む。軽々吹き飛んだ男は壁に衝突し、泡を吹いて白目を剥いた。 「あ、あそ……」 舌っ足らずな尋絵を振り向いた麻生は、彼女に寄るとしゃがみ込んでその頭を撫でてやった。 「顔洗って来いよ。今のヒロ、ひでー顔してっから」 彼の笑顔で緊張の糸が緩み、抱きつくや声を出して泣きじゃくった。
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