「――んで、気付いたら麻生の部屋だったのよ。あの後どうなったのかさっぱりわからないからって、聞き出そうにも麻生の姿はないし」 「布で口元を押さえて……尋絵、貞操のピンチっ!」 「……あんたが言うと笑えない」 わめく梨香への反応に困った。 「そこらへんは平気よ。特にこれと言って、体はなんともなかったし」 「体――なんとも淫靡な響きだね」 伸脚に移っていた幸輔は無視。 「となると、いよいよアソーくんの行方が気になるな」 「こーちゃんの事だから、ひょっこり戻って来るんじゃない?」 「メモを2枚も残せたくらいだし、心配はしてないんだけど。でも何があったのかは気になるでしょ」 「これ、何?」 「勝手にレディのバッグ覗くんじゃねーよ」 ストレッチを終えるや、おもむろにバッグを開いた幸輔を蹴っ飛ばす(土足)。悲鳴を上げ大仰に倒れた彼の手から、封筒がばらまかれた。 「ああ、これ」 拾い集めながら、ポストを開けた時の光景を思い出す。あの時の尋絵は自分でも驚くほど苛立っていた。神経がささくれ立っていた。機嫌が悪い事を隠そうともせずに、むしろ前面に押し出していた。 麻生の言葉がうれしかった。 「梨香。これ、たまってた郵便物」 「いらない」 それまでの笑顔が失せていた。普段コロコロと笑う梨香の顔は、表情すら失っていた。 「でも」 「いらない」 こんなに強圧的に拒絶する彼女を目の当たりにした事がない。差し出した封筒を見ようともせず、頑なに拒み続ける。天井の角を睨み付け、両手の指を組み合わせ、寡黙になる。 「……いらないって言われてもねぇ」 尋絵の手の中で行き場を失った封筒たちを見下ろす。一見してダイレクトメールの類ではないとわかるそれらは、皆一様にアズキ色の封筒だった。全部で7通あるアズキ色には、切手があったりなかったり。 なかったり? 「へー。切手なくても届くんだ」 復活していた幸輔が横から覗き込んだ。 「郵便局はボランティアじゃねーだろ」 本当は、サービス精神旺盛じゃないと言おうとしたのだが、そんな事はどうでもいい。梨香の異常な拒みよう、無表情、切手がなくとも届く手紙。開けるのももどかしい尋絵は1枚の封筒を力任せに引き裂いた。破壊された隙間から覗いた便箋もアズキ色。6通を幸輔に押し付け、抜いた便箋を開く。裂けた封筒が足元に落ちた。 『ぼくの愛するエリカへ 僕に黙って、いなくなるなんてずるいよ けどエリカは、ぼくの愛を確かめたかったんだよね? ぼくに追い駆けてほしかったんだよね? わかってる。わかってるよ 待たせてごめんね やっと見付けたよ さあ、2人で純潔な愛を育もう』 まだ続く文を無視して、幸輔の手から奪った封筒も同様に裂く。 『あんな店、早く辞めてぼくと結婚しよう』『エリカと1つになりたい』『長身のあの男は誰だい? ぼくとエリカの仲を邪魔するヤツは許せない』『エリカのために花を買ったよ。小さくて、キレイな花』『最近帰って来ないけど、どうしたの? 心配だよ』『プレゼントは気に入ってくれた? エリカの好きな』 ――ぐしゃっ! 「……何なのよ、これ」 便箋を両手で握り潰した尋絵は、背筋にいる寒気を振り払おうと、禍々しい何かを発する源を、気持ち悪いその何かを、床に投げ付けた。 「……いつからなの?」 「去年の夏くらい。前の店の客。しつこいから店も家も変えたの」 口にするのもおぞましいとばかりに、梨香の言葉は味気ない。 「信じらんない。店も家も変えたのに」 衣擦れ。自分を抱きしめた彼女の体は小さく震えた。 「何なのよあいつ。気持ち悪いっ。ただの客じゃない。客だったじゃない。接客しただけだったじゃない。なのにどうしてこんな事するの。こんな事までしてどうしたいの。どこまで私を追い詰めたいのよ苦しめたいのよ、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い」 頭を抱え唇をわななかせる梨香を、尋絵は抱き寄せた。揺れる体、蒼褪めた相貌。抱きしめた頭に顎を乗せ、優しく囁きかける。 「大丈夫。怖がらないで大丈夫。梨香には私がいるから。アソーだって、幸輔だって、カレシだっているでしょ」 「コースケはいないのぉ。私のそばにいないのぉ。どこ行っちゃったのよコースケぇぇ。会いたいよ、そばにいてよぉ」 呪詛は嗚咽に変わった。 こうなってしまっては成す術はない。梨香からあふれる感情とその身をきつく抱きしめる。彼女が壊れてしまわないように。彼女が崩れてしまわないように。笑顔が決壊し、ただただ流れる涙に頬を濡らしむせび泣く梨香を、強く強く、抱きしめ続けた。 「――――ちょっと行って来る」 泣いて泣いて、泣いて泣いて。泣き疲れて寝てしまった梨香を横たわらせた尋絵は、心配そうに彼女を見守る幸輔に言った。 「どこに?」 「もう1回、梨香のマンションに」 寝顔だけを見れば、安らかなものだ。しかしその実、内面は疲弊している。すり減っている。どうしようもないほど、どうしようもないくらいに。ゴミ箱にねじり込んだアズキ色を一瞥する。こんな事態になっていると知っていれば、梨香に見せなかっただろうに――後悔したって、その先には何もない。だからこそ。 幸輔は何か言いたそうではあったが、何も言って来ない。 だから先に、尋絵が言った 「幸輔。梨香のそばにいてあげて」 「危ないよ。もしも、この手紙のヤツが来てたら、尋絵さんが……」 「その間、誰が梨香のそばにいるのよ」 ぴしゃりと言い放つ。 「だったら、尋絵さんがそばにいればいい。マンションには俺が行く」 尋絵の視線を、毅然と幸輔は見返した。 「どこだか知ってる?」 「……え?」 「梨香んち、どこだか知ってんの?」 「…………」 幸輔の視線があさってに飛んだ。 「梨香のそばにいてあげて」 「…………はい」 不服そうではあったが、今度は素直に頷いてくれた。 「手ェ出したらしばくからね」 「そんな事するかい」 「うそ。信じてる」 まるで弟のような彼にふざけて笑って、部屋を出た。 「あ、そうそう。好きになるなよ――っと、これは遅いか」 振り向きざまに言い添えた言葉に幸輔が固まった。おもしろいくらいわかりやすい。からかい甲斐があるってもんだ。 「梨香には内緒にしといてやるよ」 笑ってドアを閉める。その足を踏み出した時、尋絵の顔は一片の笑みも消えていた。
|
|