尋絵は寝起きがいい。睡眠を漂っていた意識が浮上し、枕とタオルケットの感触の中で寝返りを打つ。腕に触れたタオルケットは短く毛羽立っていて、少しくすぐったい。最近買ったばかりだというのにもう毛羽立ちやがって――そんなはずない。そんなにすぐ、毛羽立つわけがない。 ぱちりと目を開いて、そこが尋絵の部屋ではない事に気付いた。もうちょっと寝てしまえ、と囁く睡魔を無視して上体を起こす。寝室の窓際に寄り添ったシングルベッド。カーテンの開かれた窓からは眩しい陽光と微風が入った。窓と対面する本棚には文庫本が数冊と、あとは雑貨だけ。そのせいで棚のスペースはスカスカだった。床に視線を落とせば、雑貨が転がったまま放置されていた。枕元に置かれたメガネケースを見つけて思い出す。 そういえば、コンタクトだったっけ。 「――――ふあっ」 とりあえず、腕を振り上げて背伸びとあくび。 ベッドから下りて、居間に出た。 「アソー?」 部屋の主はいない様子。どこかへ外出したのだろうか――すぐに戻って来るだろうと踏んだ。 キッチンに入ると冷蔵庫を開けて、ろくな物が詰まっていない中身を見回してからミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。本当は牛乳が飲みたかったのだが、麻生は苦手だと言っていた。舌の上に残る感触が嫌なのだそうだ。 多少、錆が見受けられるシンクの横に置かれた食器入れのカゴから適当にグラスを選んで、ミネラルウォーターを注いだ。ペットボトルを冷蔵庫に戻し、ドアを足で閉め、ソファに足を運んだところで気が付いた。テーブルに置かれたメモと、背もたれにかけられたタオルケット――昨夜はどうやら、ソファで寝たらしい。さぞかし寝にくかったろうに。 「今さら、何を気遣ってんだか」 ソファに座って、テーブルのメモを手にする。メモに隠れるように、カギがあった。 『カギ、持っといて』 味気なく走る筆跡は麻生のものだ。 ポストに入れるでも、本人に返すでもなく――持っといて。 何のつもりでどこへ行ったのか知らないが、少しだけ不安に胸が揺れる。すぐに彼のケータイにかけたが、『電波の届かない所』云々のアナウンスにしかつながらない。 なーに、すぐに帰って来る。 自分にそう、言い聞かせた。 ここにいてもヒマな時間を食い尽くすだけだ。今日は仕事もない。梨香の所へ行く前に自宅に帰って、シャワーでも浴びよう。カギは、麻生が帰ってきたら投げ付けてやればいい。帰って来たら――――帰って来れば。 カギをつかんで出た玄関で、梨香のバッグとご対面した。その上にメモが1枚。 『よろしこ』
「――――そんで、バッグ引きずりながら家行って、ここに来たわけよ」 「都合良く荷物を押し付けられたんだね」 「出かけるついでに持ってってもいいじゃない? アソーに文句言ったろ」 「それから、アソーくんから連絡は?」 大東病院の個室。下着を換えた梨香は、浴衣に腕を通しながら尋ねた。その腹部を覆う包帯が痛々しい。尋絵は首を振る。 「まったくなし。どこ行ってんだかもわかりゃしねーし」 シーツに引っ付いていた赤銅の髪の毛を叩き落したところで、不満が解消できるわけもなく。 「どこ行ったんだろね、アソーくん」 「幸輔ー。入っていいよー」 梨香の着替えが終わるのを見計らって、ドアの向こうに声をかけた。わずかに開いたドアの隙間から、おずおずと幸輔の顔が覗く。 「幸輔ってさ、バイトは平気なの?」 尋絵はささやかな疑問を投げかけた。昨日から梨香の見張り役に着任したのは良しとして、就任期間が定められていない。いつまでここにいるのか定かではないが、幸輔にも人並みのスケジュールといったものがあるはずだ。その代表例が、コンビニのアルバイト。と言うか、それ以外を知らない。 「うん、問題ないよ。知り合いが経営してるから、融通利くんだ」 ドアの外でしゃがんでいたのか、幸輔は屈伸を始めた。 「知り合い?」 「友達の親」 『あ〜』 尋絵と梨香、2人そろって納得。 「そりゃ多少の融通利くわけだ」 「シフト気にしなくても平気だね」 異口同音に頷く。 「今日ってコーちゃんは来ねーの?」 「音信不通で行方不明なのよ」 尋絵が見舞いに来るなり幸輔を追い出したものだから、彼はその事を聞いていない。同じ事を説明するのはひどく億劫ではあったが、仕方ない、説明してあげよう――
――梨香のマンションの前で遭遇した不審な人物を麻生が追い駆けて間もなく、その場に取り残された尋絵の前に黒いライトバンが現れた。 「やあ、こんにちは」 目の前で横に開いたドアから、アッシュヘアにしろスーツの男がその身を出した。 「ちょっとだけ、お話してもいい?」 「怪しい人にはついてっちゃいけないんで」 「大丈夫。俺は怪しくないから」 尋絵の腕を取るなり強引に引っ張る力は強かった。 「大きな声出さないでね。平和主義者だから、何事も穏便に進めたいんだ」 喉元まで出かかった悲鳴をとっさに飲み込む。平和主義者の手には拳銃が握られていた。 「……誰?」 「車に乗ってくれたら、教えたげる」 乗るか死ぬか――ずいぶんとまぁ、一方的な二者択一だ。 「さ、乗って」 結局腕を引っ張られ、つんのめるようにして車へ引き込まれた。 「ちょっ……!」 「ちょっと失礼するよ」 抗議の声を上げた彼女の口を布のようなものが覆う。脳が頭の中で浮く錯覚と脱力感。 「ケータイだけ借りるね」 意識の輪郭がぼやけ朦朧とする聴覚はその言葉だけを捉えて、五感は切断された――
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