「ん〜」 ヒゲの跡もない顎を撫で、天井を仰いだ彼のとぼけようが気に食わなかった。 「そっか。それで彼女の姿がなかったのか。ふ〜ん、刺されてたのか」 独り言を呟き始める始末。なめきった挙動は麻生の神経を逆撫でた。 「とぼけてんじゃ……!」 踏み出したその肩が強く引かれた。振り向いた頬に鈍痛が破裂――吹き飛んだ麻生の背中が派手に地面に擦れた。 「ってっ!」 視界で星が瞬いた。遅れて口腔に鉄臭さが充満し、殴られた頬を激痛が圧迫する。 「失礼します」 かろうじて聞き取れた声に続いて、あばらに重圧がかかった。 「てめっ!」 逃げようと暴れても遅かった。体に乗っかり麻生の両腕を膝で、腹を尻でしっかりと固定した巨体は、弾き飛ばすには重すぎた。それでも抗いながら細木の顔を睨み付けた顎を、彼の大きな手がつかんだ。潰されるのではと思うほどに強い握力で。 「麻生くん」 組み敷かれた麻生の頭上で、耳障りな声がする。いつのまに歩み寄っていたのか、麻生の頭を左右から挟むように立ち止まった勅使河原の表情は、照明の逆光で影になっていた。 「突っ走る前に良く考えてみなよ。彼女を刺すくらいなら、部屋に乗り込んで直に聞き出す方が早いし利口だと思わない?」 尋絵を奪われ頭に血が上っていたせいもある。単純に、生理的に受け付けない人間を目の前にして苛付いていたせいもある。答えを急くあまり、失念していた。 歯噛みする。 「そんな頭の悪い事、俺がするわけない」 「……てっしー」 「何?」 「井延って男、何したんだ?」 「教えてあげられない」 そう言われるだろうと予想はしていた。 「――――と思ったけど、場合によってだね」 「……は?」 予想外な方向に血路が開く。しかし相手は勅使河原、開いた道を容易に渡らせてくれるとは思えない。 「麻生くんの友達、たしか大東病院に入院してるんだよね」 過去の麻生自身の言動を心から悔やんだ。こんな事になるのなら、化粧室で迂闊に話すのではなかった。 「一方的に刺されちゃった友達の見舞いに、来てたんだよね」 「もって回った言い方してねーで、ストレートに言いやがれ」 「友達に井延の居場所を聞いてくれない?」 「ヤだ」 「細木」 顎をつかむ手に力が込められた。ギリギリと骨が軋み頬に歯が食い込む。全身の筋肉が収縮し、激痛の悲鳴が麻生の喉を灼いた。 「――――っ!!」 「はい、止め」 勅使河原に呼応し顎を締めていた力が緩む。 「できれば、麻生くんとは仲良くしたいんだ」 骨にこびり付く痛覚に眉間を寄せ、気息奄々と抗議する。 「これが仲良くしようっつー態度かよ……」 「嫌われたくないんだよ。もしも麻生くんの友達が姿を消したりしたら、きっと心を痛めるでしょう? そんな麻生くんを見たくないんだ。これは、その気持ちを伝える手段」 「強引な男は嫌われっぞ」 「結果良ければすべて良し」 勅使河原が唄うように、ジャケットの内ポケットから何かをつまんだ。麻生の視界には逆光で影としか認識できないそれを、 「動かないでね」 麻生に向け垂直に落とした―― ――スタンッ! 「…………」 鳥肌が総毛立つ間もなく、麻生の首筋、すぐ右脇に突き立ったもの――落下する瞬間に見えたものはナイフだった。依然と勅使河原の表情は窺えない。遅れ馳せ、毛穴が一気に開いて冷や汗が吹き出た。プレハブの喘ぎ声が大きくなった。 「麻生くんに嫌われるくらいなら、いっそ殺す方がマシ」 恐ろしい事をさらりと言ってくれる。再びポケットから影を抜き出した。 「……刺したのはおまえんとこの人間じゃねーんだな?」 「違うよ?」 「だったら……誰だ?」 「知らないね」 麻生の独り言に律儀に応え、つまんだら影をぷらぷらと揺らす。 「あっちは、もうすぐ終わるみたいだ」 喘ぎ声とスプリングの軋みが大きく聞こえるプレハブに首をひねった勅使河原の顔を、ライトが照らした。 「こっちもそろそろ終わらせないと――あ」 やっと窺えた微笑が唖然とする。指からすり抜けた影が麻生の左目に一直線に落下し―― ――スタンッ! 「やー、ごめんごめん。落としちゃった」 息を呑んだ麻生の左耳元にナイフが突き立っていた。 「……お、おめーよぉ」 喉からはかすれた声しか出ない。 「安心して。次は平気だから」 三度、ポケットから抜く。 「一体いくつ持ってんだ」 「ナイショ」 つまんだナイフの狙いを定めて。 「さ、麻生くん。協力してくれるの? してくれないの? 言っとくけど、保留はなしね」 「……………………くそ」 先回りされた。 「どうする?」 どうする?――自問した。 ――ヒロの野郎、マヌケにつかまりやがって。 胸中で八つ当たり。 喘ぐ女がうるさかった。 テンポを早くするスプリングがうるさかった。 漏れ始めた男のうめく声もうるさい。 勅使河原が憎らしかった。 細木が邪魔だった。 勅使河原を殴るのに、細木は邪魔だった。 ――ヒロの野郎……あとでぶん殴ってやる。 「――時間切れ」 制するいとまも有らばこそ。 勅使河原の指からナイフが離れた。落ちる事が義務だとでも言うように、ナイフは一直線に。麻生の右目が、その切っ先をたしかに捉えた。憎いまでに尖った先端はそれが権利だとでも主張するように麻生の右目を―――― ――――ズッッ! 「――――っ!」 プレハブの男女が絶頂を迎えた。
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