Lover's Barには、水曜日に会った男しかいなかった。 「やあ、ケリー。早速、週初めに来るったあ、あの女にそれだけご執心ってわけだ」 カウンターの隅の席でグラスを持ち上げる彼を見、ふと思う。 ――こいつ、何者なんだ? ここに集う人間は、主に資産家であるとステファニーは言っていた。男であれば青年実業家であるし、女であれば箱入り娘。月曜日の夕方であると言うのに、この男はここにいる。 「カルラ=クリスティは、まだいないんだな」 男のとなりに座る。すぐに会えるかもしれないと予想していただけに、肩透かしを受けた気分だった。もし、エリヤの知っているカルラだったら――期待に似た緊張は、とうに消えている。 「そう急ぐなって。酒でも飲みながら、気楽に待とうじゃないか。バーチャルだから味も良いもないが、バーでグラスを傾けないってのは、野暮ってもんだ」 「そうだな」 男はカルラ=クリスティの来訪を確信している口振りだった。彼が信頼に足る人間がどうか知れないが、唯一の手がかりに変わりはない。 どうしても――カルラ=クリスティに会わなくてはならない。 「何をお飲みになられますか?」 女バーテンダーが愛想良く微笑。味も良いもない酒なんてないも同じなのだし、何でも良かったのだが。黙考して、エリヤは決めた。 「ジントニックを」 ――パチッ。 不意を突いて男が指を鳴らした。 「……何だよ、いきなり」 「すげーな。知ってたのか?」 何を言っているのかさっぱりわからない。キョトンとする。 「じゃ、単なる偶然か? それにしちゃラッキーだよ、ケリー」 にやけた男はそう言うと、エリヤの前に出されたグラスに自分のグラスを合わせた。 ――チンッ。 「合格だ」 グラスから人差し指だけが離れて、エリヤの背後を指す。 ――何だってんだ。 何気もなく振り向いたエリヤの瞳が、これ以上となく開いた。 暗く、ランタンのような橙色の光をぼんやり反射する髪は青みを帯びた黒。すっと通った鼻筋を二重の双眸が飾り、顎は滑らかに細く、知性的な何かを感じさせる。明るすぎない青のドレスが、その華奢な体をタイトに包んで、グラスを傾ける様はさながら写真のようだった。 「……カルラ」 呆然と零れるエリヤの言。記憶のままに、彼女はそこにいた。 「こんばんは」 微笑を組んだ薄い唇から零細な声音が落ちる。脳が痺れる感覚というのは、かくも心地良い。 十分な間を持って、急かす風でもなく、カルラ=クリスティは再び口を開いた。 「あいさつくらい、するものでしょ?」 指摘されて我に返る。 「こんばんは」 笑顔を返してはみたが、エリヤの頭の中は正直、混乱していた。ジントニックで喉を潤そうとグラスを持ち上げ――どうせバーチャル空間。潤うわけがなかった。 「以前」 グラスを置いて空咳。 「以前に一度、会ってるよね。こうしてまた会えるなんて」 「そうかしら」 顔の高さに持ち上げたグラスを、カルラは見つめながら、 「私、あなたに会った事なんてないわ」 「いや、そんなはずない。会ったよ」 だからこそ、ケリー=コストマンは彼女を探していた。 「会ってないわ。初対面よ」 グラスを揺らす彼女の手の中、氷が涼しげに躍る。 ――はあ? 今すぐケリーに問い詰めたい気分だった。彼女の微笑はウソをついているようには思えない。 ウソ。 「……きっと、忘れているんだよ。何せ一度しか会っていないから」 小首を傾げたカルラは試すように目元を細め、 「奥で話さない? あなたとはゆっくり話してみたいわ」 思わぬお誘いを断る由などない。快諾したエリヤはグラスを持って立ち上がった。 フロアの奥は、突き当たりの壁を左に折れる形で広がっていた。テーブルとソファのセットが4つほどある、エリヤが想像していたものよりも広い空間だった。最も奥に位置したソファに腰を下ろしたカルラは、テーブルを挟んで向かい合うソファに促し、開口一番―― 「――成り済ましはペナルティの対象よ」 柔らかい口調で足を組んだ。 「何の事かな?」 すっとぼけるのはエリヤの得意分野だった。カルラがつなぐ言葉に注意しつつも、頭の中で己が言動を振り返る。 ――どこでバレた? どこかでボロを出さぬように、細心の注意をしたつもりだ。迂闊な発言は抑制したし、何より、外見はケリー=コストマンそのものだ。一度しか会っていない――本人は否定するが――カルラに、中味がエリヤだと判別する術はない……はずだ。 「成り済ましは発覚され次第、成りすまさせた人間にもペナルティは適用されるの、知ってる? あなたが無理やり成り済ましたのであれば、ケリー=コストマンには適用されないんだけど」 「俺の名前、憶えてくれてるんじゃないか」 「あなたの名前ではないでしょう?」 「誤解だよ」 エリヤは躊躇せずに断言した。 「どこで勘違いしたのかわかりませんが、俺はケリー=コストマンの他の誰でもない。そんな話をするためにここに?」 「ええ、そうよ」 「ならば、それは徒労だよ。教えてくれないか? どこで誤解を招いてしまったのか、気になってしょうがない」 「どこで、とかそういった話じゃないの。あなた自身が一番知っているはずよ。あなたがケリー=コストマンじゃないのは事実だもの」 「俺がどんなに否定しても?」 「事実がそうなんだから」 「ケリー=コストマンだと証明する手立ては?」 「あったとしても、証明できる?」 「できるから聞いてるんだけどね」 カルラは小さく頭を振った。 「無理ね」 顔の造形の整った微笑で否定を断言されるのは、いささかダメージが大きい。 彼女はグラスを置くと、人差し指を立てた。 「これは忠告よ。痛い目を見たくないのなら、早々にLover's Barから出て行った方がいい。システム管理者が成り済ましを知れば、事は大きく膨らみかねないわ。ユーザーが資産家たちなだけに、信用が大事なの。わかるかしら? たった一つだけの成り済ましだけで信用はたやすく揺らぐ。話していた人がまったくの別人だなんて知ったら、気味が悪くて出入りしたくないでしょ?」 「……たしかに」 「だから、早々に出て行った方が賢明よ」 「あなたは、管理者側の人間?」 カルラの忠告とやらを流しつつエリヤは尋ねた。細く整えられたカルラの眉が上がる。 「どうして?」 「成り済ましに対して、酷く厳しい印象を受けたもんで。勘違いだったら失礼」 「勘違いよ。会員じゃないのに会員面してる人が嫌いなだけ」 「わかりやすいね」 「非合法な人が混じってると、合法な人たちは安心できないでしょ」 「…………」 自身の中で渦巻いた衝動を何とか緩和させる。目の前で絶えず微笑を湛える女――その容姿、その声音、その居住まい。 「あなたは――」 己が体温の、すっと――下がる感覚。 「――どうしてここにいるんだろう?」 「成り済ましてるあなたでもわかるんじゃない? Lover's Barは様々な人間が集まる場所よ。話し相手には事欠かないわ」 エリヤは、自分が力強くグラスを握っているのに気付いて、テーブルに置いた。 「そういう事じゃない。そういう事を聞いてるんじゃない」 うめくように呟いた彼に、カルラの双眸が胡乱を帯びる。 「何かしら?」 「違うんだよ。Lover's Barにいる理由じゃなくて、もっと根本的な、基本的な事を聞きたい」 「いまいち、言ってる事がわからないわ」 「あなたの名前は?」 カルラの語尾を掻き消すように、早口に問うた。不意を突かれて数回瞬いてから、カルラは失笑まじりに応えた。 「カルラ=クリスティよ。ケリーさんから聞いてるんじゃないの?」 「生まれは?」 矢継ぎ早に質問する。 「いきなり、何?」 微笑は完全に失笑にシフトした。エリヤ自身、カルラの心情はわかる。唐突に威圧的な早口で問われれば、誰だって気分を害するものだ。しかしながら、今のエリヤはそんな事になど構っていられなかった。 「生まれを聞いてるだけだよ」 「…………グリーンクレスト」 失笑も越えてため息と化す。 「いい街で生まれたね。以前、何度か行った事がある。山脈に囲まれていて、空気も景色も綺麗な街だ」 「どうして、そんな事を聞くの?」 カルラの表情は、眉を寄せて警戒すら感じさせた。 エリヤの口調は、自分でも驚くほどに軽快だった。 「あなたがカルラ=クリスティなはずがない」
|
|