石畳の道路とレンガ造りの家々が未だに残っているこの街を、エリヤは決して嫌悪したりはしていなかった。海に面して扇状に展開する港町は、いつだって時間が緩やかに流れ、人々の表情は豊かだ。都市にいるような切迫した仕事人間など、ほとんど見た事がない。街の至る場所で井戸端会議が行なわれ、路上電車の脇では子供たちがボールで遊ぶ。噴水広場には、自称デザイナーたちがアクセサリーを並べ、停車した軽トラックを出店代わりにホットドッグを売り、老夫婦が日向ぼっこに手を掲げ、犬が目を細める。 この街がいつから、シー・ド・ルシールと呼ばれているかなど知った事ではないが―― エリヤは、この街が好きだ。 港を横切り、市場として出店が軒を並べる通りを歩く――何も魚介類だけでなく、野菜や肉、食物だけでなく、雑多な雑貨までも扱う、市場通り――毎週木曜日は、この通りは雑踏でいっぱいになる。週に一度の市場。パワフルな淑女方々が我先にと新鮮な食物を争い、出店の店員がトークを武器に商品を捌く。自然、通りは活気付き、一歩足を踏み入れてしまえば否応なしに人波にもまれる。うんざりしながらも、流れてしまっては仕方ない、幸運にも漂流した八百屋で艶やかなリンゴを手に取ったエリヤは、不意に肩を叩かれた。 「てぃっす」 24時間、常に眠たそうなタレ目は半眼。顎のラインに切りそろえた金髪が潮風にそよいだ。身長はエリヤより少しだけ高め。襟元にファーの付いたコートは実に暖かそうなのだが、マフラーに鼻まで埋める彼はそれでも寒そうだった。 「背中、ガラ空き。そんなんじゃ、俺に殺されちゃうよー?」 キア=カティリヤはそう言うと寒気に身震いした。 「殺気がねぇよ」 手に取ったリンゴを戻す。エリヤは不機嫌っぽく眉をひそめて、キアの痩躯をはたいた。 「だって、寒いじゃない」 「寒いと殺気が消えるのか」 「動きたくなくなるよ」 「変温動物か、お前は」 港を右手に見ながら、2人は人波に乗って突き進み――――たかったのだが、キアの言葉通り、彼の踏み出す足は呆れる以上に遅かった。彼の歩幅に合わせたエリヤはキアとそろって、何度も淑女の体当たりに揺れる事となった。 「キアがこの季節にルシールにいるなんて、ずいぶん珍しいんだな」 「この街、冬の寒さがキツいからねー。動きにくいったら」 「じゃあ、どうしているんだよ?」 「エリヤの顔が見たくなって」 「何だそりゃ」 らしくない発言をエリヤは一笑に付したが、キアはポケットに手を突っ込んでマフラーには顔の半分を埋め、何ら反応を示さなかった。 「エリヤは」 青空を舞うカモメの白い点を見やりながら、キアは篭もった声を出す。 「エリヤは、今何してんの? ルコ姉の所で仕事請け負ってるって聞いたけど。何だっけ……サンバ屋?」 踊れと言うのか。 「…………何でも屋、だろ? てか何だ、サンバ屋って」 「そうそう、何でも屋だ。何でも屋。こんな平和な街なのに、エリヤの力が必要になる仕事なんて入んの?」 言われ、エリヤは苦笑する。 「キアは俺を買い被りすぎなんだよ。今は上流階級の方のために人探し中。これがまた嫌なヤツなんだよ。どうして社会的地位を持った人間ってのは」 「それ、長い?」 キアがすかさず割り込んだ。 「いや」 「仕事内容だけ話して欲しいなー」 「長くないっつってんだろ」 「エリヤの愚痴が長くないだなんて、信じられるわけないじゃない」 さらりと直球。自然と、ハルネとのやり取りが思い出される。 「……そんなに、俺の愚痴って」 「呆れるくらいに長いよ」 2投目。 それ以上の言及は早々に諦める事にして、エリヤはLover's Barの事を話した。本来なら依頼に関する話なんてものは他言無用なのだが、キアは信頼のおける人間である。口止めするまでもなく、その口は堅い。世間話などと決して呼べない話題ではあるが、気兼ねなく話せる相手がいるというのは、ずいぶんと気が楽になる。周囲の人波なんて、ここでエリヤが何を言ったところで、聞いてなんかいないものだ。 「――ふぅん」 相槌も打たず始終ぽぉっとしていたキアは、話を聞き終えるとその鼻をヒクつかせた。さながら小動物のような動作である。 「カルラ=クリスティ――懐かしい名前だね」 2人が並ぶ道はやがて市場通りを抜け、レンガ造りの景観――商店街へとつながる石段を上る。呟いた彼の瞳を盗み見てみたが、それは懐古にふけっているわけではなく、科白は単に言ってみただけの台詞だったらしい。 「んーで」 キアの寝ぼけ眼がエリヤを見据える。 「エリヤはまだ、全景が見えてないんだ?」 恐れ入ったため息を、エリヤは首を振りつつ漏らした。 「見えて来るもんか。まだその女とは会ってもいないんだから」 「会う必要なんてないと思うよ」 市場通りと同様に、こちらもまた活気付いている商店街の喧騒。危うくキアの声は消えそうになる。買い物客を一人でも多く獲得しようと声を張る店番と、それぞれのペースで歩く老若男女。市場通りよりも殺気付いてはいないのだが、やはり商店街。人、人、人――声、声、声。 ふと、自分たちはここに不似合いだと――エリヤは感じた。 「会って、話してみなきゃわからんだろ」 あまりにも自信を持って否定され、エリヤの眉間にわずかながらシワが寄る。 「エリヤは知らないだけ。同姓同名の人間なんて、そうそういないもんだよ。いたとしても、それは同世代じゃない」 断言するキアの語調が引っかかった。 「Lover's Barのカルラ=クリスティが、カルラ本人だって物言いだな」 「んー」 肯定もしなければ否定もせず、曖昧に肩をすくめて、 「彼女が今、どこで何してるか知ってる?」 突然何を言い出すのかとキョトンとしながらも、エリヤは首を振った。 「いや、知らない」 「あそっか。だからハルネにお願いしたんだもんねー」 エリヤが続けようとした言葉を先に取られた。 「だったら、すぐにわかるよ。ハルネの仕事って、いつだって確実で早いし。敵に回したら厄介な相手だよ」 同感。 「そういや、キアはハルネとやり合った事があるんだっけか」 「一度だけ」 「どうだったよ?」 「勝ち目なんかなかったよ。思い切りと殺るつもりで飛び込んだのに、前髪しか切れなかったんだから」 「キアは?」 「肋骨3本と左腕を折られた。割に合わない仕事だったなー。それ以来、ハルネに関係する仕事は断わってるくらいだよ」 何にせよ、とキアは足を止めた。つられてエリヤも歩を止める。 「カルラの件はすぐにわかるよ。報酬、たんまりもらえるといいね」 じゃ♪――エリヤが言葉を発する間もなく、寝ぼけ眼の殺し屋は雑踏に紛れた。
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