喫茶店『Anny』の営業は、午前7時から午前10時までの3時間で一旦閉めている。次の開店時間は正午の12時。それまでの2時間は、店長であるルコの早めの昼食と、昼食メニューの仕込みに費やされていた。1日通してもそれほどの客数に至らないとは言えども、だからと言って手を抜いた料理を出すわけにはいかない――ルコの口癖であり、エリヤが数少なく尊敬している部分でもあった。 カチッ――キッチンの壁に掛けられた皿で時を刻む針が、10時半を指す。客席の掃除を終えたエリヤは、カウンターの席でシーフードパスタを口に運んだ。ここは海に面した街、魚介類は新鮮で味もいい。加えて、ルコの料理の腕は拍手に喝采を足して尚、さらに賛美に値する。あっという間に、エリヤの皿は貝殻だけになった。 「おいしかったよ」 「ありがとう」 朝からずっと煮込んでいるスープの鍋が蒸気を噴く。彼の言葉に微笑で応えたルコは、最後の皿を拭き上げ、食器棚に丁寧にしまった。空になったエリヤの皿のとなりに淹れたてのコーヒーを置く。彼が食事を終える時間を見計らって用意してくれるコーヒーは、ルコのサービス精神を如実に物語っている。たゆたう湯気に息を吹きかけてひと口すすり、エリヤは客席を振り返った。 「――人探しですね」 ブラインドの隙間から陽光を浴びる窓際――2人掛けのテーブルで、ステファニーは先程の男と向かい合っていた。 「そういう事」 男はステファニーに対して横に足を組み、主流煙と一緒に首肯した。 「とびっきりの美人なんだ。俺は一度しか会った事がないが、一目で恋に落ちた」 右指に挟んだタバコから昇る煙を追う目を、彼はうっとりとさせる。 「その人の名前は、わかります?」 ステファニーが必死に苛立ちを抑えているのがわかった。 「ジントニックの女、としか。名前と素性を知っているのなら、そもそも頼みになんて来ないさ。自分で探すよ」 10時半より10分ほど早く『Anny』を訪れた男は、ステファニーと顔合わせをするや、丁寧な物腰を180度変えてみせた。その目いわく、こんなガキが頼りになるのか? 「ここに来るまでに三人の探偵を雇ったんだけどさ、どいつもこいつもまったくダメ。役立たず。いっぱしに看板掲げてるくせにたった一人の女も探し出せないと来たもんだ。結果も出せないってのに、よくもまぁ探偵が務まるよ」 「名前も素性もわからないのでは、探す方も苦労すると思いますが」 ステファニーが一応の弁解を試みる。灰皿に灰を落とした男の手が止まり、口が呆けたように開く。 「…………」 「…………」 「……お嬢ちゃん。探偵ってのは、探すのが仕事なんだよ。人を探せない探偵なんて聞いた事あるかい? 網を持たない漁師と同じだ、何の役にも立たない。僕はね、お嬢ちゃん、役に立たない人間が一番嫌いなんだ。そんな輩がのうのうと生きていられる世界も信じられない。世の中には無能な人間が多すぎる。わかるかな、お嬢ちゃん?」 ――3回目、っと。 子ども扱いされるのがピーマンより嫌いなステファニーに対する禁句を胸中で数えたエリヤは、我関せずの体でルコを見た。煮込み中のスープの味見をしていたルコは、満足そうに頷く。 「今日のスープはご機嫌ね」 ステファニーたちの会話なんて、まったく耳に入っていない様子。 「でしたら、あなた自身が探した方が早いんじゃないでしょーか」 ――お、よく耐えた。 テーブルの下から見える拳は堅く握られ、話す左頬は引き攣り、敬語が崩れ始めてはいるものの、ステファニーには拍手を贈りたい。短気な彼女にとって、こういった類の男は耐え難いはずなのだから。 ふんっ――彼女の堪忍袋の尾が短い事など知らない男は、一笑に付した。 「有能な人間に時間がないのは世界のシステムだよ。だからこそ自分の下に人を付ける。人を動かす事でやっと時間を効率化してるんだ。僕にはやるべき事が多すぎて、割ける時間がない。もしも万が一、僕が暇を持て余すような人間であったのなら、喜んで時間を割こうじゃないか。だが僕はそんな事が許されるような立場にはいないし、嘆かわしいかな、3人の自称探偵どもは役に立たない。あきらめようにもあきらめられない時に、風の噂で『何でも屋』の話を耳にしたわけだ。藁にもすがる思いでここに来た僕の心情を察してくれないかい」 両腕と紫煙を振り回し熱弁する男は、自分を悲劇のヒーローか何かに見えているようだ。ここまで常軌を逸している人間も珍しくて、エリヤは開けた口を塞ぐのも忘れた。 「…………はぁ」 もはやステファニーの顔から表情は抜け落ちていた。タバコを灰皿に押し付けた男は、彼女の鼻先で――文字通り鼻先だったため、わずかにステファニーは顔を引いた――ぱっと、指を開く。 「成功報酬は500万だ。必要経費は別途で出そう」 エリヤは危うく、口に近付けていたコーヒーカップを落としそうになった。 ――っご、500万っ!? 見ればステファニーの瞳が大きく見開いている。 「ジントニックの女を見付けるのに、3人の自称探偵たちは役に立たなかった。たった1人の女も見付けられない、そんな役立たずにはビタ一文払わない。しかし女を見つけられたのならば――結果を出せたのならば、相応の報酬を出すのがビジネスだ。ジントニックの女は、僕にとってそれだけの価値があるって事さ」 「あなたの熱意、しかと受け取りましたっ」 男の手を両手で握ったステファニーの顔は、信じられないくらい輝いていた――と言うより、頬が緩みまくっていた。声も上ずっている。 「ジントニックの女、見付けて差し上げます」 「わかってもらえて嬉しいね、お嬢ちゃん」 高額の報酬の前では禁句も気にならない。 「それでは、早速契約しましょう」 テーブルの上に置いてあった紙を、男の前に滑らせる。 「ここに報酬額を記入していただいて、あっと、別途必要経費と書いといてください。それで、ここにはサインを」 男が言われた通りにペンを走らせるその文字を、食い入って見つめるステファニー。荒い鼻息が聞こえてきそうだ。 「これでいいかい?」 記入し終えた契約書をまじまじと見つめ、彼女は飛びっきりの笑顔を浮かべた。 「はいっ!」 「それじゃ、後は頼むよ。これからミーティングがあるもんでね」 席を立った男が差し伸べた手を、ステファニーは弾かれたように立ち上がり、強く握った。 「――ところで」 ドアへ歩を進めようとした男を、彼女が呼び止める。 「ジントニックの女とは一度だけお会いしたとおっしゃってましたが、それはどちらで?」 振り返った男は前髪を掻き上げ、爽やかに笑ってみせた。 「Lover's Barだよ」 カウベルが、男の退出に鳴った。
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