――クソチビがっ。 無音の悪態をつきながら顔を洗う。シンクを叩くほど勢い良く出した水を両手で掬い、打ち付けるようにして顔に当てる。殊、眉間は入念に。 ひとしきり洗い終えて蛇口をひねって――キュッ――唇を伝う雫を吹いて飛ばす。 「はい」 脇から差し出されたタオルを受け取ったエリヤは、拭った顔を腰から持ち上げた。シンクの上――壁に貼り付けられた鏡に、安眠を妨げられ不機嫌な男の顔が映った。青みがかった黒髪はこれ以上とない天然パーマ、同色の瞳は一重かつ切れ長で、右目が深緑。鋭角的な顎先に吹き出物を見付けて眉根を寄せた。眉間の蛍光マーカーは……まだ、うっすらと両眉をつなげていた。 「すっきりした?」 エリヤの左脇――洗面所と廊下をつなぐドアは外に開け放たれ、ドア枠に寄りかかっている少女に、返事代わりのタオルを投げ付ける。少女の左手がすばやくつかみ取った。 「これが起こしてくれた女に対するお礼?」 「問答無用にマーカーしといて何を言う」 「女を大事にする心って大切よ」 「12の女にくれてやれるほど、余ってねーの」 スウェット姿から、ジーンズと厚手のロングスリーブシャツに着替えた身を伸ばす。ハイカットのスニーカーに視線を落とし、靴紐を結ぶために身を屈めた。 「ところで、エリヤくん」 目だけ上げると、顎を突き上げて見下ろす少女が鼻を鳴らした。 「家賃がまだ払われてないんだけども?」 エリヤはすぐに目を逸らした。 「あー……払う気がないわけじゃ」 「この半年間、同じ口振りよ。食費含む生活費込みで月3万よ? まともに働いてれば安い家賃じゃない。ルコもルコよ。こんなヘタレをずっと居座らせ続けるなんて」 への字に曲げた少女の唇と嘆息。 「さっさと追い出しちゃえばいいのに」 徹頭徹尾、嫌味を述べた少女にぐうの音も出ない。よしんば出たとしても、即座にまた嫌味を突き付けられるのが関の山。下手な言動は起爆に至る。 「早いとこ朝食摂って、まともな仕事探しなよ」 少女はそう言うと、手元で弄んでいたタオルを放り上げた。洗面台と向かい合った、洗濯機に載せられた籠に、きれいに収まる。 「んじゃ」 くるりと身を翻した彼女は、頭の横でひらひらと手の平を振ってその場を後にした。今日は思いの外、嫌味が少なく済んだ事に何より胸を撫で下ろして、靴紐をきつく結ぶ。 洗面所から廊下に出ると、右手は突き当たりの行き止まり。左手に、よく磨かれた木の床が伸びる。壁に左右対称に並ぶドアは合計6枚。向かって右側――南向きのドアは、エリヤを含めた住人の部屋に割り当てられており、左側――すなわち北向きのドアは、手前から洗面所、浴室、書斎となっている。廊下を進んだ先には階段が下へと続き、コの字に折り返して1階へつながっていた。 「――あら、おはよう」 2階の廊下もそうなのだが、1階はよりコーヒーの香りにあふれる。おっとりした女性に迎えられ、あくびをかました後、 「おはよう」 隙あらば閉じようとするまぶたを眉ごと持ち上げて応えた。 階段を下り終えた彼は、ふと目に付いた、左手のドアにぶら下がる『REST ROOM』のプレートの傾きを直してやり、開けた空間を見やった。光をより多く差し込ませるため、左手の壁に並ぶ窓は大きめに作られ、テーブルとイスが余裕を持ってレイアウトされている。右手はカウンターが据え付けられていて、丸イスが整然と並ぶ。ご覧の通り、1階は喫茶店『Anny』の営業スペースである。 もう一度、エリヤはフロア全体に視線を配した。 「あれ? ステフはどこ行った?」 来客は三人。窓際の席に座っているのは、タバコ片手に新聞を読むスーツ姿の初老の男性と、ノートパソコンをしきりにブラインドタッチしているのは、学生らしい、チノパンにパーカー姿の青年、見るからにそれと感じさせる、ボリュームある長髪を掻き上げ気だるさを伴いタバコをふかす、ミニスカートとXネックセーターのお水お姉さん。広い窓から差す斜陽に照らされ、2人の紫煙が靄となり揺れる視界に、先程の少女――ステファニー=モロゾコフの姿がない。 「買い物に行ってもらってるの。いつものパン屋よ」 カウンターの中に設えたキッチンから女声の主は、カウンターテーブルにエリヤの朝食を出して、やわらかい笑みを湛えた。いつもの席――カウンター席の階段側から2番めのイスに腰掛けたエリヤは、早速トーストに噛り付く。外はカリッ、中はフワッとした食感とバターの甘い香りが口いっぱいに広がる。 カウンター越しに、食器を洗う女を何とはなしに眺めた。栗色のストレートヘアを肩まで伸ばし、頬まである前髪は、額のやや右寄りのところで分けている。ポロシャツとチノパンにエプロンをかけた体躯は細く華奢だが、テキパキと洗い物を片付ける姿は凛々しく映った。通った鼻梁に細い唇、細めの二重まぶた、整えられた眉――『Anny』に来る男性客の中で、店の主人であるルコ=マーレイ目当てに来る輩の気持ちがわからないでもない。いかんせん、美人に部類する人物である。彼らがルコに関する決定的な事実を知ったら、はてさて、来客数はどう変動するのだろう。 ――カラランッ♪ カウベルの澄んだ音色に、そんな事を考えていたエリヤは首を左にひねった。 「いらっしゃいませ」 持ち前の魅力を存分に活かした営業スマイルを向けるルコ。開かれたドアから差し込んだ陽光が木張りの床に人影を映し出す。長身痩躯をチェックのスーツで包んだ男は、ルコと目が合うなりにっこり笑顔を浮かべた。きれいに磨かれた革靴を踏み出し、カツカツと音を立ててカウンターに歩み寄る。 「あなたが、ステファニー=モロゾコフさん?」 やや低めの声と微笑。スクランブルエッグにフォークを差しながら、エリヤは苦虫を噛み潰した。この男は彼が苦手とするタイプだと、本能的に悟った。 「いえ」 営業スマイルを崩す事なく、濡れた手をタオルで拭きながらルコは首を振る。 「彼女は外出中です。何か言伝があるのでしたら、私から伝えておきますが」 エリヤは手近にあったケチャップを手に取った。スクランブルエッグの上で逆さまにした容器を押し潰す。 ――ブピッ。 下品な音と一緒にケチャップが散る。皿の上の黄色にまばらな赤――エリヤの左眉が跳ねた。ふと視線を感じて目をやると、男が露骨に嫌な顔をしてエリヤを見ていた。 「何か、メッセージは?」 ルコの言葉で男は微笑を取り戻す。 「自分で直接伝えたいのです。お願いがありまして」 顎を突き出したエリヤは、ケチャップで文字を書いた。なかなかの出来映え。ふんっ、と鼻を鳴らし、文字ごとスクランブルエッグを掻き回した。『Get Away』の文字はすぐに卵と混ざり込む。 「お願い、ですか?」 「はい。頼み事を」 「そうですか」 さりげなくルコの視線がエリヤに振り向いて、また男に戻った。 「でしたら、10時半頃にまたいらしてくださいな。その時には、もう彼女もいると思いますから」
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