キアを引き連れ、2階に上がって、部屋に入ったところで――人の気配。わずかに眉間を寄せ、壁のスイッチをon。 「…………」 天井に埋め込んだ電球が、室内の闇を一掃する。クローゼット、簡易棚にはコンポ、起きた時のままのベッド、コンパクトな冷蔵庫、ガスヒーター――物がないというのはシンプルで、だからこそ異常などない事なんてすぐにわかる。 しかしながら。 人の気配は確実にあった。 肩を叩かれ振り向くと、大口開けてあくびするキアがまっすぐ指差した。ドアと対峙する壁にあるのはテラス窓だけ。縦ボーダーのカーテンが閉じているせいで、外の様子はわからない――外。 エリヤは大股で窓に近付くや、つかんだカーテンを引き開いた。 女が窓に張り付いていた。 「…………」 「…………」 「……………………」 「……………………」 「……………………何してんだ?」 顔の左半分をこれでもかと窓に押し付けているせいで、ひどくブサイクになっている。何を狙っての奇行なのか知らないが、反応はない。 カーテンを閉じた。 ドンドンドンッ! 窓を割らんばかりに叩くものだから、渋々カーテンと窓を開く。 「さ〜むっ! 凍死するかと思った! エリヤ、どうしてすぐ入れてくんないのよ? 朝になって、私の凍死体があったらドン引きするでしょ?」 早口でまくし立てながら飛び込んで来た女は、勝手にガスヒーターのスイッチを押した。 「死にそうになるくらいなら、どうして下から入って来ない?」 「ま、それはそれ」 「どれがどれだ」 「普通に来たところで、普通に迎え入れるでしょ」 「普通でいいだろ」 「普通じゃ、女は満足しないのよ」 妖艶な顔をしても、その下はガスヒーターの前で屈み込んでいるのだから、まったく滑稽だ。 マフラーに手袋にダウンジャケット、背中まで伸びる青みがかった黒髪、東洋の血の混じった顔立ちは男の目を引く事請け合いのまっとうな美人なのだが、長時間窓にへばり付いていたせいで、鼻頭が赤い上に洟というオプション付き。豪華にデコレーションされている。 「だからって、ベランダによじ登ったのか?」 言ってて馬鹿馬鹿しくなる。 「そんな醜態、さらすまでもないって」 その醜態でよく言えた言葉だ。 「向かいにマンションがあるでしょ? その外壁を蹴れば、2階のベランダなんて届く高さなもんよ」 冷え込んだスリムな体を抱くように震える女は、その語調も震えている。しゃがみ込んで畳み込まれた足はデニムパンツと膝までのブーツ。到底、そんなアクロバットをこなせるような服装ではない。 「そう思ってるのはお前だけだよ」 「こんばんは、シスター」 いつの間にかベッドに腰掛けていたキアが悠然と挨拶する。背後からの声に、女は首をねじって振り返ると、あら、と眉を上げた。 「キアも来てたの? ゴメンゴメン、気付かなかったわー。元気してんの? 体の方は平気? 完治した?」 肋骨3本と左腕の話だと、すぐにエリヤは察した。 「にしても――早く動かんのか、このポンコツは!」 女――ハルネが睨んだせいかはわからないが、やっとこさヒーターが動き始める。温風を吐き出す機体の頭を小突いたハルネは、 「怒られたくないなら、始めから素直に動きなって」 機会に声をかけた。 「――それで?」 ダウンジャケットを脱ぎ始めたハルネに声をかける。彼女は二重の瞳を丸くし、エリヤを見上げた。こうして見る限り、キアの肋骨・左腕を破壊するような女には見えない。 ――人は見かけに寄らないもんだ。 エリヤは、我ながら変なところで感心した。 「何?」 「散歩してたわけじゃないだろ? 凍えるような寒さの中で歩き回るような酔狂には思えない」 「私だって夜に散歩したくなる時だってあるし、ついでにエリヤを尋ねたくなる事くらい、あってもおかしくないでしょ?」 「あるかもな。で、今回もそうなのか?」 「今回は、カルラ=クリスティ絡みの話を聞こうと思って」 ダウンを放り投げたハルネは、床に尻をついてエリヤに体を向けた。 「結局、本人じゃなかったわけでしょ?」 彼女の問いに肩をすくめて肯定。 「私なりに首を突っ込んでみたんだけど――エリヤ。Lover’s Barでの事、話してもらっていい?」 ハルネに話をするのは初めてだった。ケリー=コストマンの話(愚痴を零そうとしたら睨まれた)から、ケリーがエリヤとは別にカルラ=クリスティ探しを頼んでいた男の話、不必要とは思いながら、男をはべらす女の話―― 「――それ、私だわ」 いとも平然と言うものだから、危うく聞き逃すところだった。 「……は?」 「その女の事。男をはべらす女ってやつ。いや、別に男目的でLover’s Barにいるわけじゃないんだよ。情報源の確保って言うか、コネクションの構築のために」 「ハルネ、会員だったのか?」 「え、意外?」 「情報集めならわかるけども、金かかるだろ?」 「仕事に不自由してないおかげで、財政面はウルウルよ」 ハルネを動かせるには多額な報酬を必要とする。仕事の内容は様々といえど、クライアントが金を惜しまないような仕事ばかりだから収入は大きい。加えて、ハルネ本人は貯蓄家ときている。Lover’s Barの会員費は例外として。 「続けて」 納得して、エリヤは最後まで話し切った。 「――以上」 「んー」 天井を見上げながら、ハルネの鼻がうなった。 「これは話してよいものかわからないけれど、エリヤを信用して話そっか」 どこか遠回しでもったいぶった口調に、エリヤは何も応えなかった。拒否もしなければ受容もしなかった。 「エリヤがLover’s Barで話した男――クロノア=ディーンってんだけど――そいつがすべての起因よ」 まるで世間話をしているかのように、あっさりと。 「女好きなプログラマーでね、本人とは私自身、面識があるんだ。Lover’s Barでなく、現実世界での話よ? カルラ=クリスティを知ってるエリヤに対して、自分がプログラムの一部だって白状したのはニセモノ本人だけど、製作者であるクロノア=ディーンに関しては何も聞いてない」 その語尾はどうやら確認だったらしい。眉を片方だけ上げてエリヤの目を覗き込む。 「ああ、聞いてない。聞いたところで何もないしな」 「だろうね。エリヤが知りたかったのは、カルラ=クリスティを偽ってる何者かって点だけだものね。そこに至る経緯なんて興味なかったんでしょ」 正しくご明察だった。カルラ=クリスティの現状を知った――知ってしまった――以上、Lover’s Barのカルラ=クリスティがニセモノだと確信したエリヤの興味――と言えるほどやわらかくなく、むしろ瞋恚に近かったが――は、その正体だけ。バックグラウンドなど知った事か。 「言ってしまえば、クロノアもエリヤも同じようなもんよ。あんたにすりゃ不愉快かもしれないけど、カルラ=クリスティに惚れたという点で同じ男。ただ、クロノアの場合はそれが歪んでしまったってだけ。何せ、自分のテリトリーに自分のイメージでのカルラ=クリスティを創ったのだから」 そのせいで、両者の間にイメージの相違が生じた。 「カルラ=クリスティをミステリーな存在に仕立て上げたのもクロノア自身。もしかしたら、独占欲もあるのかもね。その存在を客寄せの商売道具にしようと考えたのは、クロノアじゃなくて運営会社の方よ。あの男が率先的に惚れた女を客寄せにしようなんて、考えられたもんじゃないわ。んで、ジントニックのオーダーをコマンドとして、カルラ=クリスティを出現させるようにしたって寸法。もちろん、ニセモノだから正体が判明してしまうわけにはいかない。名前しかわからない幻の女って立ち位置と、どんな男に口説かれようが口説き落とされないようにプログラミングしてしまえば、そこはカバーできる」 プログラムであるカルラ=クリスティから見れば、Lover’s Barはプログラムの塊だ。正規の会員ではないと看破するのは容易なのだろう。サイズの違う服を着ているようなものなのだから。 「そのクロノアって男は」 エリヤは口を開いた。ちょうど階下からピアノの音色が流れ始める。しっとりした、爽やかなジャズ。聴いていて落ち着くメロディー。シヅヤと言ったか、青年の腕前は大したものだ。 「カルラが死んでる事を、知ってたんだな」 「もちろん」 ふとベッドを見れば、キアはその身を横に倒して眠っていた。 「不幸な飛行機事故よ」 「ああ……不幸な、な」 自分の声が落ち込んでいるのがよくわかる。あの笑顔は二度と見られない。 「おまけに言えば」 対照的に、ハルネの言葉は明るかった。 「来春、ブランドが立ち上がるわ。カルラ=クリスティのデザインしたアクセサリーを取り扱う、『Carla』ってブランド。早くも予約が殺到してるみたい。――そのリング」 唐突に彼女に指差され、エリヤは視線を落とした。左手人差し指、地球儀を模したリング。 「大事にしなさいよ。デザイン画の存在しない、唯一のリングなんだから」 彼女が励ましてくれているとは思えないが、それが返ってエリヤの沈む気持ちを楽にさせてくれているのは、たしかだった。左手を顔の高さまで持ち上げ、リングを眺めてみる。久し振りに付けたリングは指にしっくりきていて、繊細でありつつ豪快なデザインは巧妙。 「若き才能を認められたデザイナー、その幻のリングを持ってみて――感想はどう?」 リング越しにハルネが微笑する。 微笑――カルラの微笑。 女の微笑に弱いと知ったのは、カルラと出会ってからだ。 「…………どこにでもいる、学生だったよ」 呟いたエリヤの言葉が聞こえたのかどうか――ハルネはタバコをくわえ、ジッポで火を付けた。目を細め、実にうまそうに煙を吐く彼女を見て、エリヤは手を差し出した。 「……俺にもくれ」 「やめたんじゃないの?」 ハルネはからかうように笑みながら、箱から抜き出したタバコを器用に指で弾いてみせた。手の平で受け止めたタバコを口にして、彼女の付けたジッポの火に顔を寄せる。ジジジ――タバコの先が焼け、久し振りに肺に入れた紫煙は―― ベッドではキアの寝息。 カキンッ――ハルネが閉めるジッポ。 シヅヤの奏でるピアノ。 2人分の紫煙が昇る天井。 脳が痺れ、少しだけ、胸が痛い。 指にはリング。 少女の笑顔。 ――悪くない。 「タバコをやめる理由がなくなっちまったからな」 「けど、残念ね」 ハルネの唇から、煙の輪が浮かぶ。 「会ったら最初に言う言葉、せっかく用意してたのに」 「そんなのあったっけか?」 そらとぼけるのは、エリヤの得意分野である。
♪END♪
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