一面、 純白世界。 積もった雪に足をとられ、 何度も躓きそうになりながら走った。 2人分の荒い息遣い。。煌々と照る太陽。 やがて辿り着いた陸の頂上。 見るも無惨で、造り物のように滑稽で、それでも現実だった。 木の葉を1枚残さず落とした巨木の幹に、四肢が磔にされていた。 頭、胴体、腕、脚――計6個に刻まれた、オヤジだったもの。 太く頑丈なクギで、打ち付けられた肢体。 全く奇抜が過ぎて、恐怖すら忘れた死体。 「オヤジが殺されるなんて……」 となりで呆然と、そいつは言葉を失くした。 「オヤジほどの人が殺されるなんて」 怒りで震えるそいつの声、拳。 オヤジの流した血が、幹に乾いてこびり付いている。 赤黒く、変色して。 ただ。ただただ白いだけの世界。 赤かったであろう血は黒く。 オヤジの顔は青白く。 その唇は紫で。 俺は、 俺は。 叫んだ。
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過去は産物であり、付加物であり、軌跡であり、遺跡である。 俺は時の流れの中に生きてるのだから、生きてる以上、時は進むのであって、すべては過去に流される。 創りたくて造るんじゃない。作りたくなくたって創られる。 過去を足跡だと比喩したところで、見てくれる人がいなければ風化し霧消するもんだ。 当人である俺ですら滅多な事では振り返らないんだから。 産物、付加物、軌跡。けど、遺跡。 発掘志望者、どーんと求む。 いや、うそ。うそうそ。 知ってる人が知ってればそれだけで十分。 見てた人が見てたってだけで、それで十二分。 「――てなわけなんです。まったく聞いてないでしょ、キアさん?」 顎を撫でていた手を止めると、細めていた猫の目が丸く開いた。全身灰色、毛並み美しい猫。 「んーっと」 しばし見つめ合うかとも思ったけど、猫はすぐに目を逸らした。 「猫って、睨めっこが苦手だよねー」 「負けたくないからじゃないですか?」 「なるほどー。負けないためには勝負しなきゃいーって理屈か」 「ポーカーフェイスが猫のポリシーですから」 「喜怒哀楽が激しい猫ってのも、それはそれで好きだけど」 「爆笑してる猫なんて見たくないです」 「感動に目を潤ませてる猫は?」 「…………いいかも」 「でしょ?」 「そんな話じゃなくてっ!」 大声に猫がビクついた。見上げるこいつに倣って俺も左に視線を上げる。 「急に大声出さないでよ。おかげで心臓バックバクだよ。心臓って一定の拍動で止まるの知ってる? ドキドキさせればそんだけ寿命縮むんだから。今野でどんくらい縮んだかな――1分半くらい?」 「大した事ぁないです」 「1分半あれば、カップラーメンだってできるじゃないか」 「固めんじゃないですか」 「じゃ、カップスパ」 「固めんじゃないですか」 まったく、取り付く島もない。困ったちゃんだ。 「あ」 猫がきびすを返して(どこがきびすなのかはさておいて)タタタッと走り去る。その後ろ姿を名残惜しく見ていた俺は、 「オスかー」 「どこ見てんですか」 半目で見下ろす困ったちゃん。仕方なく、俺は屈んでいた体勢から立ち上がった。腕を組み、右足に重心を置く困ったちゃんは、おまけに小首を傾げて俺を見上げた。立ってみれば、この子がさほど長身じゃないとすぐにわかる。 「んー、で」 腰に手を当て、身を反らす。背骨のペキペキなる感触が小気味良い。 「何の話だっけ」 「やーっぱ、聞いてなかったんですね」 「聞く気あるよー。猫がじゃれ付いて来たもんだからさ。あと、長ったらしそーだったから」 「聞く気ゼロじゃないですか」 にべもなく言い伏す困ったちゃんを、やれやれと見下ろす。 「んで、困ったちゃん」 「誰ですか、それ」 「何の話だったか、も1回聞かして」 「困ったちゃんって誰ですか」 「食い付くねー」 あははー。 笑ってみても、困ったちゃんは憮然とした表情。 「さっき自己紹介したばかりですよ。私はサヤ=ハトリベって名前だって」 「変わった名前だねー」 「さっきも同じ反応でした」 「そのサヤちゃんが、何の用で俺に?」 「『しかも、こんな夜中に?』――それも同じです」 只今、午前3時。街の広場は噴水も止まっていて、街頭だけが頼りなく夜闇に灯っていた。さらに言えば粉雪すら舞っていて、朝には本格的に振り出す模様(天気予報情報)。周囲には人気なんて皆無――そりゃそうだ、こんな寒空の下、散歩しようなんてバカはいない。 そんで俺は、そのバカ。 「直接お宅を訪問するつもりだったんですけどね。こんなとこで会えるなんて、幸運ですよ」 「俺んち、知ってんの?」 「知ってます」 「俺んちまで来て、何するつもり?」 「夜這いです」 「へー」 「突っ込んでください」 ボケたらしい。 「聖フィルデナント教会は知ってます?」 淡々と話を進めるサヤちゃんに、あー、と頷いてみせる。 「名前だけなら」 「その使いなんです、私」 そういうと、サヤちゃんはにっこり笑った。ぶすっとしてるより、はるかにいい顔だった。 「んー?」 「何ですか?」 「聖フィルデナント教会が、どうして俺に使いなんて?」 「ですからー」 またぶすっとする。露骨なため息まで添えて。 「オーナーが、キアさんに会いたいんですって」 「仕事の話かな」 「違うみたいですよ」 独り言のつもりが、サヤちゃんはしっかり応えてくれた。 「じゃ、何?」 「そんなん知りません」 淡白も、こうまで度を越してくれると、もはや爽快だった。 「とりあえず、教会までご足労願えません?」 「えー、やだー」 サヤちゃんの血管が切れる音が聞こえる――というのはウソだけど、俺の言葉にプチッときたらしいのは本当で、細い吊り眉がヒクついた。 「私の事、なめてます?」 「いや、いやいや、そんなんじゃなくてね。今、この時間にご足労願われるのがめんどい」 「それは困りますね」 うつむいて、サヤちゃんの表情が前髪で見えなくなる。 お。空気が変わったよ。 「じゃ――力づくでお願いする事になりますが」 声のトーンが低くなる。前髪の隙間から覗く左目が殺気を放つ。 「じゃ――力づくでも拒否する事にしましょー」 にこやかに応え――サヤちゃんの足が動いた。 「――おっ」 蹴り上げられた右足を身を引いてかわす。空を裂く音、眼前の粉雪が重力を失う刹那、目前の踵が迫って来る。 「わおっ」 さらに身を引く。だんっ――地面に叩き付ける足。当たってたら相当痛そー。 一度蹴り上げた足を、重心を前に移しつつの踵落としに移行する――いやはや、何とも器用なサヤちゃんだ。 「よけないでくださいよ」 と、右足を軸にした左蹴り。 「そーんな事言われてもねー」 さらにさらに身を引きながら、間一髪でかわす。 「当たったら痛いでしょ、それ」 コートのポケットから抜いた左手で、サヤちゃんの長い足を指す。 「俺は女の子に痛めつけられても嬉しくないの」 頭の隅に、1人の女の顔が浮かぶ――あの時は痛かったな〜。 「だったら、大人しく教会まで来てください」 「えー」 「続けます」 地を蹴り、サヤちゃんは一気に距離を詰めた。突き出す掌底を払うや、彼女の重心が沈む。 やば。 とっさに腹をかばった瞬間、衝撃――! 「っ!」 吹き飛んだ俺は背中から無様に転がった。宙に舞うサヤちゃんが見えて、その落下地点は――俺。 「ぃよっと」 頭の横についた手を支点にし、後ろ周りの要領で、膝を畳んだ身を腕力だけで弾き飛ばす――後ろ周り跳び。 どんっ! サヤちゃん……俺が倒れたままだったら男として不能になってたよ。 「さっきから、どうして手を出さないんですか?」 着地体勢からすっくと立ち上がり、サヤちゃんが睨み付ける。新体操選手よろしく10点満点の着地ポーズの俺は、挙げていた両手を下ろしつつ、 「だって、女の子を痛めつけても嬉しくないの」 と肩をすくめた。 「それに、素手で、ってのも慣れてないんだよ。さっきの当て身だって、防ぐのでいっぱいいっぱい」 しかもとっさの防御だったもんだから、まだ腕が痺れてたり。 「奇遇ですね。私も素手は苦手なんです」 ウソつけ、サヤちゃん。 「そろそろ背中にあるものを出したっていい頃ですよ、キアさん」 不敵な笑顔が妙に良く似合う。粉雪も相まって、幻想的にすら映る。 「知ってるんだ?」 「キアさんほどの人が、丸腰でうろついてるなんて考えられませんから」 ほんと、不適スマイルが良く似合う。 「そっか。そかそか、うんうん」 「?」 1人何度も頷いている俺に、サヤちゃんは不審いっぱいの顔。 「――んじゃ」 「おいおい」 くるりと背を向けたところ、すかさず突っ込まれた。 「どこ行くんですか」 「逃げようと思って」 首だけ振り向いて応える。サヤちゃんの目が大きく開いていた。 「はい?」 「俺、丸腰なの」 言うが早いか、ダッシュした。
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