<side-A>
自分の余命が短いという事は、たとえ私じゃなくてもわかる事であり、しかしそんな私の気持ちを一体誰と共有できるだろう? 最初は小さな病院で診察してもらった。結果、大きな病院を紹介してもらう事になって再度診察。そして入院、手術。 手術は成功したと言っていた執刀医の笑顔は、どこか悲しげだった。どうやら私の心臓はどんな手術を施したところで、延命処置しか取れないそうだ。注射による薬剤の投与。ベッドの上で送る単調な生活。食事の方は、さすが大学病院、おいしいものばかり届けてくれる。 なのに今の私は、そんな食事を舌で楽しむほどの余裕がない。毎日のように見舞いに来てくれる母親に感謝はするけれど、本音を言ってしまうと、もう放っておいてほしかった。無理に笑ってくれる母親の腫れた目を見るのも、それに笑って応えるのも、もう疲れた。 いっそ。 すぐに死ねれば。 何度も繰り返したため息と想像。そうすれば、母も父も楽になれる。むしろ、それを望んでるのかもしれない。弟が一度も私の所に来ないのだって…… 家族を責め立てるつもりはない。だけど、私の心に生まれた真っ暗な闇が身勝手なエゴに拍車をかける。親をなじりたくなる。窓辺の花瓶を床に投げ付けたくなる。 日に日に。嫌いな自分は大きくなる。 今は、まだ大丈夫。 だけどこれからずっと、もう一人の私を抑え続けられる自信はない。 そんな事を考えていると、看護婦(と言っちゃいけないか。女看護士)が検温のために部屋に来た。六人部屋のうち、埋まっている五つのベッドを回り、患者に体温計を渡しながら努めて明るく会話をして、用を済ませたら帰って行く。彼女らとどんな会話をしたか、まったく気にかからない。彼女らにとって、私たち患者はどう映って…… ……抑えろ。彼女らだって一生懸命接してくれてる。 暴走しそうになる思考を頭を振って追い出す。枕元にある置き時計を見ると、まだ昼までに時間がある。落ち着かせる意味でも、空気を入れ替えよう――気分転換に、私は中庭へ出る事にした。 入院生活に必要なものは大方手に入る売店の前を通り抜け、窮屈そうなガラス張りの喫煙スペースを横目にしながら、病棟のロビーを出る。 外はいい天気だった。抜けるように、どこまでも澄んだ空には雲はなく、空気は暖かく優しかった。目の前には緑が、風に押され揺らいでいた。 病棟前に広がる中庭には、ベンチの並んだ広場がある。そこはまるで別世界で、時間の流れがそこだけ違う。そよ風に揺れる葉擦れがカーテンになって、空間を閉じ込めているかのように。 そしてそのせいか、1人ベンチに座っている彼がまるで絵のように――そう。まるで絵の中に迷い込んでしまったかのような錯覚を覚えたのだ。 「何ですか?」 15,6歳くらいの彼は立ちすくんだ私に、たった一言だけを投じた。現実に引き戻された私は何のつもりもなく、彼の手元を指した。 「ケータイがどうかしました?」 「違う。右手の方」 彼は苦虫を噛み潰し、メールを打っていた左手を下ろす。右手にはまだ火を点けたばかりのタバコが煙を揺らせていた。 「別に咎めようとしてるんじゃないの」 そっぽを向いた彼をなだめる。 「ただ、どっか病気ならと思って」 ロングスリーブシャツとスウェットパンツという楽そうな服装から、彼が入院患者だと推測した。 「盲腸です、ただの。タバコとは関係ありません」 ぶっきらぼうに答え、彼はケータイを握ったまま左手中指で頭を掻いた。何度も繰り返したセリフなのか、まるで棒読みに聞こえる。 「一週間も入院ですよ? タバコだって吸いたくなる」 そういうものなのか考えてみたが、27年間ずっと無喫煙だった私にはさっぱり。 「誰かの見舞いですか?」 視線が返って来た。 「まさか」 苦笑する。上下にスウェットを着て、まともなメイクもしていないというのに。 「ここ」 彼が、ベンチに空いた隣のスペースをケータイの頭で小突く。 「座りませんか? 話し相手がいなくて退屈なんです」 「年上の女をナンパ?」 「まさか」 と私の口真似をした後、さらりと彼は言う。 「余命幾ばくもなく、生きる事を放棄しかけてる」 驚いて、私は言葉を失くした。表情が失せ、頬の筋肉が強張るのがわかる。横目で胸の中を見透かされた――? 「……会った事ある?」 真っ白の頭から零れた問い。つまらなそうに、彼はタバコを吸った。 「まったくの初対面です」 その口から吐かれた煙がそよ風に舞う。 「じゃ、どうして?」 「説明するの、面倒くさいし苦手なんです。わかる、という事だけわかってください」 「エスパー?」 言ってから、我ながら稚拙な言葉だと思った。彼も同じ感想を抱いたのか、鼻先で笑う。 「ただの盲腸風情が、とか思うかもしれませんけど――余命を知って、どんな気分ですか?」 彼の超能力(?)について聞きたかったけど、たった一つの質問ですべてが白けて見える。 私は空を見上げ、ツバメを2羽数えてから彼の顔を見た。相変わらず、つまらなそうにタバコを吸っている。 「全部、真っ白になっちゃったみたい」 答えは自然と口から出た。 「何もする気が起こらないのよ。だから、こうしてあなたと話をしてる」 「ふぅん」 鼻を鳴らして、彼はおもむろに言った。 「それじゃ、かわいそうだ」 「…………ん?」 天気の話でもしてるような口振りを何度か頭の上で繰り返したが、理解できずに終わる。 「私の事?」 「高校生の頃の夢って憶えてますか?」 私の語尾に彼は語を重ねた。 「夢って?」 ふぅ――吐いた煙はため息に思えた。 「あなた自身が描いていた夢です」 「もう忘れたわ」 「じゃ、思い出してあげてください」 足元に落としたタバコを踏みつけて、彼は立ち上がった。 「あなたの未来は、あなたの過去の延長なんですよ。今のあなたはその間にいる。過去を未来につなげるのが役目なんじゃないかと思うんです」 そよ風が少し強く吹いて、木々が騒ぐ。別れの言葉もなしに立ち去ろうとする彼に、私は質問した。 「残りの時間で間に合うかしら?」 4歩で立ち止まった彼は振り返ると、事も無げに言ってくれた。 「がんばればいいだけです。時間は、まだある」 元気付けているのか突き放しているのか、その口調からはわからなかったけど、その時に初めて彼の笑顔を見た。 「もし見つけたら、拾ってあげますよ」 「そうしてやって。きっと迷子になってるだろうから」
……これが、自著の創作に取り掛かったきっかけ。 私にとって、それは不思議な体験だった。 けれど彼との出会いはとても大きく、私に力を与えてくれたのは疑うまでもない。 盲腸風情の彼とはこれっきり、二度と会う事はなかった。せめてもう一度会いたかったんだけど。
生きる勇気ではなく、時間を活かす契機をくれた彼に。 この本を捧げます。
<side-B>
『まえがき』と題されたページを読み終えて、俺は本を閉じた。ハードカバーで刊行されたその本を改めて見つめる。表紙の上に『我楽多(がらくた)』というタイトルが不器用な字体で並ぶ。カバー絵は表紙から裏表紙に渡って一枚の絵になっていて、それぞれに髪の長い女と、制服姿の少年が描かれていた。ちょうど背表紙にまたがって、やわらかく照る太陽と澄んだ川が上下に並び、二人はそれを挟んで向かい合っている。 タイトルの右下に、身を強張らせて緊張しているかのように、著者名が遠慮がちに記されていた。 ――相澤ちえ。 初めて俺は、その女の名を知った。 ……きっと迷子になってるだろうから…… あれは、今となっては謙遜にしか聞こえない。書店の会計カウンターの前に堂々と『相澤ちえコーナー』を構え、平積みされた本を手に取る人がたくさんいる。こうして立ち読みしていた間にも、俺の脇から本を取り、買っていく人を何人見た事か。 刊行され、メディアに紹介されるのを待つ事なく口コミだけで高売上げを達成した、無名の作家。彼女はそれでもなお、迷子と言うだろうか。 「――お、珍しい。ハルが活字を手にしてる」 やおら俺の左腕に寄りかかり、カノが手元を覗き込んだ。 「相澤ちえかぁ。これ、かなり有名だよね。詩とか写真とか日記みたいなものまで、とにかく相澤ちえの粋を結集した、みたいな本でしょ? ちょっと読んだ事あるけど、面白いよ」 へぇ――世の流行というものにまったくと言っていいほど疎い俺は、今さらながらに驚いた。 よもや、盲腸の時にそんな才能に出会うとは。 「今度、映画にもなるらしいよ? どんなのになるかまでは知らないけど」 「ふぅん」 「あれ? 興味あるんじゃないの?」 「ないわけじゃあない」 「どっちよ?」 「どっちも」 なおも食い下がろうとするカノをかわして、俺は『我楽多』片手に会計カウンターに向かった。 会計を済ませ、書店名入りのカバーをかけられた本をカバンに押し込みながらコーナーに戻ると、カノが『我楽多』に読みふけっていた。 「帰るぞ」 その後ろ頭を小突くと、 「何だか、かわいそうだなぁ」 何やらぼやき始めた。 「だってさ、こんな才能持ってて、短い人生を過ごしたんだよ? もっと生きていれば、きっとすごい作家になったかもしれないのに」 相澤ちえの運命を惜しんでいるのか、そんな短い命を与えた神への文句か、俺には判断しかねた。 「でもきっと、彼女は満足できたんじゃねーの?」 「私だったら不満だらけだけど」 おまえじゃ、な――喉元まで競り上がった言葉を、危ういところで押し止める。何を言い返されるか知れない。 「ハルが読み終えたら見して。一冊限りの才能ってのを見たいし」 手にしていた本をコーナーに戻し、カノは振り向いた。 「ん」 二人並んで書店を出ようと出入り口の自動ドアを抜けて――
――ありがとう――
――俺は振り返った。 相澤ちえコーナーに山積みされた本たち。その前に。 色素の薄い髪を肩まで伸ばした、細身の女が立っていた。スウェットを着た、まともにメイクもしていない女。 彼女ははにかむように微笑んで俺を見ている。 ふいに立ち止まった俺の脇で、カノが何事かと俺を見た。 滑らかに自動ドアが閉じる―― 何かを言いたかった。礼なんか言われるような事は何もしていないし、本が出来たのは彼女に才能があったからで、俺が買ったのはそれが形になったから。なのに、ありがとう、だなんて。 「…………」 自動ドアのガラス越しからでは、彼女の姿は見えなくなった。閉じるに連れ、彼女が消えてゆく。 「……あの時、17だったんだよ」 呟いて、微笑を見届けた―― 「――は?」 見れば、カノがあんぐりと口を開けている。 「あん時ってどん時?」 訝りながら、閉じきったドア越しに店内を覗き込む。 「やめろ。バカに見られる」 「ねー。どん時? んで、誰に話してたの?」 「独り言」 ――そう。独り言。 「ねー、ねー」 「帰るぞ」 うるさく鳴くカノの手を強引に引っ張った。
俺は、幽霊なんて存在を信じていない。 それはきっと、そこに取り残された『過去』が形になったものだと思うんだ。 じゃあ、書店の彼女はなんだったんだろう? もしかしたら、あそこに平積みにされていた『本』たちに込められた、相澤ちえ自身だったのかもしれない。 『過去』というものはどこにだって残る。時間の流れから置き去りにされた、人が創り出す、止まった瞬間。 もうこの世から去ってしまった相澤ちえは、本を書く事で彼女の『過去』を残す事ができた。 俺は―― 俺は。俺の周りで流れ続けるこの時間に、自分の『過去』を乗せる事ができるんだろうか? こんな事を言うと、またカノに笑われるから黙っておくけど。
俺は、とてもとても、ちっぽけな人間なんだと思うんだよ。
♪End♪
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