ひと際強く、風が吹いた。葉擦れがざわめいて、黄色い帽子が飛んだ。 くるりと回った帽子は宙で止まったかと思うと、再び風にさらわれて、枝に引っかかった。 葉がざわめいた。 ――下? 見下ろせば、まだ幼い少女がいた。丸くつぶらな瞳、眉はハの字で、唇を半開きにした少女は呆然と枝に揺れる帽子を見上げている。 その瞳が潤み始めた。 葉がこすれた。 ――うん、そうだね。 ほんのわずかで事足りる。ほんのわずか、枝を揺すればいい。それだけで――ほら、帽子は落ちた。 足元に落ちた帽子を拾い上げた少女は、付いた砂を払うとその笑顔に載せた。たたたっと走り去る少女を見送る――不意に立ち止まった彼女は、振り返るや元気な声を張り上げた。 「ありがとう!」 ――どういたしまして。
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――金属的な雄叫びを上げ金属の刃が身を削る度、激しい痛みが襲い掛かる。 厚い皮膚はとうに切り開かれて、詰まった肉までも裂かれていく。 葉が悲鳴に身を揺らす。 切り倒される事は知っていた。1週間前、木登りに励んでいた少年が足を滑らせ骨折してしまったから。 この木は危険だと、大人たちが話していたから。 ここまで立派に育ったところを切るのは残念だけど。 子供たちの安全の方が優先だと。 身を切られるのは痛い。しかし、少年を助けられなかった時の方が、もっと痛かった。 ガリガリと身を裂かれる音。 少し離れた所で、見守る大人たちがいた。松葉杖をついた少年がいた。黄色い帽子をかぶった少女がいた。 泣いていた。 少女は泣いていた。 泣き叫ぶ少女を、母親が必死に止めていた。今その手を離せば、少女はきっと駆け出す。 金属の刃は、すでに体の半分以上を裂いていた。駆け寄る彼女を潰すわけにはいかない。 ――近付いたら危ないんだよ。 ぼくの声はきっと届かないだろうけど。 もう少し。もう少しで倒れる。 この痛みはいつまで続くんだろう。早く解放されたい。 ……切り倒されたら、どうなるんだろう? そうだ、松葉杖になりたい。 足が不自由になってしまった人を支えたい。まだ歩けるんだと励ましたい。 右足のギブスが痛々しい少年は、唇をきゅっと結んでいた。きゅっと結んで、見つめていた。 ――きみが悪いんじゃないよ。 きみのせいで切られているんじゃない。 きみを助けられなかったから。 ――ごめんね。 ぼくの声は、きっと届かないけど。 刃がさらに食い込む。とうとう体を支えきれなくなったぼくは、横に倒れ―― ――悲鳴。 母親から逃れた少女が駆け出した。一直線に、ぼくに向かって。 倒れるぼくに向かって―― ――ズンッ! 悲鳴は叫びに変わった。母親は気を失い、大人たちは顔を手で覆った。少女は―― ――少女は。 やはり、泣いていた。 横倒しになったぼくの脇で。ぼくにすがり付いて、わんわん泣いていた。 「ごめんね、ごめんね」 何度も何度も謝り続ける少女に傷ひとつない事を確認して、心から安堵した。よけるのがもう少し遅れていたら、少女まで傷付けるところだった。 「ありがとう、ありがとう」 謝罪は感謝に変わっていた。 不思議な少女だ。まるでぼくをわかっているかのように。 「ありがとう……」 ――どういたしまして。
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がたんっ――体を揺り動かされて、まぶたを開いた。いつの間にか眠っていたらしい。振り返り窓越しに駅名を確認する。 寝過ごしてはいないらしい。 シートの居住まいを正そうとしたら、肩が妙に重い。左肩には女の頭が乗っていた。彼女はまだ夢の中。 走り出した電車には人気が少なかった。平日の昼過ぎだから、まあこんなもんだ。 制服姿の俺と彼女を見て、咎める人間は誰もいない、平和な昼下がり。と言っても、この平和が始まったのはついさっきからだ。ほんの1時間遡れば、期末試験真っ只中。 試験後の平和かつ自由な時間を、めいっぱい噛み締め中。 「……あれ。駅、まだ?」 彼女が起きた。 「あと2つ」 頭の中に路線図を広げて答える。 「中途半端に起きちまった〜」 何故か悔しそうにうなる彼女。 「寝てりゃいいじゃん」 正論を放ったつもりが睨まれた。 「あと5分くらいじゃ、寝るに寝れないでしょ」 まあ、わからないでもない道理ではあるけど――と、納得する事にした。 「試験終わった日って気持ちいいな〜」 シートの上で思い切り身を伸ばす彼女。振り上げた拳がコツッと窓に当たった。 「いたっ」 「そんなに痛くねーだろ」 「痛いと言えば」 どんな話題転換だい。 呆れる俺を知ってか知らずか、彼女の唇は話を進める。 「全然痛くないのに『痛い』って言っちゃう時、ない? 痛くないはずなのに」 「……たとえば?」 ケースが思い付かない。 「カバンが物に当たった時」 「痛くねーじゃん」 「痛くないよ」 彼女はしれっと頷いて。 「でも何故か、『いてっ』とか言っちゃってない?」 ……言われてみれば、思い当たる節はあった。 「ほら」 俺の表情から読み取ったらしい、覗き込んだ彼女が頬で笑んだ。 ――ありがとう―― 既視感。 彼女に似た幼い笑顔――はて、どこで見たか。 ……ああ、ついさっきだ。 夢にしては、あまりに現実味を帯びた夢。 速度を落とした電車が、ホームに滑り込んだ。 「――あ」 振り向いた窓越しに駅名を確認した彼女が、やおら俺の膝を叩き出した。 「カラオケ行こ、カラオケ」 「試験の打ち上げ?」 「そう!」 言うが早いか彼女は立ち上がり、まだ開いてもいないドアに駆け寄った。 よし、久し振りに喉がかれるまで歌おう。 俺が彼女と並ぶのを待って、ドアが開いた。ホームへ飛び出した彼女に置いてかれないよう小走りで続く。 「おーい、走る事ないんじゃねーの?」 急ぐ理由なんてない。まさかカラオケが逃げるとも思えないし。 「早く!」 振り向きざまに急き立てた彼女は笑顔で―― ――ありがとう―― ――はっとした。 夢の少女。彼女。 その笑顔は、あまり似ていた。 「――ハル?」 発射ベルがけたたましく鳴り響く中でも、彼女の声音は明瞭に聞き取れた。 我に返った俺はかぶりを振って、 「何でもねーよ」 立ち止まった彼女に追い着いた。 「すっごい、ぼーっとしてなかった?」 「徹夜で勉強してたから」 何やら訝る彼女にはぐらかす。 「一夜漬けかい」 「追い込まないと勉強する気が起きねーんだよ、俺」 怪訝は払拭できたようで、いつも通りの笑顔に戻った。 2人肩を並べて階段を昇って、自動改札機を通る手前で――彼女に聞きたくなった。 「――なあ」 「何?」 カバンの中からパスケースを探す横顔に質問を投球。 「カノ、前世って信じる?」 「……は?」 「あからさまにバカにしてんだろ」 「ハルの口から前世って」 見付け出したパスケースで肘を叩かれた。 「珍しい事もあるもんだ」 「だよなー。でもさ」 改札口を抜ける間際に言う。 「俺とカノ、前世で会ってるかも」 「…………」 「パスケース落としてるって」 「珍しいっていうか……」 パスケースを拾い上げた彼女は真顔で、 「……キモい」 傷付くわー。 真顔でキモいって。 傷付くわー。 「何、惚れ直したとか言ってほしいの?」 不気味なものでも見るかのような視線が激痛。 まあ、信じねーよな。 「……何でもない」 「ふてくされんなよー」 駅舎を出た俺の、脇に引っ付いた彼女は、極めてしれっと言いのけた。 「前世が何でも、今こうしてんだからいいじゃん」 「…………」 ……そっか。 「……どうした?」 そうだ。 「それ、真理だわ」 「何それ」 「いや、こっちの話」 「何だよそれ」 「今日はめいっぱい歌うぞー!」 「意味わっかんねー」 呆れる彼女を引き連れて、俺は大股で踏み出した。
♪END♪
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