「極度の宇宙酔い、ですね」 船橋に集まっていた面々に対し、船医は冷たく言い放った。
シャイクが倒れたとの伝達が成されたのはヘファイトスとは同星系内にあるティスローを離れ、長距離航行には欠かせない亜空間航法に入った直後のことだった。 短距離の空間跳躍と異なり、数十から数百光年の距離を越えるには、亜空間の深度及びその滞空時間は長くなる。 その間、どのような原理かは解明されていないまでも船内では重力異常が発生しやすい。 慣れていない人間や体質的に受け付けない人間たちも勿論いるため、旅客船等では乗客全員に睡眠薬が渡すのが定石となっている。 あくまでも、服用するかしないかは乗客の判断にゆだねられるが、「行き届いたサービス」の一環として慣例とされているらしい。 しかしこの処置が、実はこの時幻覚などの知覚異常をきたす人間も少なからずいるためだということは一般にはあまり知られていない。 それらの様々な症状を含めて、空間跳躍の際のもろもろの症状は宇宙酔いと総称されていた。 補足すれば、一応かつて人類が宇宙空間に進出し、暫くの間悩まされ続けた無重力状態への適応期間のそれとは症状は大幅に異なっている。 亜空間航法を用いないで長距離航行を行う船もないではなかったが、その船の機構は公とはなっておらず、一部の限られた人々のものとなっている。 謂わば、それは存在自体が最重要機密とされるものなのだ。 現状では。 当然、足が速いことと多少危険な―と言うには御幣があるかもしれない―仕事も請けることでそれなりに名は通っていても、あくまで民間の貨客船でしかない今のこの船にそのような機構が搭載されている筈もなく、現在の事態に至っている。 優れた技術があると分かっていても手に入らない現状では、必然亜空間航法に頼らざるを得ない。 その中であっても普段と変わらない能力を発揮し、冷静な対処、迅速な行動が出来ること。 それもまた現行の船の乗組員なら誰にでも求められる必然だった。 であればこそ、ディアンケトが放った言葉は全くもって正論ではある。 彼自身のことを完全に棚上げしていることを除いては。 「全く、重力酔いする整備士なんて聞いたこともない」 シャイクに意識があれば真っ赤になって怒り出すだろう言葉を、自身も酷い重力酔いであることはおくびにも出さず、呆れたような口調で呟くその顔は相変わらずの無表情だ。 しかしよく観察してみれば、気だるげに掻き揚げられた栗色の髪の間から覗く翡翠の瞳はわずかに苦痛を滲ませていた。 そんなディアンケトに、ヘルマはこっそり苦笑をこぼした。 滅多に自らに宛がわれた船室から出て来ない船医の減らず口と態度の大きさは、相変わらず健在のようだ。 これでこの男は明晰な頭脳と卓越した技術を持つ名医なのだから―多少困った性癖があるにしても―なかなかの曲者だ。 無論、この船に曲者でない人間などいないが。 「とりあえず、薬で無理矢理眠らせてありますから、当面のところは問題ないでしょう。私も部屋に戻らせて頂きますよ」 大儀そうに溜息をつきながら船橋を出ようとしたディアンケトの背中にラスが声を掛ける。 「ディア、体調の悪いところを済まなかったな」 その声に、肩越しに振り返り、皮肉気な笑みを微かに浮かべるとディアンケトは応える。 「仕事ですからね。彼さえいなければこのような思いをすることもなかった、という愚痴は言わないでおきますよ」 貴方の事だから何か思うところがあっての処置でしょうからね、と何かを推し量るような目をしたのはほんの一瞬のことだ。 何事もなかったかのようにアイシスに目を向ける。 愚痴ってるじゃないのよ、というアイシスの言葉は黙殺したが届いていなかった訳ではないらしい。 好戦的な輝きを瞳の底に秘めて、ディアンケトは言葉を継いだ。 間違いなく面白がっている。 誰も気付かないほど、彼の感情表現は分かりづらいが。 「ですが、次からはあらけじめ彼を眠らせておいて頂きたい。 アイシスの馬鹿力で無理矢理叩き起こされるのは寝覚めが良いとは言い難いのでね」 意味ありげな視線をアイシスに投げ掛けると、彼は今度こそ船橋を出て行った。
「はぁ……良かった、単なる宇宙酔いで」 船橋の扉が閉まると同時に、吐息と共にアイシスが呟いた。相当緊張していたのか、大きく息を付くと椅子に体を投げ出すように深く座り込んだ。 「余程慌てていたんですね、私ではなくディアのところに行くだなんて」 不思議そうに首を傾げるヘルマの言葉に、アイシスは体を強張らせる。 考えてみれば不自然な話だ。 ヘルマは宇宙酔いが酷いディアンケトに代わって、 彼が休んでいる間はその任を預かっている。その上、ディアンケトの重力酔いと共にアイシスのディアンケト嫌いもまた周知の事実だ。 しかも、この態度。 「だって、こっちよりアイツの部屋の方が近いでしょ? いきなり倒れるんだもの、シャイクったら。吃驚するじゃない」 「それでも、彼を起こすよりは早かったと思いますけどね」 冷静に指摘しながら、ヘルマはアイシスを観察する。 目が泳ぎ、意味もなく指先で服の縫い目をなぞっている。明らかに挙動不審だ。 今時幼児でも、こんな見え見えの誤魔化しなんてしないだろうに。 苦笑いするヘルマに、アイシスに代わって答えたのは今まで沈黙を守っていたアキだった。 「アイシスはてっきり、ストレス性の発作かと思ったのよね」 「アキっ!」 思わず声を上げるが遅い。 少女の声はしっかりと他の二人にも届いている。 「……発作?」 突拍子のない発言に、ヘルマはラスと思わず顔を見合わせる。 発作性のある持病などはなかった筈、と首を傾げたヘルマにアキが静かに告げた。 「あんまり苛め過ぎたものだから、とうとうストレスが限界にきたんじゃないか、って」 アキの言葉に空調がしっかり機能している筈の船橋内に冷気が漂う。 思わず逃げ腰になりかけるも深く座り込んでいたことが仇となり、ヘルマに前に立たれたアイシスは逃げ道を失った。 「アイシス……あなた、シャイクに何をしていたんですか?」 優しげに微笑んだ表情とうって変わり、その声は冷ややかだ。 「へ、ヘルマ……何か恐いわよ?」 へらへらと、なだめるような愛想笑いをアイシスが浮かべても、ヘルマの氷の微笑は崩れない。 美人は怒っても綺麗だと言うが、ヘルマもその例に洩れず、美しいがゆえにその恐ろしさもまたひとしおだった。 「何を、していたんです?」 彼女のやることに意味がないとは思えない。 アイシスは普段のふざけた言動とは裏腹に、胆の据わった冷静な技術者だ。 他者の気持ちを理解し、能力に相応しい役割を与え、良好な関係を築くのにも長けている。 そんなアイシスがいじめというのは初耳だ。 確かに最初の数日を除いてヘルマ自身はほとんどシャイクとの接触がなかったが、何か問題があるようならば知らせてくれるようにポーラにも頼んであった。 実際に問題があったなら、彼女が伝えてこない筈はない。 特に彼に関する事であれば。 しかし、船内をほぼ掌握しているポーラと言えど死角がない訳ではない。 そして、アイシスはそのほとんどを把握している。 アイシスを疑いたい訳ではない。 ただ、手を離れたとはいえ、一度はその身を任されたヘルマとしてはシャイクの問題を見過ごす訳にはいかなかった。 彼を支障なくこの船の中で過ごさせるのに妨げとなる可能性は、多少のことでも考慮から外す訳にはいかない。 問題は小さいうちに摘み取るに限るのだ。 このような、密室においては尚更に。 ヘルマはアイシスの責任を徹底追求することに決め、厳然と彼女を見つめた。 「た……ただ、少しばかりからかってただけだってば」 冷や汗をかきながらも、必死でヘルマを何とか宥めようとするアイシスの努力を無に帰すような言葉を再び発したのは、やはりアキだった。 「その割には、胃に穴が開いてたらどうしようだの、心臓血管系に異常が見付かったりしたらだの言ってなかったかしら? ヘルマに怒られるのは恐いからって、あの能面のとこに行ったくせに」 アキのこの上もないダメ押しに、アイシスはガックリうなだれた。 ここまで来たら、ヘルマが彼女を何事もなく許す可能性は限りなくゼロだ。 アイシスの不幸は、この場に自らを擁護してくれる、そして唯一アキのストッパーたり得るセイがいなかったという、その一点に尽きた。 「アキ〜。あんただって一緒にからかっていたじゃない〜!」 こうなれば一蓮托生、一人だけ逃がしてなるものかと驚くほどの切り換えですがりつくも、虚しく切り捨てられる。 「だって、私はそんな心配してないもの」 アイシスの手を払いのけ、腕を組むアキの表情に場が凍った。 激しい口調。 シャイクに対する敵意を隠すことなくありありと滲ませて、アキは冷たく言い放つ。 「アレくらいでダメになるようなら家出なんてしなきゃ良いのよ。 帰る家があるんだから」 「アキ……」 普段、冷めた瞳に一瞬宿ったそれは迂濶に手を伸ばすことを躊躇わせるには十分過ぎた。 言葉を失う一同を見回し、軽く息を付くとアキはきびすを返す。 「もう、戻るわ。 兄さんを一人にしておくのも心配だし」 肩越しに視線を投げて、一切の接触を拒絶するその背は船橋から消えた。
「後で心配するようなら、どうしてからかったりするんですか?」 気詰まりな空気を破ったのはヘルマの声だった。 いつの間に冷静さを取り戻したのか、既に先程の冷たさは声音から消えている。 「だって……あの子、反応が面白くって可愛いんだもの」 あくまでもはぐらかすアイシスを、そういう問題じゃないでしょう、とたしなめるヘルマの声には呆れが混じっている。 「いくら優秀な技術者だったとしても、彼はまだ子供なんですよ?」 「そのあたりにしておけ、ヘルマ」 尚も続けようとするヘルマを止めに入ったのは一人傍観を決めこんでいたラスだ。 「ですが……」 振り返ったヘルマには、まだ融かしきれない凝りのような僅かな不満が残っていた。 そんなヘルマの表情を見て取ったのだろう、ラスは静かに首を振る。 アイシスが行っていたのは単なるからかいでしかなかっただろうということはヘルマにも想像がついていた。 彼女が悪意をもって彼に接する筈がないということも分かっている。 だが、悪ふざけも過ぎれば問題となり得、その微妙な違いを決めるのは行為者ではなく被行為者である。 アイシスがいくら問題ないと主張しても、シャイクがそう感じていなければアイシスの主張は通らないのだ。 そしてこの場合、被行為者であるシャイクには当初より問題が垣間見えていた。 技師の募集は急ぎではなかったし、年齢的にも不適応な彼を仮とはいえ採用した理由の一つはそこにある。 全てを投げ捨て、全てからの逃避を切望する……怒りや憎しみや悲しみがない混ざり、その年齢に不相応な悲愴さを漂わせた瞳を見捨てることはできなかった。 ある意味では自殺志願者を見過ごせない、そんな感覚にも似ていたと言える。 その年齢から、あるいは身体的問題、精神的問題から他の船では決して受け入れられまい。 そもそも、突然アポもなく必要書類も何も持たず押し掛け、あまつさえあまり礼節をわきまえていたとは言えないあの態度では相手にはされよう筈もない。 ただの子供であれば、あの時対応したのがラスとヘルマでなければ……この船であっても、彼を雇うなどと言うことは有り得なかっただろう。 人に対する不信を全身から発していながら、そんな自分をも責めている、そして追い詰められながらも全てを変えたいと一縷の望みにすがりつこうとしている子供を見捨てるような真似はできなかったのだ。 彼がどうしてその様になったのかは知らない。いずれ、彼が心開けばその口から聞くことが出来る日もくるだろう。 だが、分からずとも彼を受け入れることを―例え一時の避難所にしかならないとしても―決めたのは他ならぬ私たちだ。 ならば我々がそのことに気を配ることは当然の義務である。 それはセイやアキのような若年者を除いたクルー全員に共通した認識でもあった。 出来れば年の近い者といる方が良いだろうと思えたし、基本的な仕事を覚えて貰うためにアイシスの元につけてはみたが、先程思わぬ形で発露したアキの感情も鑑みるに、シャイクのためにも一度他の部所へ変わった方が良いのかもしれない。 ため息を付きつつアイシスを見やれば、どうとでもして頂戴とでも言うかのように、肩をすくめて見せた。 元々、仕事内容としては何でもありの雑用だと伝えてある。 能力的にも彼ならば任せられる仕事はそれなりにあった。 「試しにディアにまかせてみるか?」 兼業……というよりは趣味を無理矢理仕事として認めさせたに近い情報収集業の助手が欲しいと溢していたということは、ある人物から伝え聞いている。 その人物が是非希望を聞いてやってくれと言っていたことを受ける形になるのは若干腹立たしくもあったが、物は試しだ。 ディアンケトの子守りを押し付ける気か、と言って顔をしかめる様が眼裏に浮かんだが、ラスはそれを決定事項としヘルマにシャイクとディアンケトの双方に伝えるよう命じた。 ヘルマからも、話を聞いていただろうポーラからも反対はなかった。 あんなのと一緒にしたらシャイクの性格がもっと歪んじゃうーと叫んだアイシスの発言はしかし、 「元はと言えば、お前の管理不行き届きが遠因だろう」 の一言の下に封じられた。
|
|