私は気がつくと病院のベットにいた。個室のようで私が寝ているベットの他にベットは無く、誰の姿も見当たらなかった。体のあちこちが少し痛む。その一方なんだか頭がぼーっとする。私はとりあえずナースコールのボタンを押して看護婦を呼んだ。看護婦はすぐに来てくれ、私に話しかけてきた。
「気がつかれたんですね。よかったー。」
私は尋ねた。
「すみません、あの、私はなんでこんなところにいるんでしょうか?」
「覚えてませんか、あなたは三日前の深夜バイクと接触事故を起こしてここに運ばれてきたんですよ。外傷はたいしたこと無かったんですが、意識が戻らず昏睡状態だったんですよ。それで今までここに入院してたんですよ」
看護婦は話を続けた。
「脳のCTスキャンの結果は異常無かったんで、意識が戻ったならすぐ退院できると思いますよ」
「そうですか。ありがとうございます」
「それで失礼なんですが、あなたのお名前を教えてもらえませんか」
「え?私の名前ですか」
「ええ、あなたの身元を明らかにするようなものが無かったです。事故に遭ったときポケットには千円札が何枚かと小銭が少し、あとたぶん家の鍵だと思うものしか入って無かったですよ。それらの所持品はベットの脇のケースの引き出しに入れときましたね。そういうわけなのでお名前を教えてもらえませんか」
そう言われ私は自分の名前を看護婦に伝えようとした。だが、それは私の口から出てくることは無かった。
「・・・思い出せない」
私はそうつぶやいた。
「今なんておっしゃいました?」
看護婦は聞き返した。 私は落ちついた声ではっきりと答えた。
「自分の名前が思い出せないんです」
看護婦は一瞬驚き、だがなんとか落ちついた態度で接しようとしてこう言った。
「本当に思い出せないんですか、もう一度良く考えてみてください。事故のショックで記憶が混乱してるのかしら?」
私は何とか思い出そうと懸命に試みたがついに思い出せなかった。
「無理です、どうしても思い出せません」
「そんな、検査では異常無かったのに」
看護婦は明らかに動揺していた
「今は西暦2×××年の10月7日です。それは分りますか?ほらあそこに貼ってあるのが今月のカレンダーです」 そう言われて私はカレンダーを見た。そうか今日は10月の7日なのか。10月7日?なんだ10月の7日、そうだ10月の7日は私にとってなにか特別な意味を持った日だったはずだ。そう、何の日だったかは思い出せないが私にとってとても重要な日。
「わかります。今日は2×××年の10月7日です」
私は答えた。 看護婦は少し落ちつきを取り戻したようだった。
「看護婦さん、私はどこで事故に遭ったんですか?」
「○○町のコンビニの近くの交差点で事故に遭ったんですよ」
「そうですか・・・。」
「それがどうかしましたか」
「いえ、ちょっと気になったんで」
看護婦はちょっと考え込んでこう切り出した。
「ちょっとこのままここで待っててくれませんか。今担当の先生を呼んでくるんで。もう一回精密検査をしなくてはならないかもしれませんのでここでじっとしていてください」
「わかりました」
私がそう返答すると看護婦は走っていった。 看護婦の姿が見えなくなると、私はベットの脇のケースから金と鍵を取り出した。そしてパジャマのまま病室を出てエレベーターを使い1階まで降り、病院の入り口前に止まっていたタクシーに乗り込んだ。
「お客さんどこまで行くの?」
運転手にそう聞かれ、私は看護婦に聞いた事故の現場まで行ってくれるように頼んだ。事故の現場に行けば何か思い出せるかもしれない。私はそう考えていた。すこしでも早くその場所にたどり着いて欲しかった。だが渋滞に巻き込まれなかなか車は進まなかった
「お客さん、なにしてる人なの?」
渋滞で止まってる最中、運転手はそう話しかけてきた。
「私は自分が何者かわからないんですよ」
私はそう答えた。
「へー、お客さん哲学者だねー。いや、私も昔大学で哲学を専攻していたんですよ。 自分は一体何者なのか、人生の命題ですね」
私は運転手の話を黙って聞いていた。
「でも知らない方が身の為なのかもしれませんねー、自分が何者かなんて。知ってしまえばちっぽけな自分という存在に絶望してしまう、そんなもんかもしれないですねー。お、やっと動き始めた」
そういうと運転手は話を止め、車を発進させた。 運転手の話に反論する気はなかったが、私は一刻も早く自分が何者なのか知りたかった。自分が何者でもいい、自分が何者であるかということを理解できていれば、そう感じていた。
「お客さん着きましたよ」
運転手にそう言われ、私は引出しから持ってきたお金で料金を支払いタクシーから降りた。そして事故の現場に立ち、私は当日のこと思い出そうとした。 私はここで事故に遭ったんだ。あの日、交差点で渡ろうとした私に反対方向から左折してきたバイクとぶつかったんだ。私は少しずつこんがらがっていた記憶の糸がほぐれていくのを感じた。そうだ、私はあっちからコンビニに向かって歩いてきたんだ。私は少しずつ記憶をたどりながら自宅までの道をたどっていった。 やがて私は一軒の家の前に立っていた。入り口には表札はかかっておらず、玄関には鍵がしまっていた。持っていた鍵を使うと簡単に鍵は開いた。私は恐る恐る玄関を開き中に入った。玄関には何足か同じ大きさの男物の靴が置いてあった。他に靴は見当たらない。どうやら私はここに一人で住んでいたようだ。
プルループルルー
突然、近くで電子音が鳴り出した。音のするほうをむくとそこには電話があった。 私は受話器を取り電話に出た。
「もしもし、どちら様ですか」
「私ですよ、私。なにとぼけてんですか」
「私といわれても思い出せないんですが」
「もー、しょーがないな、私ですよ、土橋、土橋健太ですよ」
土橋健太、聞き覚えのある名前だ。
「土橋さんは私のことをご存知なのですか」
「知ってるに決まってるじゃないですか。もう何年の付き合いだと思ってるんですか。 それより約束ちゃんと覚えてるんでしょうね」
なんだろう、もう少しでなにかが思い出せそうな気がする。
「私はあなたとなにか約束をしたんですか?」
「さっきからなにいってんるんですか。このまえちゃんと約束したじゃないですか。しっかりしてくださいよう」
「どんな約束をしていたんですか?」
「本当に覚えてないんですか?冗談もほどほどにしてくださいよ」
「すみません、本当に思い出せないんです」
「・・・今日10月7日が何の日か本当に覚えてないんですか?」
10月7日、その言葉に私は反応した。
「今日、10月7日がなにか重要な日だったのは覚えているんです。でもどうしてもそれが何の日か思い出せないんです」
会話に少しの間、間が空いた。
「一度しか言わないから良く聞いてくださいよ」
「はい」
「今日、10月7日は」
「はい、10月7日は」
「先生、あなたの原稿の締切日でしょ!今からそちらに伺いますからそれまでに原稿仕上げておいてくださいよ!」
その言葉を聞いて私は全てを一気に思い出した。私と土橋氏とは、作家とその担当編集者という関係で長年の付き合いだった。あの日、私は遅々として進まぬ原稿に嫌気が差し、気分転換にコンビニに買い物に出かけたのだ。そこで事故に遭い記憶喪失になってしまったのだ。 私は呆然と立ち尽くした。そして、ぼんやりと、またどうにかして記憶喪失になれないか等と考えていた。
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