「あなたも私の名前聞いてくれないのね」
「え?」
私が彼と出会ったのはホテル街だった。私はその辺の商売の女の人に混じってそこに立っていた。そうしていつものように通りがかった彼に私が声をかけたのだ。
「お兄さん私と遊んでかない?」
つきなみとすら言えない陳腐な台詞だった。
「いや、遊びたいのは山々なんだけどお金ないから」
彼は愛想笑いをしながら足早に通り過ぎようとした。
「私タダでいいのよ」
「え?」
私の言葉に彼は足を止めた。
「私商売でやってるわけじゃないから」
「ほんとにタダでいいの?」
おずおずと彼は尋ね返してきた。
「うん、タダでいいのよ」
そんなやり取りをして私たちはホテルの部屋へと入っていった。
事がすんで私達はベットで隣り合わせに横になっていた
「男の人ってみんな自分の欲望に忠実よねー」
「いや、めんぼくないです」
照れくさそうに彼が答えた。
「最初はあなたのように手持ちのお金がないとか、忙しいからとか言ってるのにタダでいいのよって言うと9割方の人がほいほいつい来るものね。残りの一割のひとは美人局(つつもたせ)なんじゃないかとか警戒しちゃうみたいだけど」
「あはは、そうなんだ」
彼はまた愛想笑いをしながら答えた。
「ところで」
「ん」
「あなたも私の名前を聞いてくれないのね」
「え?」
「あなたで何人目になるか、いちいち数えてないから分からないけどこんなことしてるのに誰も私の名前を聞いてくれないのよね。聞いてくれれば素直に教えてあげるのにね」
「いや、あの、教えてくれるっていってもどうせ源氏名でしょ」
彼は困ったようにまた愛想笑いをしながら答えた。
「言ったでしょ、私商売でやってるんじゃないって。源氏名とかはないのよ」
「あの、じゃあ、なんでこんなことしてるの?しかもタダで」
彼の問いに少し間をおいて私は答えた。
「別にたいした理由じゃないんだけどね。ただ、私は…」
「私は?」
「誰かの特別な存在になりたいの。そうなるのにはこういう手段が手っ取り早いかなって」
「…」
「別にお互いの名前も呼び合わないこういう関係も割りと居心地よくて悪くないと思ってるんだけどね」
「…名前」
「なーに?」
「おしえてよ、名前。聞いたら素直に教えてくれるんでしょ」
彼は真剣な顔をして私に聞いてきた。
「だーめ。タイムアップ、時間切れよ。私が名前のことを言う前に私に聞いてきてくれた人にしか教えないことにしてるの。ちなみに私が名前の話してから聞いてきてたのは3割ぐらいかしらね」
「…そっか」
「まあ、今日はもう終電もないしこのままお泊りしましょう。私は明日は出社しなくちゃいけないからもう寝るわね。」
「うん、わかった。おやすみ」
そうして私は彼より先に眠り、朝になると彼より先に部屋を後にして、朝一の電車でアパートに帰ると服を着替えて出社して、夜になるとまた昨日と同じホテル街にいた。
「今日はあんまり人とおらないなー」
その日はいつもより人通りが少なく私はボーっと何時間か立ちっぱなしだった。
そのためそんな独り言を呟いて(つぶやいて)いていた。
そうしたら彼が通りかかった。昨日の彼だった。昨日と同じスーツ姿で昨日と同じように歩いていた。
「あのまま会社いっちゃったんだろうなー、男の人は気楽でいいなー」
彼の姿を見て私はそんな言葉を漏らした。
そうすると彼は私に気が付いたのか、こっちに向かって歩いてきた。
「気がついたのかな?」
彼はどんどんわたしに近づいてくる。彼は私に話しかけてくるきなのだろうか?昨日みたいなことがまたしたい、そんな話だろうか?
「しょうがない、また相手してあげるとするか」
私は彼がこっちに来るのを静かに待った。
彼は歩いてきて私の正面に立つと私に話しかけてきた。
「こんばんは」
「こんばんは」
「あの、昨日はありがとうね。いや、ありがとうはおかしいな。ぼくはそのあなた…、いや君に」
彼はもごもごとくちごもって私のことをどう呼んでいいのか悩んでいるようだった。しかたのないことだろうお互いに名前を知らないのだから。
「なーに、よく聞こえないよ。はっきり言って」
私は少し彼に意地悪をした。
「ぼくはその、あの…」
「ちゃんとはっきり言ってってば。一回深呼吸してゆっくりしゃべりなよ」
「うん、ありがとう。」
彼はゆっくりと深く深呼吸をした。
「それじゃ言うよ」
「うん」
「僕は」
「僕は?」
「僕は…」
「ちょっと男なんでしょ、はっきりいいなよ」
「ごめん」
「じゃあ、気を取り直してもう一回」
「うん、僕は」
「うんうん」
「速水サキさん、あなたのことが好きです」
彼は大きな声で叫んだ。まわりの女の人が何かと思ってこちらを見た。
「え?」
それは私の本名だった。
「なんで、なまえ。おしえてないのに…」
「…悪いとは思ったけどかばんの中調べたんだ。」
「うそ、いつ?」
「…君が寝てる間」
彼は言葉を続けた。
「朝起きたら君はもう部屋にいなくて、でもなぜか君のことが忘れられなくて…。それでここにくればまた君に会えるかと思って」
私は少し呆然とした、そして
「あは、あははは」
笑い出してしまった。
「笑わないでよ、これでも僕は真剣なんだから」
彼は真っ赤に赤面しながら答えた。
「あはは、私もいろんな人にあったけどかばんまで調べた人はあなたが始めてだわ」
「だって、他に方法が浮かばなかったから…」
彼はうつむいて恥ずかしそうに答えた。
「じゃあ、いきましょうか」
私はなんだか少しうれしくなって、彼の腕を組んだ。
「え、いくってどこに?」
「決まってるでしょう、昨日の続きをしによ」
「え、ちょっとまって」
私は彼にとっての特別な存在になれたのだろうか?私達は彼氏と彼女になっていくんだろうか?それは私には分からないが、私の心はうきうきしていた。
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