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手が届かない何かをつかもうとするように空に手を伸ばしたわたしは、しかし何をつかむでもなく、手を握る。気分的には、あともう少しで届きそうで、でも届かないといった感じ。そういう微妙にブルーな気分に浸っていたわたしは、目の前の数学の問題に眼を向ける。 外に宿題を持ち出してよかった。 わたしはそう思った。家ならとっくに何か別のことをしてたし。 目の前にあるのは問題用紙を貼り付けているクリップボードとシャープペンシル。基本的な勉強道具。別のことをしようと思ってもほかのものがないし、できない。だから取り組めるのでよくここにきていた。それに涼しいし。 わたしがいるのは木の真ん中へん。わたしが住んでいるところから少しだけ離れた場所に立っている巨木で、高さが何メートルあるかなんて考えたことがなかったくらいとても高い。ちなみにここは風が流れていてとても涼しい。 最初は、わたしでも上れるかも、と思って上り始めてはみたのだけれど、案外のぼってみるとこれが面白い。もとより高所恐怖症ではと思っていたわたしであったけど、学校の屋上とかと違い、ここだと不思議に足がすくんだりとかは起こらなかった。 クリップボードに眼を向けるとシャープペンシルを走らせる。 しかし飽きっぽい性格がたたり、何もできないこの場所でこの問題以外に何かできないかと考えあぐねていた。問題を解きながらそのような器用な考え事をするということをわたし自身、特に何も考えていなかったが、そのような特性に注目したわたしの友人は、複数のことを同時にできるマルチタスク? なる言葉を持ち出してきた。 わたしがはてなマークを頭に浮かべていると彼は詳しく説明してくれたが、興味なかったので特に覚えていない。思えば頭にすら入っていなかったような気がする。頭に残っているのは、どうやらそれは二つのことを同時にする、とかなんとかそんな話だった。 マルチタスクねぇ。そんなの、できたらいいなぁ。とわたしは問題になかなか集中できない自分をふがいなく思いながらもうなずいた。 でも実際、文字を書く手は一本しかないし、二つのことを同時になんて、できないよ。ともぼやいてみたり。全く、彼が何の目的でそのようなことを言ったのか理解できずにいた。 腕時計を見て見ればここに来て早1時間が過ぎていた。目の前の問題用紙はほぼ白紙の状態だ。 「何をしにここまできたのだろうか」とふと言葉が漏れた。 『よし』と気合を入れなおし、問題に取り組みなおそうとすると、それをぶち壊しにするかのような明るい、少し高い少年の声が響く。 「ナギサぁ」 さっき言ったわたしの友人である。ついでにひとつ上の三年生。ちなみにナギサってゆうのがわたしの名前。彼の名前は、マコト。所属部活、なし。わたしも、なし。 「またそんなところにいる」 あなたに言われることじゃないし、と内心思いながらも、 「なに?」 わたしは彼に聞く。 「ちょっと待って!」 とだけ言うと、華奢な体つきの彼は足を木にかけるとするするとあっという間にわたしの居る真ん中辺りまで登ってくる。 「ナギ、こんなところで数学のお勉強?」 問題用紙を指差しながら彼はわたしに聞いた。 「そうだけど・・・・・・、 で、何?」 「つれないなぁ。心配してきたというのに」 「おそらくそれは無用な心配です」 わたしはシャープペンシルを握りなおすと問題に向き直る。真剣に見えるわたしに、彼はそれ以上何も言わなかったが、時折、ニヤニヤ笑ったかと思うと問題用紙を指差して、 「ここ間違ってるヨ〜」 とか言ったりするもんだから怖そうに見える眼でにらみ返す。彼はそれに動じずに、 「ほんとにもう」と言いながら、実際には面白いもの見ぃつけた! っていうある種の子どものような表情をしながら問題の説明をしてくる。しかもその説明がばっちりあたっていたし、しかもわかりやすかったから余計に手に負えない。 別に今に始まったことではなかった。もう結構前から苦手な数学は彼から教えてもらっていたりした。 そして課題をわたしの力で(プチ彼)やり終えた後は、おしゃべりに興じているうちに眼がうとうと。 眼が覚めたときにはあたりはすっかく暗くなっていて、いや、『暗くなっていて』をかなり通り越して真っ暗だった。何も見えない。 「マコ、いる?」 わたしの問いに、ちょこっと上のほうから 「いるよ」 との彼の声があった。わたしは寝入ってしまったこと(しかも男の子のとなりで)に顔が赤くなるような気持ちにかられながらも、どうしよかと考える。携帯電話はもとからもっていなかったので誰にも連絡のつけようがない。下は全く見えないので、降りるのはかなり怖い。夜空には、はっきりとは見えないが雲が覆いかぶさっていて、全く微かな星明りさえも見えなかった。 『遭難』という言葉がふと頭をよぎった。 落ち着け〜、落ち着け〜。こういうときにパニックになったらその結果は死のみ。大げさだが落ちたら死んじゃいそうなくらいここは高かった (こんな場所で寝るというのもアレだが)。唯一下が草地であるというのが救いかもしれないが。 まずは時間チェック。腕時計を見ると十一時を示していた。いやはや、夜光塗料万歳。初めて夜光塗料の恩恵にあずかった。でも十一時ですか。親が警察とか電話していないと良いけど。 「で、何か明かり持ってないの?」 「・・・・・・持ってるワケないよぉ。それとも何? もしかして、暗くて怖いとか。ふっ、意地っ張りのナギちゃんがねぇ」 ぶちのめす。とわたしは心に決めながらも 「ちょっと、降りてきてよ。何してるの?」 「ちょっとね、空を見てた」 「空? でも曇ってるし、何も見えないんじゃないの?」 空は確かに曇っている。葉っぱに阻まれてはいるがすくなくとも光の点は見えない。 「それは想像力の欠如だよぉ。見ようと思えば何でも見えるのが人間なのさ」 そんなことを言いながら彼は「こっち、こいよ」 と手を出してきた。 彼につかみあげられる形で一段、また一段と木を上っていく。華奢な体格のくせに案外力がある。葉っぱを掻き分けると、彼は刀身の長めなナイフ (いつもそんなもの持ってるの?) を腰のケースから引き抜くとそれで枝打ちを始める。枝を何本かたたき落としたところで上が見える。 ずっしりとした重みのある暗闇だけがそこにはある。 「もうそろそろだから」 と、何も見えない空と何も見えない下を見てすこし怖がっていたわたしに言う。 「あ」 雲が若干晴れ、後ろにある星が見え始める。 「天気予報ではね、そろそろ晴れるはずだったんだけど・・・・・・、時間通りだね」 彼は携帯電話の天気予報を見ながら言った。え、さっき明かりもってないって。 「あ、からくり、気づいた? さっきどう答えようか間が空いたのが失敗だったなぁ。 ま、見ていてよ。すごく綺麗だから。だから起こさなかったんだから」 と彼の言葉はわたしを無視して通り過ぎた。 わたしが唖然としながらも雲はどんどん風に流されながら晴れていく。そうして数分のうちに風景が変わった。 もちろん暗くて手も足も出ないくらいだから、周囲には明かりという明かりはない。もとより田舎なここでは街頭もあんまりなく、とくにこの周囲にはまったくないのだ。 そのためか雲が完全に晴れたころにはわたしはびっくりとした。 この場所に引っ越してきてから2年ほど過ぎていたが、これほどの夜景を拝めるとは思いもしなかった。周囲に明かりがないことが幸いし、星の光が完全な状態で現れる。 満天の星空。ひとつひとつの星屑たちがそれぞれに何かを形作りながら、天空に散らばっていた。ガス状の綺麗な星雲が実際に眼に見えそうな感じだ。 彼は得意げに星座の説明をしていたが、なぜかそれはわたしの耳にはあまり入ってこない。この星空がとても綺麗で、なにもすることができなかった。何かすると壊れてしまいそうで、そんなこんなで、ただ見入るしかなかった。 それから一時間ほどして、彼がひとしきり星座の説明をし、それをわたしが全く聞いていないと気づくと彼はそれ以上の説明をやめ、静かに空を見上げる。 ふと隣を見ると、彼の顔がなぜか神妙な面持ちになっている。ふと彼が手を伸ばしたかと思うと星をつかもうとするような動作をして、そして何をするでもなく握り締めた。 「本当はね、僕って、星がだいっきらいだったんだ」 突然の彼の吐露に聞き返すことができなかったが、彼はそれでもお構いなしに続ける。 「星ってさ、手が届きそうな感じがするくせに、絶対に届かない。その距離感が、どうしても嫌いだった。矛盾するだろう。近そうなのに、遠いって。あの星だって、ほんとうは光の速度で何十億年って遠くにあるんだよ。今見ているこの星たちは、ひょっとしたら、今はもう存在していないかもしれないんだ」 彼はため息をつくと、 「わかるかい?」 と聞いてくる。 わかるかも、しれない。何かに届きそうで、そして届かなくて、その距離感に打ちのめされたのは、一度じゃない。二度でもない。何度もある。 「でもね、今は違うんだよ。こんな風に、どうしようもないくらい、遠くにあって、絶対に手に届かなくて、それでも届かせたいと思ってるけど、でも、綺麗だから、それで良いじゃないかって」 絶対にできないこと。絶対に届かないモノ。それに直面したとき、わたしに唯一できることは、何だろう。それは、おそらくその状態を受け入れること。あきらめること。わたしがこれまでしようとして、そしてできなかったこと。それを受け入れてしまうと、何かが壊れてしまいそうだったから、できなかった。 おそらくその類のものは、自分の力ではどうにもならないことだ。あきらめるしかない。だからといってあきらめて良いわけではないけれど、彼を見ていておもう。 あきらめるという決断は、これからもわたしに強いられてくるのだろう。夜空に舞う星のように。 「さぁ、帰ろうか」 と彼はナップサックから懐中電灯を取り出すと明かりをつけようとした。 「もってたんなら、どうして言わなかったの? 最初に」 「だってそのほうが面白そうだと思ったし、恐怖におののくナギちゃんの姿を見れると思ったし・・・・・・、 あれ?」 ? 「どうしたの?」 彼は懐中電灯を振ったり、電池蓋をはずして電池を入れたり出したり、プラスかマイナスかをチェックしながら何度もスイッチをオン・オフさせていた。 「もしかして、もしかしなくても、電池切れ?」 「かもしれない」 「あ、でもケータイは?」 彼は思い出したようにポケットに手を突っ込むと携帯電話を探り出す。 「あ、そういえばこれ、バッテリーがそろそろ寿命で、買い換えようかとおもっていたんだけど、やっぱダメなみたいだねぇ」 「ダメって、何が?」 「すぐなくなっちゃうんだよ。充電してもね」 彼は画面がブラックアウトした携帯電話を突き出した。 「でもここまで早くなくなるなんて、意外だったなぁ。次からは気をつけないと」 彼は笑いながら、でも多少困った表情で答えた。 星明りがあるとはいえ、葉っぱで隠されている下部分は暗闇に等しかった。ひとしきり笑った後で彼は緩んだ顔で 「でも、まぁ、何とかなるよ」 とわたしの肩をかるくたたいた。わたしは再び夜空というダンスステージに舞い散る星屑たちを見上げた。
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本当はどうにもならなかったのだが、わたしたちはそのまま朝まで居ることにした。彼が言ったとおり、この星空はとても美しくて、そして悲しい色をしていた。わたしたちはそれに見入るばかり。 朝の4時ごろになって周囲が若干明るみ始めたので、わたしたちは恐る恐る木をおり始めた。早朝であったため周囲には人影ひとつない。散歩している人も、犬を連れている人もいない。ただ時折スクーターのエンジン音が微かに耳に届いたかと思うと、すぐに静かになる。 そして、それぞれの家にたどり着く。彼の家はわたしの家の隣だった。入る際、彼が、 「じゃ、今日もがんばろう」 と言った。 「受験はあなただけだから。あなたががんばって」 わたしのそんな言葉に 「そんなぁ。すこしは励ましの言葉でもほしいなぁ 」 と言った。 「知るか」 わたしはそう答え、 「つれないなぁ」 とだけ彼はぼやくとそれぞれの家に入る。わたしはベッドに入り込むとそのまま寝入った。 次に眼が覚めたのはその日の1時ごろ。いつものように彼がわたしの家に家庭教師しにきていたころだった。 頼んだつもりはないのだけどね、と思いながらもその理由は理解していた。 彼曰く、教えることは難しい。だから勉強になるんだ、って。 きっと、そうなのだろう。でもわたしは教えられる側なのでよくわからない。
Wanderes on the planet. -fin
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