雑 踏
大通りで地下鉄を下車した。 混雑しているホームの、人波に隠されたどこか遠くで子供の泣き声がする。 何気なく、探そうとすると、目の前にいる人々の顔が目に飛び込んできて、 私はあわてて下を向いた。 泣いているのは、遠くにいる子供ばかりではなく、 つんとして擦れ違う他人の中にいる誰かかもしれないと、思った。 こんなに沢山の人が溢れている。 誰も知り合い同士はなく、肩を触れ合わないように間を保ってぞろぞろと動いている。 地下鉄が滑り込んで、降りて来る人々、乗り込んでゆく人々。 ひじを少し動かすだけで触れてしまうほど近くにいる他人。 目の前の人が黙って泣いていても気づかないで擦れ違う。 静かにざわつく雑踏の奥から、かすかに別の音が聞こえる。 風が何かを運ぶような音・・・・風が砂を運ぶ音だ。 音が聞こえて私の頭の中で一瞬にして人々は砂粒に変わり、 ホームはまるで砂漠になる。 私は砂丘の向こうを目指すような気持ちで、ホームの階段を登った。 夢はまだ持ち続けている。 ──気持ちのいい朝に目覚めて、 大きな窓を開けると小さな丘とその向こうには海。 眠っていたときのTシャツのままで、素足のままで、すぐに大きな絵を描きはじめる。昨日の夜中の続きの。 そしてたまに会う、優しい笑顔の友人── 毎日心のどこかで叫んでいる。声にならないように気をつけながら 夢をつぶやいている。 だから、おかげで、毎日、 ほんのすこしづつ傷ついているような気もする。 叫びだしたら隣を歩く他人さえ遠ざかってしまうかもしれないから、 声に出せないけれど、 恐ろしいほうの未来を蹴散らそうと、心で叫んでいる。 泣き出せば流れてゆく人波が崩れて、 押しつぶされて埋まってしまうかもしれないら、 声に出せないけれど。 ときには、叫びながら、それでもまだ追っている。 こんなに懲りずに、なりたい自分になろうとする気持ち、 これはどこから来るのだろう。 同じ思いを抱く人が、私の友達の中に、ひとりいる。
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大粒の雪が降っていた。 地上にあまり人はいなくて、寒くて肩をすぼめながら、 私は約束の店へ向かった。 「ひさしぶり!」 千佳は昔と変わらない笑顔で言った。 誰が今どうしているか、誰が行方知れず、そんな話を続けた。 「それにしても、朝子は変わらないね」 千佳がほおづえをついて言う。「私なんてさ、 結婚してすっかり老けちゃったでしょ? 子供までいてさ。 こうして並んでいると、私は完全におばさん。朝子はお姉さんって感じ」 千佳は喫茶店のウィンドウに映る二人を見てくすくす笑った。 「そんなに変わらないよ」 千佳の視線に誘われて、私も窓を見る。 雪を肩や頭にのせて歩いて行く人々。 信号の色がぼんやりと景色を変える。 ねえ、今、素敵な笑顔なのは、幸せなのは、 「千佳」あなたのほう。私ちょっと疲れてる。 「え?」 「別に」 「朝子ってばなに、へんなの」 あのね、ところであなたの兄貴、元気? 実はずっとあなたの兄貴が好きなんだ。 どんなに喧嘩をしても彼と一生つながっていられるあなたは不思議な人。 私は言う。 「そういえば、真二に偶然会った。二回も」 「え、兄貴に? いつ?」 「ずっと前。ほんと、ずっと前に。結婚したんでしょ? ばったり会ったときに、もうすぐ結婚するって言ってた。随分前だよね」 「それがね、兄貴、結婚してないの。正確に言うと、一度結婚したんだけどね」 「別れたとか?」 「そうなの。兄貴ってさ、だいだい結婚に向いてるような奴じゃないでしょ」 「そうかもねぇ」と、私は笑う。 「朝子と同じでさ」 「同じ? どこが? 別れたってことが?」 私は笑いながらそう言った。 「自分のことが大切なところが同じ。 そんなこと朝子が知ってることじゃない。あの頃、いつも言ってた。 あれって正しいよ。最近つくづくそう思う」 ねえ千佳、あれ、本当にあんたの兄貴? 信じられない! 真二さんってあたしと似てる! 違うよ、顔が、じゃなくて感覚が! そんなことを私は嬉しそうに言っていた。 みんなまだ学生だった。もう十二年も前のこと。 初めて彼を知った時のこと。 「自分が一番大切なのよ、 自分がやりたいことに正直でさ、朝子も兄貴も。 私にはそれがとてもうらやましい、いつも。本当に」 そう、真二は自分に正直な人。 「ああ、会いたいな」 「会いに行ってみたら?」 「え、こっちにいるの?」 千佳はバックからボールペンとアドレス帳を取り出して、 傍らにあった紙切れに、住所と電話番号を書き写した。 ▽
自分に暗示をかけて、彼に会いにゆく。 私はもう大人になった。 あの頃のようにはしゃいだりしない。 自分に自信を持っている。 コンプレックスの隠しかたを知っている。 私は大人になった。 子供みたいな夢を持ち続けることでも大人になれた。 意外なことだけれど。 「あれ、朝子?」 真二は店のドアをくぐった私をすぐに見つけた。 「こんにちは。ひさしぶり!」 でもね、きっと私は、 「あいつに聞いたの?」 「そう、千佳にね、聞いた」 でもね、きっとあなたは、 「どう? 元気だった?」 「うん、ずっと元気。真二も元気そう」 「ま、ね」 なつかしい答え方、しぐさ。 でもね、きっと変わらない。 はじめて会った日から。ずっとタイミングが合わなかった。 あなたに彼女がいた日、私はあなたに電話をかけた。 私が恋人といた日、あなたが電話をくれた。 きっと、ずっと一生そういう二人。 「五年ぶり、くらい? で、まだ描いてる?」 「やってるよ、真二は?」 「やってる。バイトで食ってるけど」 「でも将来は誰よりも?」 「誰よりも大きな幸せを掴む!」「掴む!」 昔からの合言葉。 「そうか、まだあきらめてないのか朝子も。 しつこい性格してるよな、お互い。 夏だったかな、会いたかったんだけどさ、 あんまりヒマでさ、思い出してたんだけど」 「夏? ふうん、最近は?」 「最近は、すっかり忘れてた」 「あたし、夏は全く思い出さなかった」 「だよな、どういう回転してんだろう」 「回転?」 「回転。なんちゅうか、お互いの人生の回転」 「人生!」 「もう大人だぜ、おれらは。人生だよ。人生」 私があなたと、少し恋がしたくて、今日ここに来たのを、 多分あなたは知っている。 気持ちを知られていても、どうってことない。 あなたがこたえてくれなくても、恥ずかしくはないしみじめにもならない。 ずっとずっと何回も繰り返して、 不思議な、こんな気持ちをお互いが持ったり持たれたり。 あなたに対しては子供みたいな素顔になる私を、 誰が笑ってもあなたは笑わない。 ああ、そうだった、ここでは暗示もプライドもいらない。 「悪い、そろそろ戻らなきゃ」 真二は雪の降り始めた窓の外に目をやって、また私に向き直る。 まぶたの動きが千佳とそっくり。 そして小さなためいきをつく。 ゆるやかな時間がずっと続いて、ずっと向き合って、 ためいきを思い切り、つき続けていられたらいいのにね。 「またね、いつか」 笑って、またね。いつものように。 また繰り返す、心強くなれる、あなたと私。 「また会おうな、いつかな」
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硝子のドアを出て、白い息を吐いて歩き始めた。 私は胸を張って、吹雪でも砂漠でも渡ってゆくつもりだよ真二。 ためいきをつきながら深呼吸をして、吐き出して、 吸い込んで、歩いてゆく。 誰も知らない国に行きたいと思うのは、誰も知らなくて当たり前だから。 だけど、ここで、取り合えず頑張るつもり。 真二に会えた。また会えた、きっとまた会える。 向かっている私たち、それぞれに自分の夢に必死で。 負けるもんかあ! 青春ドラマみたいにふざけたふうに部屋で叫んで、 三日にいっぺんひとりで笑っている。 きっとあなたもそうだろな。
ねえ、いつか思い切り褒め合える。 「よくやったな!」「よくやったよあなたも、まったくね!」「ソンケー しちゃうなあ、おれ」「いえいえ、私こそ」 私が別の恋をしても、あなたはそこにいる。 あなたが別の恋を見つけても、私はここにいる。 いつでも。 地下鉄のホームに立ち、 気がつくと、心の中だけのつもりだった歌が、 一小節、音になって口から出てしまっていた。 横にいる女の人は文庫本から目を放さないでいてくれる。 私は自分で驚いて、 知らぬふりの人のやさしい横顔を少ししつこく眺めたあと、 まあるい形の天井を見上げた。
END
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