この部屋には、朝、がない。窓には雨戸がはめられているし、私が起きるのが昼時だからでもある。カーテンやブラインドならまだしも、ホテルに雨戸がある、というのは珍しいと思う。 だからこの部屋は、いつも明かりをつけてはじめて一日が始まる。といっても、少し果物を食べて、本を読んでいるとすぐに眠くなってくるから、長くても三時間くらいで終わる。私が眠っている間にホテルの人たちは、洗濯をしたり、掃除をしたり、もうひとつのベッドを整えたりするわけだ。一人なのにツインに泊まっているのは、つまりそういうこと。といっても、二段ベッドだから設置面積はシングルとそう変わらないだろう。 二段ベッドは私の要望だった。 そんなものは本来ホテルにはない。山西さんは無理を言って通販で買った二段ベッドを置かせてもらった。これで私は天井近くでも、上に上がるのが面倒なときでも、楽に寝られるようになったわけだ。こんなことは鉄パイプのハイベッドでもリゾートっぽい天蓋つきのベッドでもできない。 今日は上で目覚めた。クロス張りの白い天井は起き上がると頭をぶつけそうな高さで、実際頭頂をこすったりこすらなかったりする。そのせいか、最近抜け毛が多い。二段ベッドの横にははしごではなく積木を積んだような階段がついていて、中はくりぬかれて図鑑と写真集が入っている。
「彼女はかの賢者に勝るとも劣らぬほど望むことをしない。基本的に、彼女の欲望は眠る環境だけに向かうらしい。高尚な思索も低俗な野心も彼女の口からもれたことはない。知識はある。理解力もある。しかしそれはどこかを浮遊する夢幻のように扱っている節がある。板についていない。彼女の血肉になっていない。」
コットン百パーセントの寝巻きを脱いで、部屋着に着替えた。灰色を主体にした服たちは長いこと愛用しているおかげですっかり体に馴染んでいて、新しいものを買う気を起こさせない。女というものは潜在的に着飾ることを好むようにできていて、季節が変わるごとに服を欲しがるものだと山西さんは笑うけれど。 実際、山西さんの服装は華やかで目が痛くなるほどだ。毎回違う、赤や黄色や緑の服を着ているし、腕や足や胸元の、どこかが光っていないことがない。長い髪は上げたり下ろしたりしていつもスプレーで固めているし、淡い茶色の粉を顔にはたいていて、赤みの強いオレンジで口を塗っている。だから食事中には会いたくない臭いで満ちている。 昨日の部屋着でもあった寝巻きは、下着と一緒にかごに放り込んで置いておけば、寝ている間に洗濯されてクローゼットに入っている。鏡の前で、もう何年も短いままの髪を梳く。山西さんいわく「嫉ましいほど」白い肌が鏡に映って私の琥珀色の目に入る。昨日湯にくぐらせたせいか、いつもより透明度が上がっている。 私はあまり入浴しない。本来感心できないことであるらしいけれど、それよりも私は眠りたい。時には着替えてすぐ眠ってしまうほど、眠くて、眠くて仕方がなくなるのだ。 それでも今日は空腹が勝った。私の部屋の冷蔵庫にはいつも果物が用意してある。切り分ける必要のあるものはきちんと切ってからおいてある。食べればなくなるし、食べなくてもいつのまにかなくなる。そういうことになっている。
「彼女の命は植物によって維持されている。肉や魚は目に入らないようだ。つまは残さず食べているのに、刺身にはまったく手をつけていないことからもそれがわかる。摂取量も最小限で、食べずに眠ることも多い。元来の性格もあるのであろうが、眠ることに特化することによってほとんどの欲望を切り捨てているようだ。」 今日は昨日のぶどうがまだあるはずだったのに、中には梨しか入っていない。昨日全部食べたのかしら。わからない。わからないのなら、もう考えない。 検査と同じだ。この部屋よりも白い衣を纏った人間たちは、どこかの<今日>唐突に現れる。山西さんは毎回、昨日言ったでしょう、と言う。確かに明日検査がある、と言うことは聞いているけれど、今日は<今日>で<明日>ではない。だからいつも困惑する。 なぜいつのまにか明日というのが来ているのかわからない。なぜ明日と今日が一緒になっているのかわからない。それにわかってもわからなくても、検査は行われるのだ。 私は梨をひとつつまんで、冷蔵庫の扉を閉めた。一人がけの白いソファに、体を埋める。 食べ終わったら、また夢の続きをみることにしよう。
「再三繰り返すことだが、彼女は実によく眠る。しかし、睡眠時間は一様でなく、四十時間以上眠っていたこともあれば、三十分ほどで目覚めたこともある。そのためか、こちらとは時間の概念が違うらしい。彼女の言う『昨日』『今日』とは、目が覚める前と後を指すため、私の今日が彼女にとっては『昨日』になっていることがよく起こる。彼女と私の間には他にも分かり合えない些細な溝があるのだが、彼女は答えのないものを考えるのが不得手らしく、メンタル的なことはほとんどわかっていない。」
梨の汁がついた指をなめていると、部屋のドアが開いて白衣の人間たちが入ってきた。私が眠そうなのを見て、彼らの目の色が変わる。また寝ている間に検査しようとしているのだろう。妙にてらてらと光る黒いかばんからさまざまな筐体を出してくる。私は明確に起きているとわかるよう目を開き、背筋を伸ばした。 昨日より前のことは全くと言っていいほど覚えていないけれど、あの検査だけは忘れられない。 私は白いもやに囲まれた世界に浮かび、知っている誰かの繰り言を聞いていた。人を煙に巻くような、そのくせ納得もできる思念は常に一方的に私に与えられていた。比喩も訓話も解説もなしに。けれども私はそれがはじまりと終わりを語っているのだと耳にしたときから感づいていた。文明だけでもなく、生命だけでもなく、宇宙だけでもなく、ただ始まりと終わりを持つ全てを指した楽の音だった。それは肌に染みとおり留まるのではなく、私の頭から腹部を通り足先を抜けて、滞りなく流れていった。まるで川の中を転がる一本の管になった気分だった。 けれど、あの検査が行われたとき。霧のような煙のようなその白いもやの中を細い雷が幾筋も走った。歪みがあるのだ、と私は直感した。それが私のせいであることも。 いつの間にか、知っている誰かはその手に細剣を握り、私ののどに狙いをつけていた。あるいは顔であったかもしれない。 刹那、私は目を覚ましていた。のどに冷たい感触があり悲鳴を上げかけたが、それはコードの先端にすぎなかった。 その日は何時間も眠れなかった。
「先月の検査の結果、彼女はレム睡眠が異常に長いことが判明した。さらに、計測が正しければだが、レム睡眠のさなかからノンレム睡眠なしで覚醒した。その後は検査機をつけようとするたび、拒絶するように彼女が目を覚ましてしまうため、詳しいことはわかっていない。彼女は睡眠中の検査を頑固なまでに嫌っている。精神科医が夢の内容について聞こうとするのにも、黙秘を通しているらしい。以前は気まぐれに夢の断片を話してくれていたが、私にも口を開かなくなった。」
白衣を着た人間は毎回性別から年齢から違うのに、やることはいつも決まっている。表情筋が動かないところまで。 白衣の人間たちは全裸で仰向けになった私の数箇所に麻酔を打ち、堅くなった皮膚を剥いでは消毒するのを繰り返している。これで肘やひざや指を深く曲げやすくなる。さらに現れたばかりの柔らかい皮膚から赤い体液を抜き取っていく。これは後で別の場所で検査するらしい。聴診器を表と裏に当て、腹のあちこちを手で撫でる。最後に私の爪の長さを測って記録する。もう何年も変化はないのに。 それは作業だった。最初から最後まで一切の感情が動かないルーティンであることを、彼らはいつからか隠そうとしなくなってきていた。不治の病であることを濃厚ににおわせながら、希望も絶望も明確に言葉にしないことを、今更どうこういう気はない。満足のいく衣食住の環境を全て他人の手がやってくれる、始まりと終わりを聞きに行くための準備を完璧に整えてくれる、こんなにやさしい所でも現実には違いないのだから、多少の不具合はしかたがない。 検査が終わるとひどく疲れるので、白衣の人間たちが帰ると同時に下のベッドに転がり込み、すぐに寝てしまった。カーテンをきっちり引くことだけは忘れなかった。
「彼女は植物よりも無機物に近い存在になりつつある。人形症、といったところだろうか。このような症例はデータが少なく、ほとんどは死体に関するものだ。硬化した肌を剥ぐことが正しいかどうかですら定かではない。検査班によると、彼女の皮膚組織は自然分解されず、死後も永遠にその姿をとどめる可能性が高いらしい。彼女は年々動きが鈍くなり、腹痛を訴えることが多くなった。消化促進剤を飲ませて様子を見ているが、内臓まで硬化してしまった場合打つ手がない。こういった体調のせいか一回ごとの睡眠時間は減っているが、回数が増えているため総体的には眠っている時間のほうが多いだろう。最近では目を覚ましたときに私が訪れていても、すぐに目を閉じるようになってきた。私は時折、彼女が自身の肉体に閉じ込められている現実を嫌い、眠りに執着していくかのような錯覚を受ける。」 そこまで書いて、山西はペンをノートに挟んだ。ここに来るたび、彼女は場違いだという想いを消せない。壁も雨戸も彼女の座るソファも、完璧な白さを誇っている。ほとんどを夢の中で暮らす「彼女」にはふさわしいようでもあり、そうでないようでもある。それでも打ち砕き切り刻み全身の体液で汚したくなる衝動は常に、山西の中にあった。 欲望を果たす代わりに、山西は干からびた梨を空のくずかごに捨てた。落下音を聞いた瞬間、彼女の胸には奇妙な征服感があった。
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