4−1
数日後。 数馬が、木戸に立つようになってから、 門前町に争いごとはまったく起こらない。 心強い用心棒の役割をしっかりと果していた。 本人はそれには気づいていなかった。 そして、行灯に火が灯されとっぷりと日が暮れてきた。 街道筋には提灯が吊るされ、幻想的な風情となっている。 置屋の芸妓さんたちの出入りが激しくなり、 芸者の、お欄姐さんたちは、お座敷がかかり全員で払ってしまった。 「今晩もみんなよく稼ぎますな」 留蔵が、数馬のところへやってきた。 「あっ、留さん。いつも、気づかってくれて、かたじけない」 「数馬さんのお蔭で、みんな大助かりですからね。 お礼を言うのはこっちの方ですよ。 ところで、お珠ちゃんが、同行してほしいと言っているよ」 この留蔵。 何かと、お珠に気遣っている。 そう、言えば以前に、こんな事があった。 留蔵が、隠密侍と何やら話をしているのを、見かけたのである。 脱藩藩士が、ここにいることを、黙っているのも留蔵の計らいであり、 それよりも、白木屋、門前町横丁に案内してきたのも、留蔵であった。 数日間の付き合いで、この留蔵がどんな人間かは理解できていた。 何か隠し事をしているとしても、悪い企みではないのだろうと、 数馬は、黙っていた。 「お嬢様に、お座敷がかかったのですね。 それじゃ、もう半玉さんじゃなくて、りっぱな芸妓さんですね」 「いやいや、それが、あの口三味線がお武家様に大評判で、 お武家様に呼ばれてのことらしいですよ」 「いったい、なんていう屋敷でしょうか」 「池田屋敷だそうです」 「い、池田……」 「どうしたんです。顔が真っ青ですよ」 「留さんも、いっしょに来てもらえませんか?」 「えっ、おいらがお屋敷にですか?」 岡山藩の藩士たる一ノ瀬数馬は、 亡き藩主の娘であるお珠にお供し、 使えているお屋敷に呼ばれていくなどと、 考えもしていなかった。 それも、口三味線とは、 お嬢様を侮辱するのではないかと、数馬は肝を冷やすのだった。 お珠とて、同じ思いだった。 揚羽蝶の着物を着て、藩の汚名と叱られるのではないかと、 意気消沈している。 絶体絶命の自体だと感じていた。 今晩は、薄化粧ではなく、しっかりと白粉を塗り、 紅を美しく引き、りっぱな芸妓の化粧をほどこしていた。 「さて、そろそろ、出かけましょう」 置屋のおかあさんが、火打石をカチカチと鳴らしてくれる。 先頭をあるくのは、棟梁の留蔵。 手を引かれながら、裾を持ち上げて歩くお珠。 それに続く、口三味線の半玉さんのお里、お染音だ。 最後に提灯を持った数馬が用心棒として、付き添っていった。 「隠密侍と、留蔵が話していたのは、お嬢様を藩邸へ呼んだのだな」 数馬は、留蔵が密通していたのではないことが、これで、分かった。 「およねさん。数馬様をこちらに……」 お珠は、か細い声でおよねに言う。 およねは、大声で数馬を呼んだ。 お里、お染音の後ろから、提灯を持って付いていた数馬は、 お珠の所へ駆け寄ってきた。 お珠の声があまりにも小さいので、 数馬は顔を近づけて聞き取ろうとしている。 「屋敷に着いたら、きっと、捕まってしまいます。 わたしを連れて逃げてもらえませんか……」 数馬は、ドキッとした。 やはり、お嬢様で間違えないと確信した。 どうやって、逃げるか数馬は考えていた。 お蔵の向こうには、大川(隅田川)が見え、 そこには、舟が浮かんでいる。
4−2
ここで、お珠を連れて、逃げてしまっては、 親切にしてくれた留さんや、みんなにどう説明したらいいのやら、 数馬は苦悶の表情で、前を歩く留蔵や、後ろのお里、お染音を見やっていた。 「ちゃんと理由を、言ってお屋敷をお断りしたらいかがなものですか?」 「それは、できませぬ。わたくしの素性が分かれば、必ず、引き渡されます」 お珠の祖母、備前岡山藩の初代藩主の妻は、徳川家康、権現様の二女。 督姫様である。 お珠は、徳川家の督姫様の血を継ぐものなのだ。 万が一、その素性が分かれば、長屋のみんなは、自然に振舞えないだろう。 一番堀を過ぎ、二番堀へ、 そして、三番堀。 堀は八番まであり、その向こうに池田屋敷へと続く。 小さなふたつの橋が架かっている。 それを渡れば、池田屋敷の表門に出てしまう。 その距離、数100メートルである。 留蔵や他の半玉さんたちを残し、お珠を連れて逃げることができるのか。 そして、八番堀までやってきてしまった。 池田屋敷の表門の両端に詰め所があり、藩士達が、見張りをしている。 化粧をほどこした芸者の姿のお嬢様を見ても誰も 珠姫様であるとは、思いもよらないだろう。 それより、数馬の方が危ない。 何しろ脱藩をしているのだ。 脱藩は当時は、重罪。 見つかれば、牢に入れられ、厳しい仕打ちがされたものである。 一行の後ろから、ひとりの侍が近付いてきた。 橋の手前から追い抜き藩邸に入っていこうとして、また、戻ってきた。 それは、片桐家老その人だった。 「もしや、珠姫君では……」 留蔵も、半玉さん、およねも、悲鳴に似た声を上げた。 数馬は、提灯の火を吹き消し、お珠を抱きかかえると、 そのまま、橋から飛び降りたのだ。 数馬は、橋の下に舟があることを、確認していて、 橋から飛び降りる機会を狙っていたのだ。 「であえ、であえ、みなのもの!」 片桐の大声で、藩士達や、辻番の侍までもが集まってきた。 全員が提灯で河面を照らすが、お珠と数馬の乗る小舟はは音も立てずに、 河を渡って離れていった。 数人が舟に飛び乗り、ふたりの後を追おうとするが、 すでに、ふたりの乗った小舟の影は見えなくなってしまっていた。 暗がりから一人の侍が、慌てて飛び出してきた。 それは、隠密侍である。 「奴は、一ノ瀬数馬でござる。 そして、珠姫様の素性を知っており、 ずっと、仕えていた様子。 珠姫様が一ノ瀬に逃げることを所望したと思われます」 「姫が、なぜ……とにかく、このものたちを屋敷に連れて参れ」 留蔵や、半玉さんたちは、池田屋敷へと連行されていった。
4−3
大川の流れに乗り、数馬とお珠は両国橋に差し掛かっていた。 大伝馬町、通旅籠町、通油町、江戸初期からの幹線道路なのである。 両国橋の両岸は江戸屈指の盛り場であり、大変賑わっていた。 数馬たちの船は暗がりだが、提灯の灯が無数に河面を照らす。 池田屋敷の藩士たちは、大川の両端から船を探していた。 御蔵からも数隻の小船が追って来ていた。 しかし、暗がりなのと、停泊している船の数の多さに、 それらに、まぎれてしまっては、探しようがなかった。 お珠と数馬は、舟底に伏せて、河の流れにそって両国橋を過ぎてから、 支流に入っていった。 永久橋、箱崎橋を潜り、日本橋川に入っていった。 ここまで、くれば藩士達からは、逃げ切れたと感じお珠が、声を出した。 「数馬様、ほんとうにごめんなさい…… わたしのために巻き添えにしてしまって……」 「いいえ、お嬢様。拙者、脱藩の罪で裁かれる身、逃げたのは己心故」 「岡山藩士でしたの。それで、わたしに献身的に尽くしてくれていたのですね」 「そうでは、ござらぬ。お嬢様が芸妓になるために、 一生懸命に励んでいるのを見て、手助けがしたくなりました」 「数馬様が、一緒にいてくれて心強いわ」 「当面、この江戸で隠れ住むことにしますか」 「ただ、数馬様に心に決めたお方がいるのが、残念です」 「拙者の許婚。お香といいます。 でも、お香の兄上を、剣道場の試合で殺めてしまったのです」 「そ、それでは、仇と狙われているのですか?」 「お香には、その時以来、会っていません。 兄上を殺めた男が、どの面下げて会えるものでしょうか。 拙者、その足で江戸詰めを、申し出た次第。その後の事は何も……」 「お香さんの家は、お取り潰しになってしまったのでしょうか?」 「きっと、そうだと思われます。男子無き場合、お家は断絶となりましょう」 舟は、高い塀に囲まれた場所へと流れてきた。 船着場のところだけが途切れていて、小さな木の階段が組まれていた。 そこから、ふたりは上陸し、木戸を開けて中に潜り込んでいった。 そこは、吉原の遊郭地帯であった。 元吉原は、江戸後期の松島町、現代の日本橋人形町あたりである。 「お嬢様、ここは賑やかな場所でござるな」 「夜に、こんなに明るい場所があるなんて、まるで昼のようです」 数馬と、お珠は、身をかがめながら、 人波に潜り込んでいった。 押し合いへし合いの人ごみの中。 格子の窓から手を出す女郎。 「旦那様。遊んでいかれへんの」 窓から出して手で着物を引かれ、数馬はビックリした。 「まっ、女連れで遊郭に来るなんて、随分とお暑いこと」 「お前たち、そこで何をしているのだ」 数馬は、素朴な疑問を、女郎になげかけた。 「旦那、寝言は床の中でお言い。 わちきら、体を売っているに、決まっているわいなぁー」 「あなたたち、好きでもない人とそんなこと……」 「あんた、芸者かい! あんたの来る場所じゃないよ。さっさとお帰り!」 「行きましょう。数馬様!」 女郎は、芸者が大嫌いなのである。
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